南齊書卷五十四 列傳第三十五 何求

隠遁を貫いた兄弟

  • 何求、字は子有、廬江灊の人。祖父の何尚之は劉宋司空、父の何鑠は宜都太守。元嘉末(453年頃)、宋文帝の挽郎から著作郎・中軍衛軍行佐・太子舎人・平南参軍・撫軍主簿・太子洗馬・丹陽呉郡丞を歴任し、清廉で嗜欲がなかった。征北参軍事・司徒主簿・太子中舎人を経て、泰始中(465-471年)に妻を亡くし呉の旧墓に葬った後、中書郎の任を拝せず波若寺に住み、戸を出ることなく人に顔を見せなかった。
  • 明帝崩御に際し国哀のため出仕し司空従事中郎に除されたが応じず、永嘉太守を拝しても南澗寺に留まり出仕を拒み、寺での拝受のみ許されたが、ある夜小舟で逃げ帰り呉の虎丘山に隠れた。黄門郎にも応ぜず、永明四年(486年)、世祖が太中大夫としたが応じないまま七年(489年)、56歳で卒した。
  • 何求の母・王氏は父に殺されたため、兄弟には仕える意がなかったという。弟の何点も劉宋の太子洗馬徴に応ぜず、東離門の卞望之墓側に隠居し、人物を好んだ。建元中(479-482年)、褚淵・王儉が宰相となった際、何点は「私が『斉書』を作れば、賛には『淵は世族、儉は国華、しかし舅氏に頼らず国家を憂えず』と書く」と評し、王儉は訪問を思いとどまった。
  • 永明元年(483年)、中書郎の徴で豫章王が自ら訪ねたが後門から逃げ、竟陵王子良は「豫章王すら屈しなかったのだから私が議すべきでない」と評した。嵇叔夜の酒杯・徐景山の酒鎗を贈られ意を通じ、酔えば身分を隔てず遊興した。永元中(499-501年)、京師にしばしば軍寇があり、裳を結んで袴とし崔慧景と仏義を論じたという。
  • 弟の何点の弟・何胤も儒術を修め、隠遁の志を持ち住まいを「小山」と称した。隆昌中(494年)に中書令となり皇后の従叔として寵愛されたが、明帝即位後、園宅を売り本志を遂げようとした。建武四年(497年)、散騎常侍・巴陵王師の任にあった際、呉興太守・謝朏の致仕を聞き後手に回ることを恐れ、報を待たず表を残して会稽山に隠れ、朝廷は大いに怒って弾劾を上奏したが優詔で赦された。永元二年(500年)、散騎常侍・太常卿に徴された。