南齊書卷三十四 列傳第十五 劉休

劉休(字は弘明、沛郡相の人)。宋の明帝に近侍し、飲食・占術・書など多芸で寵遇された官人。建元初、御史中丞となり、のち豫章内史に出て卒した(享年五十四)。

年表(1件)
  • 建元四年482年豫章内史に出て冠軍将軍を加えられ、まもなく卒去。享年五十四

宋の明帝に近侍した多才の官人

  • 劉休、字は弘明、沛郡相の人。祖父・徽は正員郎、父・超は九眞太守。初め駙馬都尉・奉朝請、宋の明帝の湘東国常侍となり、学問を好み記憶力に優れたが帝には知られなかった。祖の封(南郷侯)を襲い、友人・陳郡の謝儼が丞相・義宣の乱に連座した際、劉休はこれを匿った罪で尚方に七年繋がれたが、孝武帝崩御を機に釈放され、弟・欽の羅県赴任に随行した。
  • 泰始初、諸州が反乱した際、劉休は占いで明帝の勝利を予知し静かに構えて謀に加わらなかった。数年後に戻り、呉喜の輔師府録事参軍となり、喜はその才を明帝に推挙、帝の側近に取り立てられ桂陽王征北参軍を兼ねた。帝は好尚に富み特に飲食を嗜んだが、劉休は多芸で料理にも通じ問われれば何でも答え、後宮の懐妊者について男女の別を占わせても皆的中させた。
  • 帝は肥満で内房の勤めを果たせず、諸王の妓妾が懐妊すると密かに宮中へ召し出産させ、生まれた子の母を幽閉した。順帝は桂陽王・休範の子であり、蒼梧王(後廃帝)も帝の実子ではなく、陳太妃はもと李道児の妾であったため、蒼梧王は微行の際に自ら「李郎」と称していたという。
  • 帝は婦人の嫉妬を憎み、尚書右丞・栄彦遠が囲碁が巧みで寵愛されていたが妻に嫉妬され顔を傷つけられた際、帝は「私が代わりに処分してやろうか」と問い、彦遠が軽率に「聖旨のままに」と答えると、その夜、妻に毒を賜って殺させたという。劉休の妻・王氏も嫉妬深かったため、帝はこれを聞いて劉休の妾に手を出させ、王氏には二十杖を科し、劉休に宅の裏に小店を開かせ王氏自ら箒や皂莢を売らせて辱めた。劉休の寵遇はこれほどのものであった。
  • まもなく員外郎・領輔国司馬・中書通事舎人・南城令を帯び、尚書中兵郎・給事中舎人・令はそのまま。安成王撫軍参軍を経て都水使者・南康相に出向。劉休は治体を語るに巧みであったが在郡での実績は乏しく、戻って正員郎・邵陵王南中郎録事・建威将軍・新蔡太守を歴任した。
  • 左軍府に転じ鎮蛮護軍将軍・太守を加え、諮議司馬に遷り寧朔将軍・鎮蛮護軍・太守はそのまま、尋陽太守・将軍・司馬はそのままに転じ、のち長史に遷った。沈攸之の乱で世祖が晋熙・邵陵二王を伴い盆城に軍府を鎮した際、劉休は軍費の調達を承った。事平定後、邵陵王安南長史に遷り、黄門郎・寧朔将軍・前軍長史・斉臺散騎常侍を歴任し、建元初、御史中丞となった。
  • 就任からまもなく劉休は上表し「臣は南憲(御史台)を汚し春の交代の頃、弾劾を怠った月はなく、それでも蕃邦や豪右を震え上がらせられず、既に暴かれた罪すら見逃す網を張り、それでもなお郷党の和を失い朝廷の同僚からも顧みられず、恨みを買った勢いは長く堪えられまい」と辞任を願ったが、上は「卿の職は国の司法として威を裁くことが本分であり、世の誹りを恐れて辞するべきではない」と応じた。
  • 宋末、上は指南車を造らせる際、劉休の思理を見込んで王僧䖍と共に監試させた。元嘉世に羊欣が子敬(王献之)から正隷(楷書)の法を受け世に宗とされ、右軍(王羲之)の書体はやや古びて重んじられなくなっていたが、劉休がこの法を好み今に至るまで盛行しているという。建元四年(482年)、豫章内史に出て冠軍将軍を加え、享年五十四で卒した。