南齊書卷三十三 列傳第十四 王僧䖍

王僧䖍(琅邪臨沂の人)。晋の司徒王珣の孫。書と音律に優れ、宋・斉に歴仕して尚書令・開府儀同三司に至った文人官僚。太祖の輔政期に雅楽の整備を建議し、能書家として名高かった(?–485年、享年六十)。

年表(5件)

出自と幼少期

  • 王僧䖍、琅邪臨沂の人。祖父・珣は晋の司徒、伯父の太保・弘は宋の元嘉世に宰輔を務めた。賓客が弘の父の諱を憚った際、弘は「私の家の諱は蘇子高(蘇峻)と同じだ」と答えたという。父・曇首は右光禄大夫で、曇首兄弟が子孫を集めた席で、弘の子・僧達が地に下りて跳ね遊ぶ中、数歳の王僧䖍は独り正座し蝋燭の蠟玉を採って鳳凰の形に作った。弘は「この子は必ず長者となろう」と語った。
  • 弱冠にして弘に厚遇され、隷書を善くした。宋の文帝はその字を書いた素扇を見て「その筆跡は子敬(王献之)を超えるだけでなく、風格も彼を凌ぐだろう」と嘆じた。秘書郎・太子舎人を経て、寡黙で交際が少なく袁淑・謝荘と親しく、義陽王文学・太子洗馬を歴任し司徒左西属に転じた。
  • 兄・僧綽が劉子業(前廃帝)に殺された際、親戚は皆王僧䖍に逃げるよう勧めたが、涙を流して「兄は忠貞をもって国に仕え、私を慈愛をもって育ててくれた。今日の事に及ばぬことこそ苦しい。もし共に泉下に赴くなら、それは羽化に等しい」と語った。
  • 孝武帝初、武陵太守として出向する途中、兄の子・儉が病を得ると、王僧䖍は寝食を廃して看護した。同行の客が慰めると「昔、馬援は甥姪を実子同然に扱い、鄧攸は弟の子を実子以上に思ったという。私も実にその心を抱いており、亡兄の血筋をおろそかにはできない。もしこの子が救えぬなら舟を返し職を辞し、二度と仕官を望まぬだろう」と答えた。

孝武帝から宋末までの官歴

  • 中書郎・黄門郎・太子中庶子に転じた。孝武帝は自ら書の名声を誇ろうとしていたため、王僧䖍はあえて才能を顕さず、大明年間には拙い筆を用いて帝に受け入れられた。
  • 豫章王・子尚の撫軍長史、散騎常侍を経て、新安王・子鸞の北中郎長史・南東海太守・行南徐州事となった(子尚・子鸞は共に帝の愛児であった)。豫章内史を経て侍中に入り、御史中丞・領驍騎将軍に遷った。名門は代々御史台に居ることが少なく、王氏の分家で烏衣(建康の地名)に住む者は官位がやや低かったが、王僧䖍はこの官に就いた際「これは烏衣の諸郎の座る場所だが、私も試してみよう」と語った。
  • 侍中・領屯騎校尉に転じ、泰始中、輔国将軍・呉興太守(秩中二千石)として出向した。王献之が書に優れ呉興郡太守を務めた先例に、王僧䖍も書に長け呉興太守となったことを人々は称えた。会稽太守(秩中二千石・将軍のまま)に転じた。
  • 中書舎人・阮佃夫が会稽の出身で帰省の際、客が「佃夫は権勢がある、礼を厚くすべきだ」と勧めたが、王僧䖍は「私は生来の信念がある、どうしてこの輩に媚びられよう。もし彼が私を憎むなら、私は袂を払って去るまでだ」と答えた。佃夫はこれを宋の明帝に讒言し、御史中丞・孫夐に命じ、王僧䖍が呉興太守時代に多くの誤った命令を発したこと、功曹・五官・主簿から二礼吏に至るまでの人事や度僧に絡み四百四十八人にも及ぶ弟子の登録、民の何係先ら百十家を旧門と認めた不正などを弾劾させ、王琨は免官となった。
  • まもなく白衣(無官)のまま兼侍中となり呉郡太守を監し、使持節都督湘州諸軍事・建武将軍・行湘州事に転じ、輔国将軍・湘州刺史に転じ、寛恵の政で名を高めた。巴峡からの流民が湘州に多く定着していたため、王僧䖍は益陽・羅・湘西の三県沿江の民を割いて湘陰県を立てることを上表し許された。
  • 元徽中、吏部尚書に遷る。高平の檀珪が沅南令を罷免され、王僧䖍が征北板行参軍としたが不満を訴え、王僧䖍に長文の書を送り自分の家柄の高さと功績を訴え待遇の不公平を訴えた。王僧䖍は返書で「征北板の待遇は近年やや優遇されている、殷主簿もこの府から昇進し崇礼へ、何儀曹もその後任となったが訴えは無かった、卿は一朝で急に高い地位を求めているに過ぎない、我々に怨恨はなく、思うところに助言者がいるのだろう」と応じた。
  • 檀珪は重ねて古の例(荀公達・夏侯惇・羊祜・卞望之ら)を引き子孫への追贈は世代を経ても行われるものだと訴えたが、王僧䖍はついに檀珪を安城郡丞に用いた(檀珪は宋の安南将軍・韶の孫)。

