南齊書卷五十四 列傳第三十五 徐伯珍

竹葉に学んだ苦学

  • 徐伯珍、字は文楚、東陽太末の人。祖父・父は郡掾史。幼くして孤貧、竹葉や地に書を習い、山水の暴出で宅舎・村隣が流された際も、床を積んで読書をやめなかった。叔父の徐璠之は顔延之と親交があり、その旧宅・祛蒙山に精舎を立てて講授し、徐伯珍は10年間師事し経史を究めた。遊学者の多くが頼りにした。
  • 太守・琅邪の王曇生、呉郡の張淹らが礼を尽くして招いたが応召してもすぐ退くこと12回に及んだ。徴士・沈儼と親しく談論し、呉郡の顧歓が『尚書』の疑義を挙げると徐伯珍は条理立てて答え儒者に宗とされた。釈氏・老莊にも通じ道術を明らかにし、旱魃を占えば期に応じて雨が降ったという。礼にかない、曲がった木の下を過ぎる際も避けて通った。早くに妻を亡くし以後再婚せず曽参に自らを比した。
  • 宅の南9里に高山があり(班固いわく九巌山、後漢の龍邱萇の隠棲地)、龍鬚や檉柏が多く婦人巌と呼ばれた。永明二年(484年)、徐伯珍はここに移り、門前の梓樹は1年で合抱するほど育ち、館の東の石壁に夜赤光が差し白雀の番が戸口に棲んだといい、隠徳の感応と評された。
  • 刺史豫章王の議曹従事の辟にも応ぜず、家は貧しく兄弟4人が皆白髪で「四皓」と呼ばれた。建武四年(497年)、84歳で卒した。門人は千余人に及んだ。
  • 同郡の楼幼瑜も儒学者で『礼捃遺』30巻を著し給事中に至った。同郡の楼恵明も道術に通じ金華山に住み毒獣も避けたといい、宋明帝が召して華林園に住まわせ奉朝請としたが固辞し東帰を求めた。永明三年(485年)、突然舟で臨安県に向かい、まもなく唐宇之の賊が郡を破った。文恵太子が蔣山に呼び寄せ、求めに応じ帰ることを許され、世祖の命で館が立てられた。

史論

  • 史臣曰く、顧歓は夷夏を論じて老を優れ釈を劣るとしたが、仏法の理は万古に寂として跡は中世に兆し、その淵源は浩博で無始無辺、宇宙も窮め尽くせない。大は小を包み細を漏らさぬのは、まさに大士の立言である。儒家の教えは仁義礼楽に留まるが、仏は慈悲・常楽を宗とし施捨に至るまで敬をなす。儒家が古今を引証するのに対し、仏は前世の因と後世の果、業行の連鎖を説く点で異なる。陰陽家が気を占い時を授けるのに対し仏は耳目の洞達・心智の他通を説く。法家が刑罰による禁止を旨とするのに対し仏は十悪・五逆の報いを説く。墨家の倹薄も及ばぬほど仏は身を捧げる教えを説く。縦横家の権謀に対し仏は一音で万理を解く。雑家・農家・道家それぞれの教えも、仏の説く因果応報・虚無寂滅の理に比べれば及ばない点がある。九流の教えはそれぞれ世を益するが、刑名道墨は心を異にし儒は学ばずとも儒たりうるが、仏理は玄妙で一物も知らずして聖に至ることはない。神道応現の力は言象で説き尽くせず、張氏の米道・符水の術も祖を伯陽に発する。両教は理において一極に帰しつつも、跡に先後左右があるため優劣を論じられがちである。道は虚無を本とし学に由らず至るとするが、有為の教えを排すればその本も終には成り立たない。仏は違い、具縛(煩悩)の身も転じて明となし、愚を梯として聖に入り、道は遠くとも践め、業は広くとも期がある。因果応報の理は明らかで、史臣もまた釈氏に深く帰依し、この道を最も貴いものと信じる。

  • 賛に曰く、貞を含み樸を抱き、道を履み学に篤い。ここに潜み隠れ、鱗を棄て角を養う。