出自と気骨
- 謝瀹は字を義潔といい、陳郡陽夏の人。祖父弘微は宋の太常、父荘は金紫光禄大夫。瀹の四兄颺・朏・顥・嵸は、父荘が「風・月・景・山水」と名付けたと世に言われた。顥は字を仁悠といい、簡静な人柄で解褐祕書郎、太祖驃騎従事中郎、建元初年に吏部郎、太尉従事中郎、永明初年に竟陵王友、北中郎長史を経て卒した。
- 瀹は七歳のとき王彧に異才を見出され宋孝武帝に取り立てられ、衆人の中でも挙止が閑雅で応対がよく帝を喜ばせ、公主を娶る詔があったが景和帝の廃立で沙汰止みとなった。褚淵は瀹の若く清正な人柄を聞き、娘を娶わせ手厚い資送を与えた。解褐車騎行参軍、祕書郎、司徒祭酒丹陽丞撫軍功曹を経て、世祖が中軍のとき記室に引かれた。斉台建つと太子中舎人に遷る。
- 建元初年、桂陽王友に転じたが母の老いのため湘東内史を望み、還って中書郎、衛軍王倹の長史として厚遇された。黄門郎兼掌吏部を経て太子中庶子領驍騎将軍、長史兼侍中に転じたが、朝夕の孝養が廃れることを理由に固辞し、世祖の勅で速やかに任官のみして朝直は免じられた。司徒左長史として出、呉興太守となる。
呉興太守と明帝期
- 長城県民盧道優の家が劫盗の被害を受けたと偽って同県の殷孝悌ら四人を劫盗と誣告した事件で、瀹は孝悌を県獄に繋いだが、孝悌の母駱氏が登聞して道優の誣告を訴え、瀹はこれを聞いて建康獄に覆審させ、道優の罪を暴いて法により斬刑に処した。ところが有司はこの件で瀹の免官を奏し、また典薬吏が湯を煮て失火し郡外斎南廂屋五間を焼いた件や、身の回りの者を鞭打った件でも有司に奏されたが、いずれも贖論の詔が下った。郡での治績は美事と称され、母の喪に服して吏部尚書となった。
- 高宗が鬱林王を廃し兵を率いて殿内に入った日、左右が驚き瀹に報せたが、瀹は客と囲棋の最中で「その手には意味がある」と言うのみで、対局を終えてから斎に戻り伏せったまま外事を問わなかった。
- 明帝即位後も瀹は病と称して政務に出ず、後日の宴で功臣に酒を賜る際、尚書令王晏らが席を立って謝意を示す中、瀹だけは立たず「陛下は天命を受け民に順ったまで、王晏が僭って己の功のように振る舞うのはおかしい」と言い、上は大笑して場を収めた。座が終わると晏は瀹を同乗させ懐柔しようとしたが、瀹は「君の巣窟はどこにあるのか」と正色して言い放ち、また晏が班剣を得たときには「わが家は太傅ですら六人しか賜っていない、君も何を急にここまで」と言い、晏はこれを大いに憚った。
- 右軍将軍を加えられ、兄の朏が呉興で公事の啓上を遅らせた際、瀹が代筆して上ると筆跡が違うと咎められたが原免され、侍中領太子中庶子豫州中正に転じた。永泰元年、散騎常侍太子詹事に転じ、その年、四十五歳で卒した。金紫光禄大夫が追贈され諡は簡子とされた。兄の朏が呉興太守として出るとき、瀹は征虜渚で送別し、朏が瀹の口を指して「ここはただ酒を飲むためのものだ」とからかった。瀹は建武の初め以来もっぱら長酣を事とし、劉瑱・沈昭略と観杯を交わし各々数斗を飲んだという。世祖がかつて王倹に「今誰が五言詩を作れるか」と問うと、倹は「謝朏は父の膏腴を得ており、江淹にも見所がある」と答えた。上が禅霊寺を建てると瀹に碑文の撰を勅した。