南齊書卷五十六 列傳第三十七 茹法亮

巴東王子響の変で信任を失うも復す

  • 呉興武康の人。劉宋大明中(457-464年)、小史から出仕し斎幹・扶侍を歴任。孝武帝末年の過酷な酒法の鞭罰を恐れて出家し道人となった。明帝初年に還俗し、阮佃夫に結び兗州刺史・孟吹陽の典籤から太祖冠軍府行参軍に至った。
  • 元徽初(473年)、殿中将軍(晋熙王・郢州典籤を兼ねる)、長兼殿中御史。世祖が盆城に鎮した際、留任を求め上江州典籤・南台御史(松滋令を帯びる)となり、承奉に巧みで委任を得た。建元初(479年)東宮主書・奉朝請、東宮通事舎人、世祖即位後は中書通事舎人・員外郎(南済陰太守を帯びる)。
  • 永明元年(483年)龍驤将軍、翌年、盆城で世祖の使者として三軍を慰撫した功で望蔡県男300戸に封ぜられ、給事中・羽林監、永明七年(489年)臨淮太守、竟陵王司徒中兵参軍。
  • 巴東王子響が荊州で僚佐を殺害した事件で、茹法亮は宣旨慰撫の使に立ったが、江津で子響に呼ばれても疑い赴かず、伝詔の使者も遣らなかったため子響が怒って尹略の軍を破った。事後、江陵に至り刑賞処分を全て勅命として断行し、世祖は後に子響誅殺を悔い茹法亮を一時責めたが親任は変わらなかった。
  • 鬱林王即位後、歩兵校尉。延興元年(494年)前軍将軍。延昌殿に世祖の御服を秘蔵した隠室を扱い、明帝(高宗)即位後、世祖の白紗帽と護身刀を取り出す際に涙を流した。遊撃将軍。建武の旧臣が少なくなる中、文事の主署を担い疑われず地位を保った。永泰元年(498年)、王敬則の乱平定後も宣慰の勅を受けたが、大司農への転任(利権の少ない職)を嫌がり固辞したものの、後任が既に来ていたため涙を流して退き、64歳で在官のまま卒した。