南齊書卷三十四 列傳第十五 王諶

王諶(字は仲和、東海郯の人)。宋の明帝に側近として仕え、しばしば帝を諫めて咎を受けたこともある。斉建国後も温和・慎重な人柄で「善人」と称され、諸王府の長史等を歴任した(?–491年、享年六十九)。

年表(3件)

宋代からの側近としての官歴

  • 王諶、字は仲和、東海郯の人。祖父・万慶は員外常侍、父・元閔は護軍司馬。宋の大明中、沈曇慶が徐州となった際、王諶は迎主簿として招かれ、州の迎従事・湘東王国常侍・鎮北行参軍を歴任した(州・国の府主はいずれも宋の明帝)。義陽王征北行参軍を経て明帝の衛軍府にも転任、学問と義理に通じ帝の藩佐を歴任した。
  • 即位後、司徒参軍・帯薛令・兼中書舎人となり親任され常に側近くにあった。王諶は帝の行いが酷薄であるのを見てしばしば諫めたが聞き入れられず、退官を願ったところ怒りを買い尚方に繋がれたが、まもなく解かれ尚書殿中郎に除せられ、記室参軍・正員郎・薛令はそのままに転じ、兼中書郎・晋平王驃騎板諮議に遷った。
  • 湘東太守(秩中二千石)に出たが拝任前に公事に連座して免官、再び桂陽王驃騎府諮議参軍・中書郎となった。明帝は囲棊を好み囲棊州邑(囲碁専門の官職を模した機構)を置き、建安王・休仁を圍棊州都大中正とし、王諶は太子右率・沈勃、尚書水部郎・庾珪之、彭城丞・王抗と共に四人の小中正となった。奉朝請の褚思荘・傅楚之を清定訪問(人物審査)に任じた。
  • 臨川内史に出て尚書左丞に戻り、まもなく本官のまま東観祭酒(明帝が置いた総明観の職)を領した。黄門に遷り正員常侍・輔国将軍・江夏王右軍長史に転じ、冠軍将軍・給事中・廷尉卿に転じたが拝さなかった。建元中、武陵王・曄が会稽となった際、王諶は征虜長史・行事・冠軍はそのままとなり、永明初、豫章王太尉司馬・将軍はそのままに遷った。
  • 世祖は宋の明帝の世に王諶と交わりがあり、重用を意図していたため、輔国将軍・晋安王南中郎長史・淮南太守・行府州事に任じた。永明五年(487年)、黄門郎・領驍騎将軍に除せられ太子中庶子・驍騎はそのままに遷った。王諶は端正で温和・慎ましく、朝廷は彼を「善人」と称し多くの人に厚く遇された。
  • 永明八年(490年)、冠軍将軍・長沙王車騎長史に転じ、廬陵王中軍長史・将軍はそのままに移り、西陽王・子明が南兖州長史であった沈憲が離任すると、上は再び王諶を征虜長史・行南兖府州事・将軍はそのままに転任させた。王諶は若い頃貧しく自ら紡績を営んでいたが、貴顕となった後もそのことを人に語り、世人はその志の通達を称えたという。永明九年(491年)、六十九歳で卒した。

史論

  • 史臣は言う。人々が鶉のように住み雛鳥のように餌を求めた古の民は、木を植え司牧が及ばず戸籍もまだ分かれていなかった。愛民の義が深く、隍(濠)に落ちた民を思う意が重かった時代である。末世に至り民の力を尽くし財を量って賦税を自らの奉養に充てるようになり、下は窮乏しても上は顧みず、世が澆薄になるほど事は変わり、竊かに名を騙り閥を薄め、飢えを忍び肌を傷めながら濫りに死を招く例が生まれ、逃避と法網の間で虚偽が積み重なり数十年に及ぶ欺瞞と隠蔽が官民ともに常態化した。国を治める道としてはまさにこれを矯め正すべきであり、徭役を軽くすれば詐りは自ずと止み、群吏を厳しく糾せばこの偽りは行われなくなる。ただ旧文を空しく閲するだけでは民に幸いを与えるだけに終わる。崔琰が魏の武帝を譏り、謝安が京師の政を論じたように、民を治める難しさは遠く周代に限った話ではないのである。

賛にいう。虞玩之は足るを知る論を光らせるには至らなかったが、劉休は占いに巧みで南湘(湘州)で安臥した。沈冲は時の誉れを得、庾杲之は珪璋(美玉)のごとき人物であった。王諶はもとより歴代の秩序に連なり、みな新たな王朝の興隆に用いられた者たちであった。