雅楽の建議と官歴

  • まもなく散騎常侍を加え右僕射に転じ、昇明元年(477年)尚書僕射に遷り、まもなく中書令・左僕射に転じ、昇明二年(478年)尚書令となる。王僧䖍は文史を好み音律に通じ、朝廷の礼楽が正典に違うことが多く、民間で新声・雑曲が競って作られていることを憂え、太祖の輔政期に上表した。
  • 上表では、雅楽の器(懸鍾)は雅を用とし凱容の礼は八佾を儀とすべきだが、現在の総章・羽佾の音服は乱れ、歌鍾一肆に女楽を合わせて歌わせるのは雅器にそぐわないこと、大明年間に宮懸に鞞拂を合わせた例は数は揃っても雅体に反しており、鍾舞が既に調和しているとして古い基準を変えぬのは誤りであること、清商音楽は魏の銅爵台の遺風で私室の音楽に過ぎず正雅の対象ではないことを説き、近年家々が新奇な音楽を競い風俗が乱れる中、正曲を排斥せず等差を保つべきことを述べ、担当官が音楽の教習を怠らぬよう督励し、優れた楽人には褒賞をもって奮起させることを提言した。この建議は納れられた。
  • 建元元年(479年)、侍中・撫軍将軍・丹陽尹に転じ、二年(480年)、左衛将軍に進号したが固辞して拝さず、左光禄大夫・侍中・尹はそのままに改任された。郡県の獄で罪人に湯をかけて殺すことが慣例化していたため、王僧䖍は上疏し、湯は本来病を治すためのものだが実際は寃罪や暴虐に用いられており、罪が重ければ正刑に従うべきで、悪を除くにも急ぐなら早く上奏すべきで、死生の大事を密かに下級の県で決めるべきでない、獄囚の病は必ず郡に報告し医師と共に検証し、遠方の県では家人にも確認させてから処理すべきだと訴え、上はこれを納れた。

