南史卷二 宋本紀中第二 文帝・孝武帝・前廢帝
孝武帝の長子、諱は子業、小字は法師(449–465年)。父の崩御を受け即位したが、重臣を誅殺し暴虐な行いを重ねたため、翌年、湘東王彧らの謀により殺害された。
年表(5件)
- 元嘉二十六年正月449年孝武帝の長子として生まれる
- 大明八年閏五月464年孝武帝崩御の日に皇帝に即位
- 永光元年八月464年宿衛兵を率い太宰江夏王義恭・柳元景・顔師伯らを誅殺、景和と改元
- 景和元年十一月465年皇后路氏を立て、廬陵王敬先ら諸王を賜死させる
- 景和元年465年湘東王彧らの謀により廃立され殺害される、享年十七
太祖文帝――即位まで
- 太祖文皇帝、諱は義隆、小字は車兒、武帝の第三子。晋の義熙三年(407年)に京口で生まれ、十一年に彭城県公に封じられた。永初元年(420年)、宜都郡王に封じられ鎮西将軍・荆州刺史・都督となった。時に十四歳、身長七尺五寸、経史に博く隷書を能くした。この年に入朝し、武帝が聴訟の場で建康の獄囚の再審問を命じたところ、その裁断は的を射て武帝を大いに喜ばせた。
- 景平年間の初め、西方に黒龍が現れ五色の雲を伴い、また景平二年(424年)には江陵城上に紫雲が立ち、望気の者は皆これを帝王の符瑞であり西方にあると占った。少帝が廃されると、百官は徐羨之・傅亮らの主導で、この瑞祥に基づき法駕を備えて宜都王を迎えることとした。行台が江陵に至り、傅亮が璽紱を進めると、州府佐史は臣と称し諸門への「宮省に準ずる」榜示を求めたが許さず、州府に紀綱を敕し統治下の刑罰を寛大にした。
- このとき司空徐羨之らは弑逆の直後で、鑾駕が西へ迎えに来たことに人心が疑懼していたが、長史王曇首・司馬王華・南蛮校尉到彦之は朝臣に異志はないと確信していた。義隆自身も「諸公は遺詔を受けた以上背けまい。まして労苦を共にした旧将が内外に満ち、兵力も十分に足りる。何を疑うことがあろうか」と語り、江陵を発った。王華に留守を、到彦之に襄陽の監視を命じた。道中、黒龍が乗る舟を負って躍り上がり左右は色を失ったが、王曇首に「これは夏禹が天命を受けた故事にも通じるが、私にどのような徳があってこれに堪えられようか」と語った。都に着くと群臣が新亭で出迎え、初寧陵に謁し、璽紱を三度辞退した末に受けた。
元嘉元年(424年)
- 秋八月丁酉、中堂で皇帝に即位し法駕で入宮、太極前殿で大赦・改元。太廟を拝し、廃されていた廬陵王の封を追復してその柩を迎え、臨川烈武王の陵に謁した。徐羨之を司徒・江州刺史、王弘を司空、傅亮を左光禄大夫・開府儀同三司に進め、生母胡媫妤を章皇太后に追尊、弟義恭を江夏王、義宣を竟陵王、義季を衡陽王とした。荆湘二州の当年の税・布を半減し、九月に袁氏を皇后に立てた。
元嘉二年(425年)
- 正月、徐羨之・傅亮が政務を帝に還した。帝が自ら万機を親覧し始めた。南郊祭祀・大赦、彭城王義康の開府儀同三司、王弘の車騎大将軍・開府儀同三司などの人事があった。
元嘉三年(426年)
- 正月、司徒徐羨之・尚書令傅亮が罪により誅殺された。到彦之・檀道済に荆州刺史謝晦を討たせ、帝自らも六師を率いて西征、大赦した。二月、到彦之・檀道済が謝晦を隠磯で大破、三月には蕪湖から凱旋、謝晦は延頭で捕らえられ建鄴で誅殺された。檀道済は江州刺史に、王弘は司徒に進んだ。以後、聴訟の場を設け、以降毎年三度の親臨を恒例とした。
元嘉四年(427年)〜元嘉六年(429年)
- 四年、丹徒に行幸し京陵に謁し、租布を蠲免、疾疫の民に医薬を給し無縁者に棺を賜うなど恩恵措置が続いた。五年、都下の大火に振恤を行い、王弘が衛将軍に降位、六年三月には皇子劭を皇太子に立てた。
