南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 江夏文獻王義恭

劉義恭、武帝の第五子(?–永光年間)。幼くして武帝に鍾愛され、文帝・孝武帝の二代にわたり宰輔の任を歴任したが、常に猜疑を恐れ卑屈に立ち回った。前廃帝の代についに殺害され、遺体を凌辱される非業の最期を遂げた。

年表(6件)

出自と諸事

  • 劉義恭は幼くして聡明・容貌端麗で武帝に特に鍾愛された。武帝は倹約を旨とし諸子の飲食は五盞盤を超えなかったが、義恭が果食を求めても際限なく、他の王子は求めることさえしなかった。
  • 元嘉六年(429年)都督荆州刺史。義恭は文義に渉猟したが驕奢節度に欠け、出藩に際し文帝は書を送り「礼賢下士は聖人の訓え、驕奢矜尚は先哲の去るところ。豁達大度は漢の高祖の徳、猜忌褊急は魏の武帝の累い。漢書に衛青が士大夫に礼を以て遇し小人に恩を施すと称されるのに対し、西門豹は性を矯めた、關羽・張飛は偏りが同じ弊をなした。一月の用度は三十万を超えぬこと、能く省ければ美事、賓客への応対を怠らぬこと、訊獄は一二日前に劉湛らと詳論し喜怒で人を裁かぬこと、独断を誇らず善き者に従うべきこと、刑獄は月に二度訊問すべきこと、名器は軽々しく人に仮すべきでないこと、声楽嬉遊は慎むべきこと、佐史との会見を頻繁にすべきこと」と細やかに誡めた。
  • 九年(432年)南兖州刺史・都督として広陵を鎮め、十六年(439年)司空に進み、翌年彭城王義康が罪により出藩した際、義恭は侍中・都督揚南徐兖三州・司徒録尚書事・領太子太傅に徴され、班劒二十人・佐吏兵二十人を置かれた。二十一年(444年)太尉・領司徒に進む。義恭は小心で義康の失脚を戒めとし、総録の任にあっても文書を奉行するのみに徹し、文帝は安心して年に相府銭二千万・その他多くの物を給し、義恭の性が奢侈で常に足らぬため文帝はさらに年千万を別給、五百里馬を献ずる者があった際もこれを義恭に賜った。
  • 二十七年(450年)文帝が河洛への出兵を望み、義恭は総統として彭城に出鎮したが、魏軍が瓜歩に至ると義恭は孝武帝と共に閉城自守。当初上(文帝)は義恭が彭城を守り切れないことを懼れ誡勅していたが、義恭は「たとえ瀚海に臨み居延を渡ることはできずとも、劉仲の逃亡の恥は免れよう」と答え、魏軍が来ると実際に逃げようとしたが衆議によって止められ、驃騎将軍・開府儀同三司に降号された。
  • 魯郡の孔子旧廟にあった古柏24株のうち大きなもの2株が倒れたのを、土人が敬い誰も手を出さなかったところ、義恭はこれをことごとく伐採させ、父老は嘆息した。また南兖州刺史・都督を本官のまま領し盱眙に移鎮、東城を模して館宇を修めた。二十九年(452年)冬に朝に還る際、上は御用の蒼蠻船で迎えたが、太妃の喪に遭い、大将軍・南徐州刺史に改授され東府に還鎮。
  • 元凶が逆を起こしたその日、劭は急ぎ義恭を召した。事前に太子・諸王を召す詔が発せられていたが詐妄による害を懼れて全員に人を付けており、義恭は常の伝詔を求めて劭がこれを送ったのちに入った。義恭の府内の兵仗はすべて台に返され、太保に進んだ。孝武が劭討伐に赴くと、劭は義恭の異志を疑い尚書下省に入らせ、諸子を神獣門外・侍中下省に分けて留めた。孝武の前鋒が新亭に至った際、劭は義恭を挟んで出戦させたため自ら抜け出せず、戦い敗れて義恭は単馬で南に奔った。劭は怒って始興王濬に義恭の十二人の子を殺させた。
  • 義恭は孝武帝の即位を勧め、太尉・録尚書六條事・仮黄鉞を授けられた。事が定まると太傅・領大司馬に進み班劒を三十人に増され、在藩中に着けていた玉環大綬を賜ったが、上は礼を尽くすことを望まず、太傅(義恭)は有司に「天子は拝礼を加える必要はない」と諷し、これが採用された。