音楽の探求と太祖との交流

  • 王僧䖍は雅楽に留意し、昇明中に上奏した楽の改訂もなお不備が多かった。当時、上(太祖)が北魏との通使を始めようとした際、王僧䖍は兄の子・儉に「古語に『中国が礼を失えば四夷に問う』とある、楽もまた同様で、苻堅敗北後に東晋が初めて金石の楽を整えた例がある、北国にも遺された楽があるかもしれず、それで中夏の欠を全て補えずとも存亡を知る一助にはなる。ただ鼓吹には旧来二十一曲あったが今できるのは十一曲に過ぎない」と書き、北使に楽署の一人を随行させ楽の異同を調べさせる案を提案したが、結局実行されなかった。
  • 太祖は書を善くし、即位後もこれを篤く好んだ。王僧䖍と書の優劣を賭けた際、太祖が「誰が第一か」と問うと、王僧䖍は「臣の書が第一、陛下も第一です」と答え、太祖は「卿はまさに自分をよく謀るものだ」と笑った。太祖は古の書跡十一帙を示し能書家の名を求めさせ、王僧䖍は民間にあり帙中にない呉の太皇帝・景帝・帰命侯の書、桓玄の書、王導・王洽・王珉・張芝・索靖・衛伯儒・張翼の書十二巻を集めて奏上し、あわせて羊欣が撰した能書人名一巻も献上した。
  • その年の冬、持節都督湘州諸軍・征南将軍・湘州刺史・侍中はそのままに遷り、清簡で財産を蓄えず、百姓はこれに安んじた。世祖即位後、風疾を理由に解職を願い出たが、まもなく侍中・左光禄大夫・開府儀同三司に遷った。若い頃、族の宗族が集まった席で相人が「僧䖍は年齢・地位ともに最も高く、公位に至るだろう、他の者は及ばない」と語ったという。
  • 授官に際し、王僧䖍は兄の子・儉に「お前は朝廷で重任を担い、まもなく八命の礼を受けるだろう。私がまたこの授官を受ければ一門に二人の台司が並び、実に恐れ多いことだ」と語り、固辞して拝さなかった。上はこれを優遇し許し、侍中・特進・左光禄大夫に改任した。客がその固辞の意を問うと、王僧䖍は「君子が憂うるは徳の足りぬことであって寵の足りぬことではない。私は衣食が身に周り、栄位も既に過分だ。徳が薄く国に報いる術がないのに、さらに高爵を受ければ官への謗りを招くだけだ」と答えた。兄の子・儉が朝宰となり長梁齋を建て制度がやや過分であったため、王僧䖍はこれを見て不快とし、遂に戸を入らず、儉はこれを取り壊した。
  • 永明三年(485年)薨去。王僧䖍は星文にも通じ、夜坐して豫章の分野に事故の兆しを見た。当時、子の慈が豫章内史であったため公事を懸念していたが、まもなく王僧䖍が薨じ、慈は郡を棄てて奔赴した。享年六十。司空・侍中を追贈され諡は簡穆。

書論

  • 王僧䖍は書論を著し、宋の文帝は自らの書を王子敬(王献之)に比すと語ったが、当時の議論では天然の趣は羊欣に勝るが功夫は羊欣に劣るとされた。王廙(王導の従兄弟)・右軍(王羲之の叔父)は江を渡る以前は最も優れた書家とされ、王僧䖍の曽祖父・領軍(王洽)が右軍に「弟の書は少しも衰えていない、古法を変えたのは今は右軍だけで、領軍はそうではなく今なお鍾繇・張芝の法に則る」と評したという。
  • 従祖父・中書令(王珉)の書について子敬は「弟の書は騾馬に騎るがごとく、常に驊騮(駿馬、王羲之の意)を追い越そうとする勢いがある」と評した。庾征西・翼の書は若い頃右軍と斉名であったが、後に右軍が進歩し庾はなお区別を認めず、荊州から都下への書簡で「小児どもは軽薄にも家鶏(庾翼自身)を捨てて逸少(王羲之)の書を学ぼうとする、私が下れば必ず比べてやろう」と語った。
  • 張翼が王右軍の自書の上表を、晋の穆帝の命で書き写して代作した際、右軍は当初見分けられず、後になって「小人はほとんど真に紛らうところであった」と悟った。張芝・索靖・韋誕・鍾会・二衛(衛瓘・衛恒)は同時代に並び評され優劣を判じ難く、ただその筆力の驚異のみが際立って見えるとされた。
  • 張澄は当時「意あり」と評され、郗愔は章草を善くし右軍に亜ぐとされ、その子・郗超も草書を能くした。郗嘉賔(郗超)の草書は二王(王羲之・王献之)に亜ぐとされる。桓玄は自ら右軍の流れをくむと称したが、論者は孔琳之に比した。謝安も能書録に入り、自らも重んじ、子敬のために嵆康の詩を書かせたという。羊欣は一時重んじられ、子敬から直に行書を受け特に優れ、楷書は正しく称されないほどであった。孔琳之の書は天然放縦で筆力に富むが規矩は羊欣に劣るとされた。
  • 丘道護と羊欣はともに子敬から直伝を受けたが道護は欣より劣るとされ、范曄は蕭思話と共に羊欣に師事したが後にやや自己流に傾き、旧歩を失いつつも独自の意を持つとされた。蕭思話の書は羊欣の影響下にあり風流の趣は劣らぬが筆力は弱いとされた。謝綜の書はその舅(羊欣)が「緊まって生気があり見事だが媚態が少ない」と評した。謝霊運の書は不釣り合いなところがあるが時に合えば流に入るとされた。賀道力の書は丘道護に亜ぎ、庾昕は右軍を学びほとんど真に紛らうほどであったという。

