出自と気骨
- 王慈は字を伯宝といい、琅邪臨沂の人。司空王僧䖍の子。八歳のとき、外祖父の宋太宰江夏王義恭が内斎に迎え、宝物を並べて自由に取らせたところ、慈は素琴と石研(硯)だけを取り、義恭はこれを善しとした。若くして従弟の王倹とともに書学を学んだ。祕書郎太子舎人安成王撫軍主簿を経て記室に転じ、祕書丞司徒左西属右長史、試守新安太守、黄門郎太子中庶子領射声校尉、安成王冠軍豫章王司空長史司徒左長史兼侍中を歴任、輔国将軍豫章内史として出た。父の喪で去官し、建武将軍呉郡太守として起用され、寧朔将軍大司馬長史に遷り、再び侍中領歩兵校尉に除された。
朝堂諱榜の議
- 慈は朝堂に帝の諱を掲示する制度が古の礼になく後世の慣習に過ぎぬとして、廃止を求める上表を行った。帝后の徳や名諱を明らかにするのは書物・篇籍によるべきで、朝堂に諱を晒すことは古の礼ではなく、かえって敬意を欠くと論じ、東平王・新野君の逝去に人々が偲んだ故事を引きつつ、掲示を廃して朝堂の記録に留めるだけで十分だと訴えた。
- 詔でこの議は外朝に付され、博士李撝は周礼を根拠に新令は必ず布告して後に王宮に掲げる例を引いて掲示制度を支持し、太常丞王僴之も「至尊の名は天下がひとしく諱むべきで、目には見えても口には出せぬもの、口に出せねば知る者が絶え、知る者が絶えれば犯し触れる者が却って増える」と反対した。儀曹郎任昉も両者の議論を踏まえ、諱榜の制は漢代以来歴代変わらず、名を諱む重みと敬意の極みとして朝堂に掲げ搢紳(官人)に周知させる意義は大きく、慣行を改める必要はないとした。結局、慈の議は容れられなかった。
- 慈は脚を患い、世祖は王晏に「慈は在職まだ浅いが微疾があり朝参にも騎馬にも堪えない、車で仗の後に乗るのは江左以来ほとんど例がないが、病により閑職に就かせるように」と敕し、冠軍将軍司徒左長史に転じさせた。慈の妻は劉秉の娘で、子の観は世祖の長女呉県公主を娶ったが、公主は婦人の礼を修めても姑(慈の妻)とは口をきかなかったという。江夏王鋒が南徐州となったとき妃は慈の娘であった。慈は冠軍将軍東海太守加秩中二千石行徐州府事となり、還って冠軍将軍廬陵王中軍長史となるも拝さぬまま、永明九年、四十一歳で卒した。謝超宗がかつて「卿の書はいつ父の䖍公(王僧䖍)に及ぶのか」と問うと、慈は「私が及ばぬのは鶏が鳳に及ばぬのと同じ」と答え、当時の名答とされた。太常が追贈され諡は懿子とされた。