元嘉七年(430年)〜元嘉八年(431年)
- 七年三月、左将軍到彦之に北魏を攻めさせたが、十月には魏が金墉城を、十一月には武牢を陥落させ、到彦之は滑台から敗退した。八年二月、魏は滑台を陥とし檀道済が軍を還し、河南の地は再び失われた。
元嘉九年(432年)
- 二月、太傅長沙景王(道憐)・大司馬臨川烈武王(道規)・司徒南康文宣公(穆之)・衛将軍華容公(弘)・征南大将軍永脩公(道済)・左将軍龍陽侯(鎮悪)らの功臣を廟庭に配祀することを詔した。王弘を太保、檀道済を司空に進めたが、王弘は間もなく薨じた。
元嘉十年(433年)〜十六年(439年)
- 十年正月、竟陵王義宣を南譙王に改封。十一年、蕭思話が氐族を破り梁州を平定。十二年以降、諸方の国々(林邑・扶南・訶羅単・師子など)の朝貢が相次いだ。十三年三月、司空江州刺史檀道済が誅殺された。十六年、彭城王義康が大将軍・領司徒に進んだ。この頃、丹陽尹何尚之に玄学、著作佐郎何承天に史学、司徒参軍謝元に文学の各館を開かせ、多くの門徒が学び、江左の学風はこの時期を最も盛んと称された。
元嘉十七年(440年)〜二十一年(444年)
- 十七年七月、皇后袁氏が崩じ長寧陵に葬られた。十月、前丹陽尹劉湛が罪により誅殺され、大将軍領司徒彭城王義康は江州刺史に転じた。十九年、梁秦二州刺史劉真道・裴方明が氐楊難当を破り仇池を平定。二十一年、太尉領司徒江夏王義恭が太尉に進んだ。
元嘉二十二年(445年)
- 二月、御史中丞何承天による「元嘉新暦」を採用。九月、太子詹事范曄の謀反が発覚し党与ともに誅殺され、大将軍彭城王義康は庶人に落とされ属籍を絶たれた。
元嘉二十三年(446年)〜二十四年(447年)
- 二十三年、交州刺史檀和之が林邑国を討って克した。二十四年、都下で疫病が流行し医薬を配布、貨幣不足のため大銭一枚を旧銭二枚に相当させる制を敷いた。
元嘉二十五年(448年)〜二十六年(449年)
- 二十五年、大蒐(大がかりな狩猟演習)を行い、都城の門名を改めた(広莫門を承明、開陽門を津陽)。二十六年、丹徒への行幸で租布を減免し、晋の忠臣何無忌の墓を祭った。
元嘉二十七年(450年)――北魏の南侵
- 正月、百済の朝貢。二月、魏軍が懸瓠を攻め、軍興のため百官の俸禄を三分の一減じた。秋七月、寧朔将軍王玄謨に魏を防がせ、太尉江夏王義恭を彭城に出して諸軍を統べさせた。十二月庚午、魏の太武帝が瓜歩に至り渡江の勢いを示すと都下は震撼、内外を戒厳し縁江六七百里に軍船を連ねた。北伐は当初から反対意見も多かったが、帝は烽火楼に登り望んで「北伐の議に賛同した者は少なかった。今日の民の労苦と怨みは、私の過ちである」と江湛に語り、魏に百牢(多数の牛豚羊)を饋った。
元嘉二十八年(451年)
- 正月、魏の太武帝は瓜歩から退き、広陵の住民一万余家を捕らえ、北徐豫青冀二兖の六州を殺略、通過した州郡は焦土と化した。江夏王義恭は驃騎将軍に降位。三月、初寧陵を拝したが大旱に見舞われた。五月、亡命の司馬順則が斉王を自称し梁鄒城に拠ったが、八月に討平された。十一月、彭城・淮西の流民を瓜歩・姑熟に移した。
元嘉二十九年(452年)
- 正月、戦禍に遭った六州への振恤を詔した。北魏では太武帝が中常侍宗愛に弑され、南安王余が擁立された後、余もまた弑され、殿中尚書長孫渇侯・尚書陸麗が皇孫(文成帝)を擁立、興安と改元した。
元嘉三十年(453年)――元凶劭の弑逆
