出自と初任
- 字は彦孫、琅邪臨沂の人。祖父の僧朗は宋の左光禄・儀同三司、父の粹は黄門郎。奐は従祖の中書令王球の養子となったため字を彦孫と称した。著作佐郎・太子舎人・安陸王冠軍主簿・太子洗馬・本州別駕・中書郎・桂陽王司空諮議・黄門郎を歴任。元徽元年、晋熙王征虜長史・江夏内史となり侍中領歩兵校尉に遷り、再び晋熙王鎮西長史・冠軍将軍・江夏武昌太守を経て祠部尚書に召還され吏部を掌る。昇明初、冠軍将軍・丹陽尹に遷る。
王晏との関わりと諸官歴
- 王晏の父普曜が沈攸之の長史であった際、攸之の挙兵に巻き込まれるのを恐れていたが、当時吏部にあった奐が普曜を内職に転じさせたため、晏は深く恩義を感じた。晏が世祖(蕭賾)府に仕えた頃、奐の従弟王藴が謀反したため、世祖は晏に「王奐は宋の外戚であり王藴の同族、異心があるのではないか、詳しく上奏させよう」と告げようとしたが、晏は叩頭して「王奐は謹直で異心はありません、父母を人質に差し出します」と弁護し、世祖は思いとどまった。
- 呉興太守(中二千石・将軍号のまま)として出、征虜将軍に進む。建元元年、左将軍に進み、翌年太常・鄱陽王師を領し、侍中・秘書監・驍騎将軍を歴任、征虜将軍・臨川王鎮西長史・南蛮校尉・南郡内史に遷る。一年に三度も転任し、南蛮校尉を固辞する上表を奉った(荊蛮の地はすでに平定され、新たに校尉府を置けば民の負担が増すとの理由)。認められて南蛮校尉は廃止、前将軍に進む。
- 世祖即位後、右僕射に召還され、使持節監湘州軍事・前将軍・湘州刺史に転じる。永明二年、散騎常侍・江州刺史に徙る(この時江州軍府は省かれた)。四年、右僕射・本州中正に遷る。奐は学識に乏しく実務家として重用された。尚書僕射・中正のまま、校籍郎王植が吏部郎孔琇之の属官で校籍令史の俞公喜の昇進を求め奐の意を偽って矯めたため、植は免官となった。
尚書令の話と雍州刺史就任
- 六年、散騎常侍・領軍将軍に遷る。奐は世祖の行幸を自邸に求めたが、世祖は仏法に篤く生き物を殺さぬ食事をしており、王晏を通じ「昨年から殺生を断つ事情で行幸を控えている、急な行幸は無理だ」と答えさせた。王儉が没した後、世祖は奐を尚書令にしようとし王晏に相談したが、晏は自身の地位が奐と釣り合わず互いに譲り合えないため答えなかった。上は「柳世隆は声望が高く、奐の下風に置くのは適当でない」と述べ、奐を左僕射・給事中加官に転じさせた。
- 使持節散騎常侍・都督雍梁南北秦四州郢州の竟陵司州の随郡軍事・鎮北将軍・雍州刺史として出る。上は王晏に「奐は仏教に篤く、鎮での職務がおろそかにならぬよう、それとなく伝えよ、私の意向とは言うな」と告げた。北方諸戍の兵士の衣服が粗末であったため、上は袴褶三千具を送り分配させた。
劉興祖殺害事件と誅殺
- 十一年、奐は寧蛮長史劉興祖を独断で殺害、上は激怒し御史中丞孔稚珪に糾弾させた。奏の内容は次の通り。雍州刺史王奐は録事の劉興祖が山中の蛮族を扇動し謀反を企てたと偽って上啓し、興祖を都に召還する勅が下ったが、奐は自らの欺瞞が露見するのを恐れ、獄中で興祖を打ち殺し自経(首吊り)死と偽って上奏した。実際には興祖の遺体には他殺の傷跡があり、獄吏や興祖の門生の証言から獄中での虐待と謀殺が明らかになった。奐の第三子彪も父の在任中様々な事に関与し、興祖殺害を扇動したとされた。奐は詔使の到着を拒み兵を興して抵抗した。
