南齊書卷五十五 列傳第三十六 崔懷慎

総叙

  • 孔子は「父子の道は天性であり、君臣の義である」と言った。人が孝を含み義を稟けるのは天から等しく与えられたものであり、篤い薄いは心次第で学問の巧拙によらない。色養を尽くし義を行い、隴畝に身を委ねて名声を求めない生き方は、孟子の三楽・仲由(子路)が米を負った故事にも通じる。世が澆薄になるほど孝慈は稀となり、名を埋め節を秘めて世に現れぬ者も多い。ここでは行いが著しい者を選んで篇に列する。

音信途絶えた父への服喪

  • 崔懷慎、清河東武城の人。父の崔邪利は魯郡太守。劉宋元嘉中(424-453年)、北虜に陥落して消息不明となった。崔懷慎は妻の房氏とともに深く愛し合っていたが、父の陥没を聞くと即日、妻に布衣蔬食させ喪に服すが如く生活させた。邪利は後に虜に仕え書を送って禁じたが、崔懷慎は号泣するのみで従わなかった。
  • 従叔の崔模も北虜に陥ったが、その子は虜地で節操を改めながらも婚宦を廃さなかった。大明中(457-464年)、宗人で冀州刺史の崔元孫が北使の際、崔邪利・崔模がともに虜に服したのに子姪の対応が異なる理由を問われ、「王尊(駆馳)と王陽(回車)のように、忠と孝を両立させたいのだ」と答えた。
  • 泰始初(465年)、淮北陥落の際、崔懷慎は北へ入り桑乾に至ったが邪利は既に没していた。崔懷慎は絶命寸前まで悲しみ蘇生し、喪を負って青州へ帰る際、氷雪を素足で踏んでも手足を傷つけなかったため、人々は孝の感応と評した。喪明け後、南にいた弟を頼ろうとしたが、建元初(479年)に逃げ帰ると弟も既に死んでいた。孤貧のまま独立し、宗党が哀れんで日々米を給した。永明中(483-493年)に卒した。