- 正月乙亥朔、群臣が太極前殿に会したとき青黒の気が東南から宮上を覆った。二月甲子、皇太子劭が反逆を企て、帝は合殿で崩じた。享年四十七。諡は景皇帝、廟号は中宗と追諡されたが、後に孝武帝が即位すると諡を文帝、廟号を太祖と改めた。三月、長寧陵に葬られた。
- 帝は聡明仁厚で文儒を重んじ、政務に勤勉、在位が長く簡靖を旨としたため、政治は平らかで訴訟は治まり、朝野は睦み合い、江左の政治としてはかつてない盛時であったという。倹約を好み、車府令が輦の飾りを改めようとした際もこれを許さず、その質素さはこの調子であった。
世祖孝武帝――即位まで
- 世祖孝武皇帝、諱は駿、字は休龍、小字は道人、文帝の第三子。元嘉七年(430年)八月庚午の夜、光が室を照らして生まれた。聡明で読書は一目七行を通じ、才藻に優れ武勇を好み騎射に長けた。十二年、武陵王に立てられ、二十二年には雍州刺史に累進、東晋以来皇子が襄陽の重鎮を任じられたことはなく、文帝が関河経略を志したための特別な処置であった。魏の太武帝が淮南に大挙した際、帝は彭城に鎮しており、魏の使者李孝伯が来た際、長史張暢が応対に出たが帝も服を改めて観覧し、孝伯は帝に目を留め続け、退いて「張侯の側にいた人物は骨柄が並でなかった」と評した。
- 二十八年、都督江州刺史となり、縁江の蛮の反乱討伐で沈慶之らを統率した。三十年正月、西陽の五洲に出陣していたところ元凶劭の弑逆が起こり、帝は軍を率いて討伐に赴き、荆州刺史南譙王義宣・雍州刺史臧質も義兵を挙げた。三月乙未、軍門で牙旗を立てた際、旧儀に通じた老翁が現れ武帝の征伐の故事を指図し、事が終わると姿を消したという。冬から続いた東北風が牙旗を立てた後に西南風に転じ晴れ、紫雲二つが牙上に蔭ったと伝えられる。四月、溧州・江寧を経て新亭に至り、太尉江夏王義恭が帰順して尊号を勧めた。己巳、新亭で皇帝に即位、大赦し文帝の号諡を改め、江夏王義恭を太尉・南徐州刺史、南譙王義宣を中書監・丞相・揚州刺史・録尚書六条事、随王誕を衛将軍・荆州刺史、臧質を車騎将軍とし、いずれも開府儀同三司とした。
- 五月、輔国将軍朱脩之が東府・建鄴を克し、二凶(劭とその弟濬)とその同逆はことごとく誅された。大使を各地に遣わして風俗を巡察させ、東府城に行幸、生母路淑媛を皇太后に、妃王氏を皇后に立てた。江夏王義恭は太傅・大司馬に進み、初寧陵に謁し建鄴周辺を曲赦、南平王鑠を司空、建平王宏を尚書左僕射とした。六月、殿門・閤門に屯兵を新設。安西将軍・西秦河二州刺史吐谷渾拾寅は鎮西大将軍・開府儀同三司に進み、南譙王義宣は南郡王、随王誕は竟陵王に改封された。
孝建元年(454年)
- 正月、南郊祭祀・大赦・改元。四銖銭を改鋳し、皇子子業を皇太子に立てた。二月、豫州刺史魯爽・江州刺史臧質・丞相荆州刺史南郡王義宣・兖州刺史徐遺宝が反乱を起こしたが、五月、義宣らの梁山攻撃を左衛将軍王玄謨が大破。六月、臧質は武昌で斬られ首を建鄴に送られ、柳元景・沈慶之は開府儀同三司に進んだ。七月、義宣は江陵で賜死された。冬十月、仲尼廟の制を諸侯の礼に準じて整備した。
孝建二年(455年)〜三年(456年)
- 二年八月、雍州刺史武昌王渾が罪により庶人に落とされ自殺。三年四月、司空竟陵王誕に反乱の疑いをかけ討たせ、八月に広陵城を陥として誅殺、城内の男丁を悉く誅し女子を軍賞とした。九月、玄武湖北に上林苑を建てた。
大明元年(457年)〜二年(458年)
- 元年正月、大赦・改元。都下の疾疫に医薬と埋葬の手当てを施し、景陽楼上に紫気、清暑殿の鴟尾に嘉禾が生じたとして殿楼の名を改めた(景陽楼を慶雲楼、清暑殿を嘉禾殿、芳香琴堂を連理堂)。二年二月、初寧陵を拝し、三月には尚書令建平王宏が薨じた。八月、中書令王僧達が獄死した。
