南齊書卷四十一 列傳第二十二 張融

張融(字は思光、建武四年に五十四歳で没)、呉郡呉県の人、宋会稽太守張暢の子。奇矯な言行と卓越した文才で知られ、栄達に恋々とせず清貧の中で独自の生き方を貫いた文人・官僚。

年表(4件)
  • 泰始五年射手の逃亡者の家族への連座刑に反対する議を述べる
  • 元徽初年郢州の射手逃亡事件でも同様の議を述べる
  • 永明二年総明観の講筵で酒を求めて飲み、議論する
  • 建武四年病没、享年五十四

出自

  • 張融は字を思光といい、呉郡呉県の人。祖父の褘は晋の琅邪王国郎中令、父の暢は宋の会稽太守。
  • 弱冠のころ、道士の陸脩静が白鷺の羽の麈尾扇を贈って「これは珍品ゆえ珍しい人物に捧げる」と評した。宋の孝武帝も融の早くからの評判を聞いていた。

初期の任官と気骨

  • 解褐して新安王北中郎参軍となる。孝武帝が新安寺を興したとき、僚佐は皆多額の銭帛を献じたが、融だけは百銭のみ献じた。帝は「融は貧しいから」と佳い禄を与えようとした。
  • 封渓令として出るとき、従叔の永が「朝命でまた戻るらしい」と言うと、融は「戻らぬのを憂えているのではなく、戻ってまた去ることを恐れる」と答えた。
  • 広越の嶂険で獠賊に捕らえられ殺されかけたが、融は顔色も変えず洛生詠を口ずさみ、賊も異とし害さなかった。
  • 海路で交州に至り、海中で「海賦」を著した。海の雄大な景観、波涛の激しさ、山海の造化の妙、天地陰陽の理を長大な韻文で描き、最後は万物の生滅は心の澄明に帰すという玄旨で結んだ。都に戻ってこれを鎮国将軍顧凱之に見せると、凱之は「玄虚を超えた出来だが、塩について詠まなかったのが惜しい」と評した。融は即座に筆を執り「沙を漉して白を構え、波を熬いて素を出す。積雪の中に春の霜を暑路に飛ばす」の四句を書き足した。
  • 凱之は融の兄と旧交があり、凱之が没すると融は自ら墳土を負って弔った。南方で交趾太守卞展と旧知の間柄であったが、展が嶺南で殺されると、融は身を挺して駆けつけた。秀才に挙げられ対策で中第、尚書殿中郎となるが就かず、儀曹郎となる。

任官と議論

  • 泰始五年、明帝が荊・郢・湘・雍四州の射手で逃亡した者を斬り、家族を没官とする令を出したとき、融は「逃亡した本人の刑は家長に及ぼすべきではない」と議した。元徽初年、郢州で射手の逃亡があった際にも同様の議を述べた。
  • 叔父の喪に駆けつける途中、罰幹の銭敬道を鞭打ちにして延陵の獄に繋いだ廉で処罰を受けた。大明五年の制で二品清官の従僕が杖罪を犯しても外に出さぬ定めがあったが、これに触れ左丞孫緬に奏免された。のち復位し祠部・倉部の二曹を兼摂。劉勔が戦死したとき、祠曹では哭すべきか議が分かれたが、融の議で哀を挙げることになった。倉部でも正月に太倉を開くことの可否を「小さな禁忌に拘るべきでない」と議した。
  • 宰殺を目にして車を回して立ち去り、自ら職を解いて安成王撫軍倉曹参軍となり、のち南陽王友に転じた。父暢がかつて丞相義宣の長史であった縁で危難に遭ったとき、王玄謨の子瞻が南陽王前軍長史となったため、融は啓して離職を求めたが許されなかった。
  • 従叔の征北将軍永への書で、家は貧しいが禄を求めるほかなく、十年に七度仕えても代耕に足りぬと訴え、南康の欠員を望んだ。吏部尚書王僧䖍への書では、自らを「天地の逸民」と称し、進んでも貴を弁ぜず退いても賤を知らぬ境地を述べた。世評は融を治民の才にあらずとしたため、任官はついに果たされなかった。

