南齊書卷五十五 列傳第三十六 公孫僧逺

公孫僧逺

  • 会稽剡の人。父の喪に至孝を尽くし、母と伯父にも謹んで仕えた。飢饉の年には自ら食を減らして母を養い、伯父の弟が亡くなった際は自ら身を売って葬儀の費用を工面し、土を負って松柏を植えた。兄姉が未婚だったため自らを売って婚礼を整えた。太祖即位後、散騎常侍・虞炎らの12部使が天下を巡行した際、建元三年(481年)の上表で公孫僧逺ら23人が表彰され、詔で門閭に旌表し租税を免じられた。

その他孝義の諸例(以下、詔による門閭旌表・租税免除の対象者)

  • 吳欣之(晋陵利城): 元嘉末、弟の吳尉之が武進県戍で処刑されそうになった際、身代わりを願い出て赦された。建元二年(480年)に旌表。
  • 永明初、広陵の民・章起之の2子が罪を争って死のうとした事件も太守劉悛が上聞した。
  • 韓係伯(襄陽): 隣の桑の枝が越境するのを避けて何度も譲ったが隣人がまた侵し、それでも改めて植え直すうちに隣人が恥じて土地を返し謝った。建元三年(481年)旌表、天寿を全うした。
  • 孫淡(太原、長沙居住): 母の病に眠らず食も断って治癒を待った。豫章王が湘州を領した際、驃騎行参軍に辟された。建元三年旌表。
  • 華寶(晋陵無錫): 父の華豪が義熙末(418年頃)長安に戍し「帰れば元服させる」と言い残したまま長安が陥落し戦死。華寶は70歳まで婚姻・元服せず、問われると号泣した。
  • 同郡の薛天生も母の喪に菜食を貫き終身魚肉を断ち、劉懐胤・懐則兄弟も父の喪に絮も塩菜も断った。建元三年旌表。
  • 韓靈敏(会稽剡): 早くに孤児となり兄の靈珍と孝心篤く、母の葬儀費用を瓜の栽培で工面した。兄嫁の卓氏が節を守り再婚しなかったのに母のように仕えた。
  • 晋陵の呉康之妻趙氏は父の死と弟の幼さ、母の病に際し自らを売って郷里を救い、夫の死後も再婚を拒んだ。義興の蔣儁之妻黄氏も再婚を迫られ入水しようとして止められた。建元三年旌表。
  • 永明元年(483年)、会稽永興の呉翼之母丁氏も飢饉に衣食を分け、孤児陳穰を養育し婚姻まで世話し、貧者の葬儀も助けた。長子の嫁王氏も寡を守り旌表された。
  • 広陵の徐霊礼妻は火事で子を救おうとして共に焼死し、太守劉悛が上聞した。会稽の陳氏三姉妹は男子のいない家で祖父母・父母を養い、飢饉には菱や蓴菜を採って生計を立て、長女は独身を貫いた。
  • 永興の王氏の娘は5歳で失明したが20歳の時、父母の死に際し叫んで血の涙を流し、妹が舐めると目が開いたと伝えられ「孝感」と称されたが、県令の何曇秀はこれを上聞しなかった。
  • 諸曁東洿里の屠氏の娘は父母を養い死後に自ら墳を築いた際、神霊の声を聞き、以後巫術で人を治療したが独身を守り、山賊に殺害された際も太守の王敬則は上聞しなかった。
  • 建武三年(496年)、呉興の乗公済妻姚氏は夫と兄・弟の死後、2子ずつを養育し嫁がせ、明帝が門閭を表し徭役を免じた。
  • 呉郡の范法恂妻褚氏は昇明中(477-479年)、謀反で亡命した孫曇瓘(先姑の姉の子)を子の僧簡に匿わせ、その死後は葬儀まで執り行った。永明中に70余歳で卒した。