南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 元凶劭
劉劭(字休逺、426–453年)は宋文帝の長子。皇太子に立てられたが、始興王濬とともに女巫嚴道育を用いた巫蠱に手を染め、発覚を恐れて父文帝を弑逆し即位、「太初」と改元した。実弟の孝武帝の討伐を受けてわずか数ヶ月で敗れ、誅殺された。宋朝最初の弑逆者・簒奪者として知られる。
年表(9件)
- 元嘉三年閏正月426年文帝の長子として誕生が公にされる
- 元嘉二十七年450年文帝の北伐に反対し、江湛・徐湛之と不和になる
- 元嘉二十八年451年彗星出現など凶兆が続く
- 元嘉三十年二月453年巫蠱の露見が深まり、文帝が劭の廃嫡と濬への死を決意
- 同日文帝を弑逆し即位、太初と改元
- 同年南譙王義宣・孝武帝の挙兵の報に接し防戦を図る
- 元嘉三十年二月二十一日夜453年偽詔で兵を集め東宮兵を率いて入朝
- 五月三日王羅漢の降伏で台城の守りが崩れる
- 五月四日武庫の井戸に隠れていたところを捕らえられ斬首される
文帝十九男
- 文帝の十九人の子。元皇后は元凶劭を、潘淑妃は始興王濬を、路淑媛は孝武帝を、呉淑儀は南平穆王鑠を、髙修儀は廬陵昭王紹(廬陵孝獻王義真の後継に出す)を、殷修華は竟陵王誕を、曹媫妤は建平宣簡王宏を、陳修容は東海王禕を、謝容華は晋熈王昶を、江修容は武昌王渾を、沈媫妤は孝武帝の弟にあたる明帝を、楊羙人は始安王休仁を、邢羙人は山陽王休祐を、蔡羙人は海陵王休茂を、董羙人は鄱陽哀王休業を、顔羙人は臨慶冲王休倩を、陳羙人は新野懐王夷父を、荀羙人は桂陽王休範を、羅羙人は巴陵哀王休若を生んだ。
出自と巫蠱
- 劉劭(字休逺)は文帝の長子。文帝即位直後の諒闇(喪中)に生まれたため秘され、元嘉三年(426年)閏正月にようやく誕生が公にされた。歴代の人君は即位後に嫡子が生まれた例が乏しく、劭の誕生は異例とされた。
- 生後三日、簪帽が風もないのに劭のそばに落ち、文帝はこれを喜ばず、「劭」の字を「召」+「刀」と見て不吉とし「刀」を「力」に改めさせた。六歳で皇太子、十二歳で元服し東宮に住した。史書・弓馬を好み、長じては美しい鬚眉と大きな眼、方口・長身の偉丈夫となった。
- 東宮の兵力は禁軍羽林に匹敵するほどとなり、彭城王義康・竟陵王誕・桂陽侯義融らを従えた。二十七年(450年)文帝が北伐を計った際、劭は蕭思話とともに固く諫めたが聞き入れられず、魏の太武帝が瓜歩まで迫ると文帝は憂色を示し、劭は「江湛・徐湛之を斬らねば天下に申し開きできない」と述べたが、文帝は北伐が自らの意志であり両名の罪ではないとした。これにより劭・濬と江湛・徐湛之は不和となった。
- 文帝が農桑を奨励し宮中で養蚕をさせていた折、女巫嚴道育が東陽公主の婢王鸚鵡を通じて公主と劭・濬に取り入り、「天神が符を賜う」と偽って霊験を演出し、劭・濬は深く信じた。始興王濬は劭に阿附し過失を隠すため道育に祈祷させ、これがやがて巫蠱(呪詛)に発展し、玉で文帝の像を刻んで含章殿前に埋めた。
- 東陽公主の奴陳天興と鸚鵡の私通、寕州献上の黄門慶國も巫蠱に関与。劭は天興を隊主に補し、公主薨後に嫁ぐはずの鸚鵡を露見を恐れて濬府佐の沈懐逺に妾として嫁がせ、事が発覚しかけると劭・濬は書簡で口裏合わせを図った(書中では文帝を「彼人」、江夏王義恭を「佞人」などと隠語で呼んだ)。
- 鸚鵡が天興との私通の露見を恐れ劭に殺害を頼み、劭は密かに天興を殺させたが、慶國の証言から発覚。文帝が鸚鵡の家を検めると劭・濬の呪詛の手書と埋められた文帝の像が見つかった。道育は逃亡し捕らえられず、劭・濬は謝罪するのみで、道育は尼に扮して東宮や京口に潜伏した。