大明三年(459年)――竟陵王誕の乱
- 四月、司空南兖州刺史竟陵王誕が爵を貶され、命に服さず広陵に拠って反乱を起こしたため、沈慶之を車騎大将軍・開府儀同三司・南兖州刺史として討伐させた。八月、広陵城を陥として誕を斬り、城内の男丁を誅殺し女子を軍賞とした。九月、玄武湖北に上林苑を、牛頭山に南郊壇を移した。
大明四年(460年)〜六年(462年)
- 四年、皇子子勲を晋安王など多くの皇子を諸王に封じた。太宰江夏王義恭らが泰山封禅を上表したが許されなかった。五年四月、雍州刺史海陵王休茂が司馬庾深之を殺し反乱を起こしたが、参軍尹玄慶が斬って鎮圧した。六年正月、南郊祭祀に加え宗祀(文帝を明堂に配祀)を行った。
大明七年(463年)〜八年(464年)
- 七年、玄武湖での大がかりな水軍演習、南豫南兖二州への巡幸、烏江での校猟など軍事演習が続いた。詔で刺史・守宰による専断の出兵・処刑を厳しく禁じた。八年閏五月庚申、帝は玉燭殿で崩じた。享年三十五。七月、丹陽秣陵県巌山の景寧陵に葬られた。晩年は連夜の飲酒に耽り、朝には数斗を飲んでも、外に奏事があれば直ちに姿勢を正して酒色の様子を見せなかったため、内外はその聡明さに畏服したという。
前廢帝――即位まで
- 前廃帝、諱は子業、小字は法師、孝武帝の長子。元嘉二十六年(449年)正月に生まれ、孝武帝が尋陽に鎮していた間、都に留め置かれた。三十年、孝武帝が元凶討伐に赴いた際、帝は侍中下省に幽閉され幾度も危害を加えられかけたが無事であった。孝武帝の即位後は皇太子に立てられ、大明二年に東宮を出、七年に元服、八年閏五月庚午、孝武帝の崩御の日に即位、大赦した。柳元景を尚書令に加え、太宰江夏王義恭を録尚書事とした。
大明八年〜永光元年〜景和元年(464年〜465年)
- 八年七月、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后とし、南北馳道を廃して孝建以来の制度を元嘉の旧に復した。八月、皇太后が崩じた。十二月、尚書右僕射顔師伯を尚書僕射とし、王畿諸郡を揚州、揚州を東揚州とした。この頃、東方諸郡は大旱で米価が急騰し餓死者が続出、孝建以来の私鋳銭の横行で商取引が乱れた。
- 永光元年(同年改元、元は景和元年)正月乙未朔、大赦・改元し、諸州の台伝を省き、州郡県の田禄を半減、二銖銭を鋳造した。五月、北魏文成帝が崩じた。八月癸酉、帝は自ら宿衛兵を率いて太宰江夏王義恭・尚書令柳元景・左僕射顔師伯・廷尉劉徳願を誅殺し、景和と改元した。豫章王子尚を尚書令とし、石頭城を長楽宮、東府城を未央宮、北邸を建章宮、南第を長楽宮と改称するなど宮殿名を天子の故事に倣って改めた。九月、湖熟への行幸、帝はかつて東宮にあったとき孝武帝に愛されなかったことを恨み、景寧陵を掘り返そうとしたが太史の諫言で中止、代わりに糞を陵に撒いて孝武帝を罵倒し、殷貴嬪の墓も暴いた。また遠近の僧尼を誅そうとした。九月、南徐州刺史新安王子鸞を庶人に落として賜死。車駕を出して徐州刺史義陽王昶を討とうとしたところ昶は魏に奔った。
- 冬十月、東陽太守王藻が獄死。文帝の第十女新蔡公主を貴嬪夫人に立て謝氏と改姓させ、公主の薨去を偽って盛大な葬儀を行わせた。豫州刺史山陽王休祐を鎮軍大将軍とした。十一月、寧朔将軍何邁・太尉沈慶之が誅殺され、皇后路氏を立て大赦。新たに生まれた皇子は実は少府劉矇の子であったが大赦の名目で祝われた。南平王敬猷・廬陵王敬先・安南侯敬深がいずれも賜死され、内外の百官は誅殺が相次いで身の安全を保てなかった。湘中に天子の気ありとの流言を受け、帝は四人の叔父を誅殺してから南巡しようとしたが、その前夜、湘東王彧と阮佃夫・王道隆・李道児らが帝の左右の壽寂之・姜産之ら十一人と共謀して帝の廃立を図った。