  • 太子(孝武帝の子)冊立の際、東宮の文案は先に義恭に経させることとされた。南郡王義宣らの反乱の後、義恭は黄鉞・白直百人を加えられ、事が平定すると臧質の七百里馬を賜った。孝武帝は義宣の乱逆が強盛によるとして王侯を削ろうとし、義恭はその意を汲んで録尚書を省くよう請い上はこれに従った。さらに驃騎大将軍竟陵王誕と共に貶損の格九条を奏し、外に詳議させたところ有司はさらに補足し合計二十四条とした。
  • その大意は、聴事で南面して坐り帳を施さぬこと、国官が正冬に国殿へ跣で登らぬこと、公主・妃・伝令が朱服の輿を用いぬこと、鄣扇を重ねぬこと、雉尾剣・鹿盧形の槊眊を用いぬこと、孔雀・白鷺夾轂隊を用いぬこと、絳色の平乗を用いぬこと、誕馬は二匹を超えぬこと、胡伎は綵衣舞伎を用いぬこと、正冬に袿衣を着る際に化粧を凝らさぬこと、諸妃主が緄帯を着けぬこと、台省官以外は絳を用いぬこと、郡県内史・相および封内の長官はその封君に対し罷官後は敬礼せず臣と称さぬこと、諸鎮の常行の車前は六隊を超えぬこと、刀は銀銅の飾りを超えぬこと、諸王の女は縣主に封じ、諸王の子孫の襲封や王妃・封侯の夫人の行にも鹵簿を用いぬこと、諸王の子で王を継体する者の婚葬吉凶はすべて諸国公侯の礼に依り皇弟皇子と同じくしないこと、車輿は軺車以外は油幢の平乗船を用いず両頭を露平の形として龍舟を模さぬことなどであった。詔してこれを可とした。
  • 孝建二年(455年)揚州刺史に、入朝に趨らず・拝を賛せず・名を呼ばず・剣履のまま殿に上る殊礼を加えられたが固辞。義恭は『要記』五巻を撰し前漢から晋の太元までを述べ上表、祕閣に付された。西陽王子尚が盛寵を受けると義恭は揚州を解いてこれを避け、太宰・領司徒に進んだ。義恭は孝武帝に疑われることを常に懼れ、海陵王休茂が襄陽で乱を起こした際、諸王の重臣が辺境に居るべきでなく州の府を置く必要はないと上表し、他の制度も多く削減させた。孝武帝の厳酷な統治下で容れられぬことを懼れ、卑辞曲意で阿附し祥瑞のたびに賦頌を上奏した。
  • 大明元年(457年)石頭西岸に三脊茅が生えたことを機に封禅を勧めた。孝武帝崩御時の遺詔で義恭は尚書令を解かれ中書監を加えられ、栁元景が尚書令となり城内に住まわされ、大小の事は二人に関わることとされ、大事は沈慶之と参決、軍旅があれば総統、尚書内の事は顔師伯、外監の統べる事は王𤣥謨に委ねられた。
  • 前廢帝即位に伴い録尚書・本官のまま復し、尚書令栁元景も本号のまま開府儀同三司として佐吏兵を旧に依り置いた。義恭の班劍は四十人に増され、殊礼の申命を受けたが固辞。義恭は嗜好が定まらず時勢に応じて変わりやすく、始めから終わりまで第宅を頻繁に移し、人と交わっても意好は長続きしないことが多かった。奢侈は無度で財宝を惜しまず、左右の親幸に一日に一二百万を与えることもあれば、少し忤逆があれば直ちに追奪した。
  • 大明の頃は資供豊富であったが用が足りず、市の百姓の物を賒って未払いのままとなり、民が支払いを求める書状には「原」の字を書いて後回しにさせた。騎馬・音律を善くし、二三百里を巡遊し、孝武帝はその自由を許した。東は呉郡に至り虎丘山に登り、無錫縣の烏山に登って太湖を望んだ。
  • 大明中に国史を撰する際、孝武帝は自ら義恭の伝を作った。永光中、宰輔の任にありながら近臣戴法興らに阿ることが常であった。前廢帝が狂悖無道となると、義恭と柳元景は廃立を謀ったが、前廢帝は羽林兵を率いて義恭の邸で殺害、四子も殺し義恭の四肢を断ち腹胃を分裂させ眼睛をえぐり取り蜜漬けにして「鬼目粽」と呼んだ。
  • 明帝が乱を定めた後、詔して侍中・都督中外諸軍・丞相・領太尉・中書監・録尚書事・王を追崇し、九旒鸞輅・虎賁班劒百人・前後部羽葆鼓吹・輼輬車を給し、泰始三年(467年)廟庭に陪祭する詔が下された。