南齊書卷四十三 列傳第二十四 王思逺

出自と建平王への恩義

  • 王思逺は琅邪臨沂の人で、尚書令王晏の従弟にあたる。父の羅雲は平西長史。八歳で父を失い、祖父弘之と外祖父の新安太守羊敬元がともに世を退いて高潔に過ごしたため、思遠も若くして仕官の志がなかった。宋の建平王景素に南徐州主簿として辟され厚く遇された。景素が誅されると左右は皆散り去ったが、思遠は自ら殯葬に立ち会い松柏を手植えし、廬江の何昌㝢・沛郡の劉璡とともに上表して景素の名誉回復を訴えた。景素の娘が庶人に落とされたとき、思遠は衣食を分けて援け、成長すると笄礼の支度まで整え、家財を傾けて嫁がせた。
  • 晋熙王撫軍行参軍、安成王車騎参軍を経て、建元初年、長沙王後軍主簿、尚書殿中郎、竟陵王征北記室参軍、府が転じて司徒となると録事参軍を続けた。太子中舎人に遷り、文恵太子・竟陵王子良に厚遇されたが、遠郡への出仕を求め建安内史となった。長兄思玄が卒すると、兄弟の情厚く自ら解官を願い出て許されなかったが、祥日にも重ねて願い出て世祖にようやく許された。

呉郡丞から吏部郎まで

  • 中書郎大司馬諮議に除される。世祖が士を挙げさせた際、竟陵王子良は思遠と呉郡の顧暠之、陳郡の殷叡を推薦し、邵陵王子貞が呉郡となると世祖は思遠を呉郡丞行郡事に任じ、世評は適材と称した。病で解職し、司徒諮議参軍領録事、黄門郎を経て、使持節都督広交越三州諸軍事寧朔将軍平越中郎将広州刺史に出されたが、高宗の輔政下では赴任させられず、御史中丞に遷った。
  • 臨海太守沈昭略の贓私を思遠が事実に基づき弾劾したところ、高宗と思遠の従兄王晏、昭略の叔父文季が取りなしを求めたが従わなかった。建武中、吏部郎に転じたが、従兄の晏が尚書令であることから内台の権要の職を並び占めるべきでないとして固辞を上表し、その丹心を切々と述べた。上は意を汲んで司徒左長史に改授した。
  • 高宗の廃立の際、思遠は晏に「兄は世祖の厚恩を受けながら人を廃す挙に加担した、後年どう身を立てるのか、いっそここで自裁すれば汚名を免れよう」と諫めたが晏は容れなかった。晏が驃騎将軍を拝した宴で子弟を集めた際、兄の思微に「隆昌の末、阿戎(思遠)が自裁を勧めたが、その言に従っていれば今日はなかった」と語ると、思遠は「私の見立てはまだ遅くはない」と即座に返した。のち晏が誅されても思遠に累は及ばなかった。

清廉な人柄と最期

  • 思遠は身を清く保ち、衣服や座席まで清浄を極め、来客があれば先に人を遣って衣服の汚れを検分させ、身なりの整わぬ者は近づけず、去った後もなお二人に座席を掃わせたという。上の従祖弟季敞は豪縦な性で、上はこれを疎んじ「卿はしばしば王思遠を訪ねるがよい」と諭したという。晏が誅されると侍中に遷り優策や起居注を掌り、永元二年、度支尚書に遷るも拝さぬうちに四十九歳で卒した。太常が追贈され諡は貞子とされた。
  • 思遠は顧暠之と親しく、暠之の没後は家貧しいその子を引き取り篤く世話した。暠之は字を士明といい、幼くして孤児となるも学を好み義行があった。秀才に挙げられ府閣を歴任、永明末年に太子中舎人兼尚書左丞、隆昌初年に安西諮議兼著作となり思遠と共に文章に長じた。建武初年、病で帰郷すると高宗は思遠に「この人はまことに惜しい」と手詔した。中散大夫を拝すも四十九歳で卒した。思遠の兄思微は永元中に江州長史となったが陳伯之に殺された。

史論

  • 史臣は言う。徳を成すことが上、芸を成すことは下である。この数人の身の処し方を見れば、ただ清潔な体と雅やかな業だけで基構を隆んにしたのではなく、礼を行い義を踏んで人を勉ましめる風があった。君子の世に居る姿とはまさにこれを言うのであろう。

  • 江斆は世業を継いで聞こえ高く、何昌㝢は旧主のために辞を尽くして義を貫いた。謝瀹は寿觴を献じつつも顔色鮮やかに諷刺を放ち、王思遠は退いて食を薄くし冲心篤く旧恩に応えた。