南齊書卷三十六 列傳第十七 謝超宗

謝超宗、陳郡陽夏の人。祖父は謝靈運(?–483年)。文才で世に知られ孝武帝に「鳳毛を持つ」と称賛されたが、才を恃み放言して人を怒らせる性格から幾度も左遷・免官を繰り返した。張敬兒誅殺を評した発言が世祖の怒りを買い、流罪の途上で自尽を命じられた。

年表(4件)

出自と初任

  • 謝超宗、陳郡陽夏の人。祖父は謝靈運、宋の臨川内史。父の謝鳳は元嘉年間、靈運の事件に連座して嶺南に流され早世した。元嘉末、超宗は都に還ることを許され、僧の慧休と交わり、学を好み文才で名を知られた。初め奉朝請・新安王子鸞(孝武帝の寵子)の王國常侍となり、王の母の殷淑儀が没した際に誄を作って奏したところ、孝武帝は大いに感嘆し「超宗はまさに鳳毛(父祖の才の一端)を持つ、靈運が再び世に出たようだ」と称えた。

宋末の官歴と太祖との交流

  • 新安王撫軍行參軍に転じ、泰始初、建安王司徒參軍事・尚書殿中郎となった。三年、都令史駱宰が策秀才の考格について議した際、五問すべて上と評されれば上、四三は中、二は下、一以下は不合格とする案に対し、超宗は「片言でも訴訟は裁け、寸言でも衆を説き伏せられる。魯の史書の褒貶、孔子の議論の変革も、みな詳細な文書を必要としない。答えが尽くさぬことより、月並みな文であることを憂うべきだ。一問が優れていれば五問並みでもよく、五問すべて凡庸であるより一問の卓抜を採るべきだ」と論じ、詔はその議に従った。
  • 司徒主簿・丹陽丞に遷り、建安王休仁に司徒記室・正員郎・兼尚書左丞・中郎として引き立てられたが、直言により僕射劉康に忤い通直常侍に左遷された。太祖が領軍であった頃、しばしば超宗と文を論じ合いその才を愛した。衛將軍袁粲はこれを聞き太祖に「超宗は開けた人柄で聡明であり、語り合うに足る」と勧め、長史・臨淮太守に取り立てられた。
  • 袁粲が誅殺されると太祖は超宗を義興太守としたが、昇明二年(478年)、公事に連座して免官された。東府門を自ら訪ねたその日は寒風が厳しく、太祖は「この客が来ると人は着物なしでも暖かく感じるだろう」と満座に語った。超宗は座して数杯の酒を飲み放言したが、太祖はかえって喜んだという。

斉建国後の栄達と失脚

  • 太祖は超宗を驃騎諮議に取り立て、即位後は黄門郎に転じた。有司が郊廟の歌辞撰述を奏し、司徒褚淵・侍中謝朏・散騎侍郎孔稚珪・太學博士王咺之・總明學士劉融・何法冏・何曇秀ら十人が作ったが、超宗の作だけが採用された。しかし人柄は才を恃んで酒を飲んでは人を軽んじ、直省で常に酔い、上に召見された際に北方の事に話が及ぶと「異民族の侵攻はもう二十年、仏でも防げないでしょう」と答え、失儀により南郡王中軍司馬に左遷された。
  • 超宗は怨望して人に「私は今日はまさしく司驢(驢馬係)にでもなるべきだ」と語り、省司に奏されて怨望により免官・禁錮十年となった。司徒褚淵が湘州刺史王僧䖍を送る際に閣道が崩れ水に落ちたことや、僕射王儉が牛に驚いて車から転げ落ちたことを、超宗は手を打って笑い「落水三公、堕車僕射」と戯れ言い、以後こうした言葉が朝野に広まった。
  • 世祖即位後、国史編纂に携わらせ竟陵王征北諮議叅軍・領記室としたが、ますます不遇であった。超宗は張敬兒の娘を子の妻に迎えており、世祖はこれを疑っていた。永明元年(483年)、敬兒が誅殺されると超宗は丹陽尹李安民に「昔は韓信を殺し、今年は彭越を殺した。尹殿はどうお考えか」と語り、安民はこれをつぶさに奏上した。世祖は超宗の軽慢を積み重ね疑っており、兼中丞袁彖に弾劾を命じた。
  • 袁彖は「征北諮議叅軍謝超宗は根性浮薄険悪、権勢に阿り人を貶め、賢者を疑い朝政を謗り、不敬不遜の言動は比類がない」と奏し、王永先が超宗に近い者を尋問したところ、超宗が張敬兒の死を非とする発言をしていたことが裏付けられたとして免官・付廷尉を求めた。世祖は袁彖の奏に大いに怒り、左丞王逡之にさらに彈劾させ、詔して超宗の罪は大逆に等しいが極刑は免じ、免官の上禁錮十年とすると定めた。
  • 超宗は廷尉に一晩留められただけで髪が真っ白になったという。詔により越州へ流罪となり、豫章に至った際、世祖は豫章内史虞悰に「謝超宗にはそこで自尽させよ、遺体を損なうな」と命じ、超宗は死去した。翌年、超宗の門生王永先は超宗の子の才卿に死罪二十余条を告発したが、世祖はその虚偽を疑い才卿を廷尉に付して調べさせたところ事実無根と判明し赦された。永先は獄中で自尽した。