南齊書卷三十四 列傳第十五 沈沖
沈沖(字は景綽、呉興武康の人)。父・沈懐文は宋の明帝に誅殺された。清廉な家風を継ぎ、兄弟三人がそろって御史中丞を務め「腰皷兄弟」と称された。世祖に重用されたが赴任途上で早世した(享年五十一)。
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- 永明四年486年五兵尚書に召される
清廉な家系と早世
- 沈沖、字は景綽、呉興武康の人。祖父・宣は新安太守、父・懐文は広陵太守。衛尉五官から揚州主簿に転じた。宋の大明中、父・懐文は文名があり、沈冲も文義に渉猟し西陽王撫軍法曹参軍に転じ、秀才に挙げられ撫軍正佐兼記室に戻った。
- 懐文が罪を得て繋がれた際、沈沖兄弟は謝罪の情を哀しく訴え、見る者を悲しませた。柳元景が懐文を救おうとし帝に「沈懐文の三子が塗炭に苦しむのは見るに忍びません、どうか速やかにその罪を正してください」と語ったが、帝はついに懐文を殺した。元景はこれを嘆息し、沈沖兄弟はこれにより名を知られるようになった。
- 泰始初、母が老いて家貧しいことを明帝に訴え永興令に補せられ、巴陵王主簿に遷り尚書殿中郎に除せられた。元徽中、晋安王安西記室参軍に出て司徒主簿・山陰令に戻り司徒録事参軍に転じた。世祖が江州であった頃、沈沖は征虜長史・尋陽太守として重用され、世祖が都に戻ると府州事を代行、領軍長史に遷った。
- 建元初、驃騎諮議参軍・領録事に転じたが赴任前に黄門郎に転じ、太子中庶子に遷った。世祖が東宮にあった頃から恩旧をもって遇され、即位後は御史中丞・侍中に転じた。冠軍・廬陵王・子卿が郢州となった際、沈沖は長史・輔国将軍・江夏内史・行府州事となり、府の転任に伴い安西長史・南郡内史・行荊州府事(将軍はそのまま)に遷った。
- 永明四年(486年)、五兵尚書に召された。沈沖は兄・淡・淵と名声に優劣があり世に「腰皷兄弟」と呼ばれた。淡・淵は共に御史中丞を歴任、三兄弟が皆司直(司法官)となるのは晋宋以来なかったことである。中丞・案裁の職は弾劾された者から多くの怨みを買い、淵は永明中、呉興太守・袁彖を弾劾したが、建武中、彖の従弟・昻が中丞となり、着任数日で淵の子・繢が父の喪中に白幰車を使ったことを弾劾し免官・禁錮とした。
- 沈沖の母・孔氏は東隣の家が火事になった際、自分の家が焼かれると疑い「私の三人の子は皆御史中丞となったが、人にどうして善き者があろうか」と大声で叫んだという。世祖はまさに沈沖を重用しようとしていたが、沈沖が西下する途中、南州で卒した。享年五十一。上はこれを深く惜しんだ。
- 喪柩が至った際、詔は「沈冲の柩が至り悲痛に堪えない、彼が南方の藩鎮で特別な功があったことを思い、いっそう哀惜する」とし、車駕自ら喪に臨んだ。さらに詔は「沖は貞詳閑理で志は淹正(清廉で正しい)、藩朝で誠を著し功績も顕著であったが不幸にも早世した、朕は深くこれを悼む」と述べ、太常を追贈し諡は恭子。