子・寂と、子弟への訓誡

  • 王僧䖍はまた書賦を著し世に伝わった。第九子・寂(字は子玄)は性急で勤勉、文章を好み范滂伝を読んで嘆賞せぬことがなかった。王融が敗れた後、賓客の多くが寂に帰したが、建武初に中興頌を献じようとした際、兄・志は「お前は膏梁の年少にすぎず、なぜ官位を憂うのか、静かにしていなければ譏りを招く」と諭し、寂はこれをやめた。初め秘書郎として卒し、享年二十一。
  • 王僧䖍は宋代、子への戒めの書を送ったことがある。その内容は概ね次のようなものである。学問を許さぬことを恨んでいると聞くが、自らを励ますつもりなら、棺を蓋う日をもって自らを欺くのではなく、他の美業を選ぶこともよかろう。だが、その言葉ばかりを聞いてまだ実を見ていない、まず師について実際の行いを観てから判断してほしい。かつて汝は史学に心を寄せ三国志を百日ほど枕元に置いたが、すぐに玄学に転じた。玄学もまだ深くはなく、談論の易しさは軽んじられぬものだ。数十家の注釈を通読し続け老いるまで手を離さぬ努力があってようやく談士と称せよう。老子の巻頭数尺すら知らずして麈尾を振って談士を気取るのは危険である。設問に答えられねば賭けに負けるようなものだ。荊州八帙・才性四本・声無哀楽などの議論も家の常識のように語られるが、汝はまだそのいずれにも触れていない。厨房も整えぬまま大賓を迎えようとするようなものだ。張衡や郭象のような才も労苦なしに至ったのではない。汝は六十四卦の名も知らず、荘子諸篇の内外も、四本の説の要も知らずに人を欺こうとしても、人は欺かれない。
  • 我が学のないことを子は責めるかもしれないが、重華(舜)に厳父なく放勲(堯)に令子なきように、それぞれ自らに由る。だが学ばずとも生きられると子が竊かに議するかもしれぬが、それは一面に過ぎない。仮に我が馬融・鄭玄ほど学んでいたら、今よりもさらに優れていただろう。身の上のことは自ら由来する。壮年の努力次第で優劣は定まる。世間にも例は多く、汝もそれを知っていよう。私は徳は乏しいが人間の中で数十年を過ごしてきた古株であり、人に汝と比べられることもあろう。私が死んだ後、汝自身に節度がなければ誰も汝のことを知らない。かつて我が門中で若くして優れた栄達を遂げた者もいれば、失われた恩蔭の後に虎豹のごとく劣る者もいる。私の恩蔭は当てにできぬのだから、汝は自ら努力すべきだ。
  • 三公を経験しながら忘れられる者、布衣の寒門から卿相に至る者があるのはなぜか。畢竟、数百巻の書を読んだかどうかに尽きる。私は今悔いても及ばぬが、前車の轍を汝の後の乗り物への戒めとしたい。汝は立身の年齢に入り官も持ち家の煩いも抱えるだろうが、学問に打ち込む機会をどう作るか、よく考えてほしい。世の学問を身につけて一生を過ごすべきだ、私の言葉を捶打のように厭わず、万一にも汝が成就することを望む。それが益になるかどうかは汝自身にかかっており、私には関わりのないことだが、鬼となっても子弟の毀誉には無関心ではいられまい。この思いから胸中を略述する。