出自と建平王への上疏
- 何昌㝢は字を儼望といい、廬江灊の人。祖父叔度は呉郡太守、父佟之は太常。若くして重厚な人柄で、伯父の司空尚之に重んじられた。宋の建平王休仁が揚州にあったとき州主簿に辟され、司徒行参軍・太傅五官・司徒東閣祭酒・尚書儀曹郎を歴任。建平王景素が征北南徐州となると府主簿となり、風雅な人柄を重んじられたが、母の老いを理由に禄を求めて湘東太守として出、太祖の驃騎功曹となった。
- 郡にあるとき景素が誅されたのを痛み、太祖に上啓して、景素が忠孝の資質と衆望を集めながら、群小の讒言と時勢の混乱のうちに一淪疑似のまま身名を失った悲運を切々と訴え、疑いを晴らして名を国籍に戻し旧塋に葬るよう求めた。また司空褚淵にも書を送り、忠義を懐きながら枉げられた者の無念、悪名だけが史書に残ることの痛ましさを訴え、田叔・袁絲の故事を引いて肉親の情に基づく寛恕を求め、叔向・戻太子の故事を挙げて幽霊もまた眀察を喜ぶだろうと結んだ。褚淵は「志は嘉すべきだが事の是非には順逆がある、建平王の当初の疑いは阮・楊らの讒に発端があり、当時自分もその機に関与を誤ったが、もし高論の通りなら深く恥じ入る」と答えた。
太祖・世祖期の任官
- 太祖はその義を嘉して記室に転じ、司徒左西太尉戸曹属、中書郎、王倹の衛軍長史を歴任。王倹は「今後朝事を任せられるのは卿をおいて他にない」と評した。永明元年、竟陵王子良が文学官を置くと昌㝢はその文学に任じられ、清らかな人柄で子良に厚く遇された。揚州別駕に転じ、豫章王にも重んじられ太子中庶子に遷る。
- 臨川内史として出、廬陵王中軍長史に除されるが拝さぬうちに再び太子中庶子領屯騎校尉、吏部郎、侍中に転じた。臨海王昭秀が荊州となると西中郎長史輔国将軍南郡太守行荊州事として補佐した。明帝が徐玄慶を遣わして藩鎮の諸王を害しようとした際、昌㝢は「朝廷の意を受けて外藩を輔けているのに、殿下を一介の使者に委ねられようか、必要ならば改めて後命を待つべきだ」と拒み、昭秀は都に還ることができた。
- 建武二年、侍中領長水校尉、吏部尚書に転じ、再び侍中領驍騎将軍。四年、五十一歳で卒し、太常が追贈され諡は簡子とされた。昌㝢は交友を選ばず和して博愛の人柄で、歴任の郡ではみな清廉の評があり、士君子に称された。