南齊書卷五十二 列傳第三十三 陸厥

陸厥

  • 字は韓卿、呉郡呉の人、揚州別駕陸閑の子。若くして風骨があり文章を好み、五言詩の詩体は斬新であった。永明九年、百官に人材推挙を命じる詔が下り、同郡の司徒左西掾顧暠之が推薦、州は秀才に挙げた。王晏の少傅主簿となり後軍行参軍に遷る。
  • 永明末、文章が盛んになり、呉興の沈約・陳郡の謝脁・琅邪の王融が気質を同じくして互いに推し合い、汝南の周顒は声韻に通じ、約らの文章は宮商(音韻)を用い平上去入の四声で韻を制し増減できないものとし、世に「永明体」と呼ばれた。沈約が「宋書」謝霊運伝の論で宮商について論じたことに対し、厥は書を送り論争した。
  • 陸厥の書の要旨は次の通り。范曄が自ら宮商の性を識別し軽重を適切に扱う才があったと自序しているが、古今の文人は多くがこの理を十分に理解していない、たとえ会得した者がいても根本から悟ったわけではない。沈尚書(沈約)も「屈原以来この秘は誰も見ていなかった、暗合する者はいても思考によって至った者はいない、張衡・蔡邕・曹植・王粲すら先覚がなく、潘岳・陸機・顔延之・謝霊運はさらに遠い」と言うが、宮羽相変・低昂舛節(音の高低変化)、浮声の後に切響を要し、一句の内で音韻が異なり、二句の内で軽重が異なるという理は、歴代の賢人たちが理解していなかったとは思えず、「この秘を誰も見ていない」というのは言い過ぎではないか。范曄が「根本から来ない」、沈約が「思考によって至らない」と言うのは、その巧拙の判断が偏っているのであり、范曄が「時に会得する者がいる」、沈約が「暗に理に合う者がいる」と言うのは、美しい詩に音韻の調和が見られることを認めているのであり、思考の合致・不合致は古来免れないもので、文章にも開閉があるのは当然であり、曹植が人の批評を好み陸機(士衡)が作品の終わりに遺恨を残したのも当然のこと、遺恨を残すのは完璧でない証拠であり批判の余地があるということだが、それを「暗い(理解していない)」と決めつけるのは、理に合う部分を指して「遺恨」と呼ぶのと同じ誤りではないか。魏文帝(曹丕)の論以来、清濁を深く論じ、劉楨も体勢の妙を論じており、玄黄(色彩)を律呂に喩え五色の調和に比するなら、この秘が誰にも見られていないという論は何を指すのか。前代の賢才は早くから宮徴(音律)を認識していたが、今のように精緻に指摘されてはいなかっただけであり、瑕を掩い疾を隠すような合が少なく謬りが多い状態を指して「著述に病がないとは言えない」と言うのは妥当だが、それを知りながら改めないのと、改めないから知らないと言うのとは違う。曹植・陸機が「情を尽くせば悔いも多く、力ずくではどうにもならない」と言ったのも、病や悔いがあることを認めているのであり、それを「暗い」と呼ぶのは一部の理解を全否定することになる。むしろ質朴と文飾の好みは時代により異なり、情や題材を優先し章句を後回しにする傾向があったため、合が少なく謬が多いのであって、知らなかったわけではない。長門賦と上林賦が同一作家の作でないほど作風に差があり、洛神賦と池雁の賦も二種の体を成す、班固(孟堅)は精正な詠史を書いたが東都主人の賦には及ばず、張衡(平子)は豊麗な羽猟賦を著したが憑虚賦には及ばない、王粲の初征賦は他の作品ほどではなく、楊脩の敏捷さをもってしても暑賦は日を費やして完成しなかった、思考の速い遅いは天賦の差があり、巧拙の差も家ごとに異なるのに、なぜ音韻律呂だけを一律に論じられようか。沈約の議論は「まだその極意を窮めていない」と言うべきで「全く先覚がなかった」と言うのは行き過ぎである。
  • 沈約の返答の要旨は次の通り。宮商の声は五種、文字の種類は万を超え、その万の文字を五声に配し高低を定めるのは思考力だけで可能なものではなく、単なる組み合わせでもない。十字の文でさえ配列が複雑を極めるのに、まして篇全体となればなおさらである。屈原以来、これを意識して用いた者はなく、その端緒すら掴めていなかった。この妙理を聖人が重んじなかったのはなぜかと言えば、音韻の巧みさは意味内容には関わらず、聖賢の立言の急務ではなかったからである。揚雄(子雲)が辞賦を「雕虫篆刻」に喩え「壮夫のすることではない」と言ったのもこのためで、古来の辞人が宮羽・商徴の別を知らなかったわけではないが、その微細な変化までは把握しきれていなかった、それゆえ「この秘を誰も見ていない」と言うのである。前代の文士がこの領域を悟っていなかったことがこれで分かる。もし文章の音韻を音楽の調べと同一視するなら、美醜は簡単に矛盾するはずがない、名手が演奏すれば緩急の狂いがあるはずがないのと同じである。洛神賦を陳思(曹植)の他の賦と比べると、まるで別人の作のようであるのは、天機が開けば律呂は自ずと調い、感情が滞れば音律も乱れるからである。陸機は自らを「炳(あきらか)にして縟錦のごとし」と評したが、その中には濯色江波(色褪せた部分)や衛文の服(継ぎ接ぎ)のような瑕もある、これは陸機自身の言葉が完全ではないことを示す。韻の巧拙には精粗があり、名工輪扁でさえ言葉で伝えきれないもの、私もまた全てを弁じ尽くすことはできない。
  • 永元元年、始安王遥光が謀反すると厥の父の閑がこれに連座し誅殺され、厥も尚方に繋がれたが、まもなく赦令が出た。厥は父の死に間に合わなかったことを悲しみ慟哭して卒した。二十八歳。文集が世に行われた。会稽の虞炎も永明中、文学で沈約と並び文恵太子に厚遇され、官は驃騎将軍に至った。