- 二十八年(451年)彗星が出現し不穏な兆しが続き、道士范材が予言通りに死んだ後、棺を開けると首に生きた傷のような血流が見られ、江夏王義恭はこれを妖異として恐れた。三十年(453年)正月、大風と雷鳴のなか文帝は謀反を警戒し劭の兵権を増強、二月には濬が上京し道育を再び東宮へ連れ帰ろうとしたが露見しかけ、文帝は劭の廃嫡と濬への死を賜う決意を固めた。
弑逆と即位
- 濬の生母は早く没し潘淑妃が養母となって寵愛したが、濬の心は潘淑妃になじまず、文帝の意向を淑妃から聞いた濬は劭に急報し、両者は謀反を決意した。二月二十一日夜、劭は偽の詔で「魯秀謀反、明朝これを討て」と将士二千余人を集め、東宮の兵を率いて入朝。前中庶子蕭斌・左衛率袁淑・中舎人殷仲素・左積弩将軍王正見らを召して事の次第を告げ、翌朝、劭は朱服の上に戎服を着け輦車で入朝、東宮兵は禁制を破って万春門から侵入した。
- 張超之ら数十人が雲龍門・齋閤へ乱入し、文帝が徐湛之と夜通し語り合っていた無防備な場に踏み込んで文帝を弑逆(文帝は五指を斬り落とされて崩御)、湛之も殺された。劭は合殿に進み、蕭斌に中書舎人顧琛を斬らせ、崇禮闥で吏部尚書江湛を、東堂で文帝側近の卜天与を殺害。潘淑妃も殺され、その心臓を裂かせて「邪か正か」と問い、答えが「邪」だと「邪佞の心ゆえ当然」と嘯いた。文帝の側近数十人も殺され、濬が中堂に召集された。
- 劭は偽位につき、「元凶(徐湛之)を討ち罪人を得た、年号を太初と改元する」との詔書を発した(この年号はあらかじめ道育が定めていたもの)。侍中王僧綽の助言で即位当年の改元を実行、蕭斌を尚書僕射、何尚之を司空とし、諸王・重臣の人事を大幅に入れ替え、王僧綽ら先の廃立に反対した者は誅殺した。文帝には「中宗景皇帝」の諡号が贈られたが、美称は控えられた。
- 南譙王義宣(孝武帝の叔父)が挙兵の報が入ると、劭は諸王を城内に集めて監視し、孝武帝の檄が至ると自ら武を誇示したが、内心では虜(外敵)が動かぬことを恐れるほどであった。義兵に対する軍議では、蕭斌が水軍による決戦を主張したが、義恭・何尚之は持久策を進言、劭は当初これを容れたが蕭斌の強硬論に押され迷走した。
誅滅
- 孝武帝方が新亭に迫ると、劭は自ら朱雀門で督戦したが魯秀の裏切りで軍が乱れ大敗、褚湛之が二子と共に降り、魯秀も南奔した。劭は台城に籠り、大赦を発するも孝武・義恭ら討伐側は除外された。五月三日、王羅漢が油断して降伏、六門は閉ざされ城内は混乱、劭は輦と衮冕を焼かせ、蕭斌以下は降伏、四日には劭腹心の同逆者が誅せられた。
- 程天祚・薛安都・臧質らが乗じて入城、建平・東海ら七王が号泣して脱出。劭は西垣を穿って武庫の井戸に隠れたが捕らえられ、濬は南平王鑠と共に西明門から脱出し越城で江夏王義恭に遭遇したが、結局歩みを止めて自首、馬上で斬首された。劭自身も牙下で縛られ護送され、江夏王義恭・江湛の妻・龎秀之らに責め立てられながらも「弟らを殺したことのみ阿父(父)に負い目がある」と嘯き、牙下で斬られた。臨刑に際し「宋室がこのようになろうとは」と歎いた。
- 劭・濬とその子は梟首され大航で暴尸、劭妻殷氏も廷尉で賜死(獄丞江恪との問答で「これは一時の権謀、鸚鵡を后にするつもりだった」と語った)。濬妻褚氏(丹陽尹褚湛之の娘)は事前に離縁されていたため誅を免れた。伝国璽は道育の所在から回収され、道育・鸚鵡は石頭四望山で鞭殺・焚尸、灰は江に撒かれた。功のあった髙禽は新陽縣男に封じられ、潘淑妃は長寕國夫人を追贈された。偽司𨽻校尉殷沖・丹陽尹尹𢎞も賜死。