- 帝はかねて華林園竹林堂で婦人を裸にして追わせる遊びを好み、従わなかった一人を斬ったところ、後日その霊が夢に現れて呪詛したという話が伝わる。その夜、帝は山陰公主や六宮の綵女数百人を率いて「鬼捕り」の遊びに興じ、遊びが終わり音楽を奏でようとしたところを壽寂之が刀を懐に直入、姜産之が続いて刺客となり、逃げた帝を追い詰めて殺した。時に十七歳。太皇太后の令により湘東王彧が皇統を継ぐこととなり、帝は丹陽秣陵県の南郊壇の西に葬られた。
前廢帝の人物評
- 帝は蜂の目に鳥の嘴、長い首でうつむき加減の相貌であったという。東宮にあった頃しばしば孝武帝に叱責され、孝武帝の巡幸中に代わって政務を執った際の書は拙劣で、孝武帝から「書の進歩がないのは一事にすぎぬが、聞けばそなたは近頃の学業も怠けがちで頑なさが日増しにひどいという」と咎められた。即位して璽紱を受けた際も慢然として哀しみの色がなく、蔡興宗は退いて「昔、魯の昭公は喪に悲しまなかったが、叔孫は死を願った。国家の禍いはこの帝にあるのではないか」と嘆いた。当初は諸大臣を憚っていたが、戴法興らを殺してからは大臣は皆震え上がり、群公以下は殴打され連行され内外が危懼した。太后の病が篤くなり呼び寄せても帝は「病人の間には鬼が多く恐ろしいから行けぬ」と応じ、太后は怒って「刀を持て、私の腹を裂いてなぜこんな子を生んだのか見てやる」と侍者に語ったという。
- 太后の崩後、帝は夢で太后から「お前は不仁不孝で本より人君の相はない。子尚(豫章王)も愚かでこの座にふさわしくない。天命は結局文帝の子孫に還るはずだ」と告げられたと伝わる。山陰公主が「私と陛下はともに先帝の子でありながら、陛下の後宮は数百人、私には駙馬一人だけとは不公平だ」と訴えると、帝は公主のために面首(男妾)三十人を置き、会稽郡長公主に進爵させ湯沐邑二千戸、鼓吹一部、班剣二十人を加えた。帝の外出には公主が朝臣と共に輦に陪した。
- 帝は幼くして読書を好み古事に通じ、いくらかの文才もあり、孝武帝への誄や雑篇章に辞采のあるものがあったという。魏武帝の発丘中郎将・摸金校尉の故事に倣ってこの二官を建安王休仁・山陽王休祐に領させたことなど、その他の事跡は各列伝に分けて見える。
史論
- 文帝は幼少より特に優れた資質を示し、南面してからも紀綱がよく行き届き、条禁は明確で刑罰は恒常の基準を守り、爵位も濫りに与えなかった。それゆえ内外は清く安らかで、四海は穏やかであった。しかし将を派して事を委ねる段になると、諸方に軍を分けたことは光武帝の遠隔統制の巧みさに及ばず、攻戦の日時までことごとく朝命に従わせたため、軍は敗れ将は喪われることが韓信・白起のような名将を欠いた結果としてもたらされ、敵の侵入を招く一因ともなった。北伐の機密が漏れ、寝所での凶変によって最期を迎えたのは、必ずしも予見できない禍いではなかったにせよ、これもまた理由あってのことである。
- 人の命を尽くして自らを養うのは桀紂の行いにも通じる。大明の世をみれば、まさにそのような人命の消耗があったといえよう。周公のような才徳をもってしても、最後には乱に終わるものである。この観点からいえば、文帝が天寿を全うできたことすら幸いであったといえる。廃帝(前廃帝)の事跡は列伝に著されている通りであり、たとえ中程度の資質の君主であっても、これらの悪徳のうちの一つでもあれば身を滅ぼすに十分である。まして数々の悪を兼ね備えていたのだから、滅びずにいられようか。