総叙
- 太祖(蕭道成)は劉宋末の奢侈と放縦の風を受け継ぎ、幼主を輔けて民の疲弊を立て直そうとした。即位1年足らずで山陰令に傅琰を抜擢し、益州刺史に任じて質実な統治を行わせた。山陰は大邑で訟事が多く、建元三年(481年)に県とは別に獄丞を置いた。
- 永明年間(483年頃〜493年)は治世が安定し、威を恃みつつも善断で、長吏が法を犯せば即座に処罰した。郡県の長官は三年在職を「小満」とし、水旱の災には賑恤を加えた。明帝(蕭鸞)は即位前から吏事に通暁し、刀筆の実務を離れず法を枉げなかったので、守宰も引き締まった。
- 永明の十数年間は治安が保たれ、都邑は繁栄を極めたが、建武年間(494年〜)に入ると北虜の侵攻が急となり、征役が相次いで国力は衰えた。斉代を通じて名を残す善政は多くないため、本篇では清廉で治績の明らかな者を取り上げ、その他は付記する。
山陰の名裁き
- 傅琰、字は季珪、北地霊州の人。祖父の傅邵は員外郎、父の傅僧祐は安東録事参軍。傅琰は容儀に優れ、寧蛮参軍・本州主簿・寧蛮功曹を歴任した。
- 劉宋泰始元年(465年)、諸曁・武康の令を兼ね、広威将軍・尚書左民郎・武康令(将軍号如故)・呉興郡丞を経て、泰始六年(470年)に山陰令に遷った。山陰は大県で治めにくいとされたが、父僧祐も評判が良く、傅琰も明察で知られた。新亭侯に封ぜられ、元徽初年(473年頃)に尚書右丞に遷った。
- 母の喪に服して南岸に住んでいた際、隣家の火事が自宅に延焼したが、傅琰は柩を抱いて動かず、隣人が消火に駆けつけたため全て無事だった。服喪明けに邵陵王左軍諮議・江夏王録事参軍を経て、太祖の輔政期に山陰の訟事が積滞していたため再び山陰令となった。
- 針売りと糖売りの女が団糸(絹糸の束)を争った際、団糸を柱に縛って鞭打つと鉄屑が出て、糖売りの偽りと判じた。二人の農夫が鶏を争った際は、それぞれに鶏の餌を問い、粟と豆で答えが分かれたため鶏を割いて中身を確かめ、豆と答えた者を罪とした。以後、県内で盗みを働く者はいなくなった。
- 傅氏父子はいずれも優れた治績で知られ、江左に並ぶ者がないとされた。諸傅の家には治県の秘訣を記した「治縣譜」があり、子孫にのみ伝えて他人に見せなかった。
- 昇明二年(478年)、太祖により仮節督益寧二州軍事・建威将軍・益州刺史・宋寧太守に抜擢され、建元元年(479年)に寧朔将軍、四年(482年)に驍騎将軍・黄門郎に召還、永明二年(484年)に建威将軍安陸王北中郎長史(寧朔将軍と改称)、翌年に廬陵王安西長史・南郡内史・行荆州事に転じ、永明五年(487年)に卒した。
- 傅琰の柩が西方から都へ帰る際、詔により臨淮に出て弔われた。同じく山陰令として名声のあった劉玄明に、傅琰の子の傅翽が治県の要諦を尋ねたところ、玄明は「私が去る際に告げたのは、県を治めるには一日一升の飯を食い酒を飲まぬことだけだ」と答えた。