- 上は中書舎人呂文顯・直閤将軍曹道剛に斎仗五百人を率いさせ奐を捕えさせ、鎮西司馬曹虎に江陵から陸路で襄陽へ向かわせた。奐の子彪は凶暴で奐は制御できず、女婿の殷叡は「使者が本物の勅を持たないなら偽りかもしれない、まず捕えて上奏すべき」と進言、奐はこれを容れた。彪は州内で千余人を集め武庫の武器を持ち出し武装させ、南堂に陣を敷いて城門を閉じ抵抗した。奐の門生鄭羽は「賊にはならず、まず使者を出迎えるべき」と進言したが、奐は「曹呂ら小人に侮られるのを恐れる」として拒否した。
- 彪は出撃して官軍と戦うが敗走。地元の義軍が州の西門を攻め、彪は防戦。奐の司馬黄瑶起と寧蛮長史裴叔業が城内で挙兵し奐を攻撃、奐は仏を拝んでいる最中に軍兵に斬られた。五十九歳。彪・弟の爽・弼・殷叡は皆処刑された。
- 詔:逆賊王奐は若い頃から性が険しく偽善的で、廉勤を装いながら内に凶悪さを秘め、朝廷の恩を受けながら忠臣の劉興祖を誣告し殺害した。天罰が下り、僅か十数日で乱は平定された。犯官・謀反に加担した者以外は罪を問わない。奐の長男太子中庶子融、その弟司徒従事中郎琛は都で処刑され、他の孫は赦された。
殷叡と殷恒
- 殷叡は字文子、陳郡の人、晋の太常殷融の七世孫。宋の元嘉末、祖父殷元素が太初事件に連座し誅殺され、叡も遺腹の子として連座するはずだったが、外曾祖王僧朗が孝武帝に救いを求め免れた。叡は文義に通じ弁才があり、司徒褚淵に重んじられ「殷氏一族は荊州以来あなたに勝る者はいない」と評されたが、叡は「殷族はかつてほど盛んでない、それが虚言なら不足であり、実であればなお嘆かわしい」と謙遜して答えた。奐が雍州刺史となった際、叡を府の長史とした。
- 叡の族父の殷恒は字昭度、叡と同じく殷融の後裔で、宋の司空殷景仁の孫。恒と父の道矜は共に古風な人柄で世に嗤われた逸話があった。恒は宋の泰始初、度支尚書となったが父の病、自身の病がちなことで有司に弾劾され、明帝は「殷道矜は生まれつき病弱だが、恒は怠惰でこれ以上清職を汚すべきでない」と詔し、散騎常侍領校尉に左遷した。恒はその後清顕な官を歴任し金紫光禄大夫に至り、建武中に卒した。
- 奐の弟王伷の娘は長沙王蕭晃の妃であった。世祖は「奐は謀反に連座したが、長沙王妃の子女は成長しており、奐が前代からの養子関係にあることも考慮し、特別に離縁させない」と詔した。
王繢(奐の従弟)
- 字は叔素、宋の車騎将軍王景文の子。弱冠で秘書郎・太子舎人、中書舎人に転じる。景文はこれを超階の授与としたが、繢は数年経ってから受けた。景文が江安侯に封じられると、繢はその本爵を襲い始平県五等男となる。秘書丞・司徒右長史を歴任、元徽末、寧朔将軍・建平王征北長史・南東海太守・黄門郎・寧朔将軍・東陽太守。世祖が撫軍吏部尚書であった時、張岱が繢を長史に選んで選牒を呈すと、太祖はこれを見て「これは妥当な人選と言えよう」と笑った。
- 散騎常侍・驍騎将軍に遷り、義興太守として出る。郡吏陳伯喜を独断で陽羨獄に送り殺そうとしたが、県令孔逭が理由不明として受け入れず、繢の命令は有司に弾劾され、繢は白衣のまま職務を続けることとなった。太子中庶子・領驍騎に遷り、長史兼侍中に転じる。世祖が雉狩りに出た際、繢は仏法を信じ病と称して従わなかった。左民尚書に転じ、母の老齢を理由に解職を願い出て、寧朔将軍・大司馬長史・淮陵太守に改められ、宣城太守(中二千石)として出る。
- 隆昌元年、輔国将軍・太傅長史に遷るが拝任せず、冠軍将軍・豫章内史となり征虜将軍に進む。また事件により免官となるが、冠軍将軍・司徒左長史・散騎常侍・隨王師、征虜将軍・驃騎長史を経て散騎常侍・太常に遷る。永元元年、五十三歳で卒し、諡は靖子。繢の娘は安陸王蕭子敬に嫁ぎ、子敬は世祖の寵子であったため、永明三年の納妃の際は外舅姑の礼を修め、世祖は文恵太子を伴わせ繢の家に赴かせ酒宴を設け、公卿がみな正装して集い、当世の栄誉とされた。