太祖・世祖期の交遊と逸話

  • 太祖の太傅掾に召され、驃騎・豫章王司空諮議参軍を歴任、中書郎に遷るも好まず中散大夫を求めたが許されなかった。融は風采がひどく異様で、坐すときは膝を高く上げ、歩けば足を引きずり身を反らせるなど、行状に多くの奇癖があった。
  • 太祖は融を寵愛し「この人物は二人いてはならぬが一人はいるべきだ」と評した。即位後、手ずから衣を賜り「粗末な衣も志の表れだが、朝望を損なうので新しい衣を送る」と伝えた。
  • 吏部尚書何戢と親しく、その邸を訪ねた際、案内の尚書劉澄が誤って別室に通したのを何度も「ここではない」と指摘し、席に着いてもなお「みな違う」と言って立ち去った逸話が伝わる。
  • 長沙王鎮軍・竟陵王征北の諮議、司徒従事中郎を歴任。永明二年、総明観の講筵で酒を求めて飲み、議論の後「ああ、孔子とは何者か」と嘆じた。御史中丞として賄賂の罪で免官されたが復職。容貌は短小醜怪ながら精神は清澄で、王敬則が緩んだ革帯を見て注意すると、融は「歩卒の急ぎとは違う」と答えた。
  • 世祖に住まいを問われ「陸には屋なく舟にも水なし」と答え、後日その意を聞かれた従兄緒は「東出したがまだ住まいがなく小船を岸に繋いでいるだけ」と説明し、帝は大笑した。北虜の使者李道固が張暢の子と知って「父君はご不幸であったのに名は六夷にまで知れている」と嘆じた。
  • 豫章王の宴で炙り肉が回ってきたのに塩と蒜が欲しくて言い出せず、ただ指を揺らしていた逸話や、朝賀の場で拝起がままならぬ融をとがめる有司の奏を、帝が原免した話も伝わる。
  • 竟陵内史張欣時が罪に問われ死罪に当たったとき、欣時の父興世がかつて融の父暢を袍で覆って救った恩義から、融は竟陵王子良に欣時に代わって死ぬことを願い出たが、子良は「それは長史の美事だが朝の常典に反する」として認めなかった。
  • 忌月には音楽を断ち嫂に厚く仕えた。父暢が丞相義宣の乱に連座して殺されかけたとき、司馬竺超民の諫めで助かった恩を子孫に伝えるよう遺言し、のち超民の孫微が母を喪って貧窮したとき、融は衣を脱いで賻とし牛被を被って弔った。豫章王嶷・竟陵王子良の薨去に際しても、かつて仕えた縁で慟哭を極めた。

晩年と死

  • 建武四年、五十四歳で病没。遺言で、旌に旒を設けず、祭を設けず、麈尾を持たせて招魂させ、「わが平生好んだものだけでよい」として棺は三千銭で新調せず、左手に孝経・老子、右手に小品法華経を執らせ、妾二人は各々実家へ帰した。婦人が声を立てて泣くことも禁じた。
  • 玄義には師承なく神解が人に勝り、白黒(是非)の談論で融に対抗できる者は稀であった。永明中、病に臥して自ら「わが文章は世に驚かれるが、耳ではなく心を師とせよ」と子に説き、「体は常にあるべきだが常に同じ体があるわけではない、丈夫たる者は詩書を刪り礼楽を制すべきで、人の後を追うことはない」と論じた。
  • 臨終にはさらに、父祖の遺した書物や文章の情趣は自分とは異なるが、自分の文体は変化に富み、それは漢魏の古に遠く及ばぬためではなく晋宋の世に生まれた偶然に過ぎぬと戒めた。
  • 自ら文集を編み「玉海」と名づけた。司徒褚淵にその名の由来を問われ「玉のように徳に比し、海のように善を崇めるゆえ」と答えた。張氏の文名は融の先の敷演・鏡暢に始まり、融の後は充融の代まで続いた。