南齊書卷五十二 列傳第三十三 崔慰祖

崔慰祖

  • 字は悦宗、清河東武城の人。父の慶緒、永明中に梁州刺史。慰祖は奉朝請として出仕、父の喪に塩を断って食したが、母は「お前には兄弟もなくまだ子もない、喪に痩せ衰えて命を損なうべきではない、ただ肴を控えれば十分だ、なぜ塩まで断つのか、私も今から食を断つ」と諭し、慰祖はやむを得ずこれに従った。父が梁州で得た財産千万を宗族に分け与え、漆器には「日」の字を記し、その器は遠近に流布した。父の存命中の貸借の記録を整理し、族子の紘に「あちらから返すというならそれでよい、なければ何も言わない」と述べ、証文をすべて焼いた。
  • 学を好み蔵書は一万巻に及び、近隣の若者たちが借りに来ると、数十袠であっても慰祖は自ら手渡し断ることがなかった。始安王撫軍墨曹行参軍となり刑獄兼記室に転じる。遥光は碁を好み度々慰祖を対局に呼んだが、慰祖は下手だと辞退し朔望(月初め・十五日)以外は会わなかった。建武中、人材推挙の詔が下り、従兄の慧景が慰祖と平原の劉孝標を碩学として推挙、帝は百里(地方官)として試そうとしたが慰祖は辞退した。国子祭酒沈約・吏部郎謝脁が吏部省で賓客と集った際、地理に関する質問十数事を慰祖に問うたところ、慰祖は口下手で言葉少なながら精緻に答え、一座はみな感服した。脁は「班固・司馬遷が生き返ってもこれに及ぶまい」と嘆じた。
  • 慰祖が邸宅を四十五万で売った際、買い手が「もう少し安くならないか」と問うと、慰祖は「まことに韓伯休(後漢の高潔な商人)に恥じ入る、二つの値をつけるわけにはいかない」と答え、買い手が「では四十六万にして一万をあなたに差し上げよう」と言うと、慰祖は「それは人を欺くのと同じだ、私の本意ではない」と断った。侍中江祀と若い頃から親しかったが、祀が高位になってからは度々見舞いに来ても慰祖は訪ねなかった。丹陽丞劉渢と親しく、遥光が東府で挙兵した際、慰祖は城内にいたが城が陥落する前日、渢が「あなたには老母がいる、出るべきだ」と告げ、門番に命じて出させた。慰祖は自ら朝廷に出頭し尚方に繋がれ、病で卒した。
  • 慰祖は「海岱志」を著し、太公から西晋までの人物を記した四十巻(半分未完)。臨終に従弟の緯へ書を送り「常々遷(司馬遷)・固(班固)の二史に注を加え、史記・漢書が漏らした二百余の事を厨の篭に収めてある、これを写し取って大意を残してほしい。海岱志は未だ周到でないが、数本を写して護軍の諸従事、友人の任昉・徐寅・劉洋・裴揆に一通ずつ渡してほしい」と伝え、また埋葬には棺を直接土に接するようにし、煉瓦も霊座も設けないよう遺言した。時に三十五歳。