南齊書卷三十一 列傳第十二 江謐

江謐(字は令和、済陽考城の人)。宋の重臣に連なる家に生まれ、刀筆の才と事務処理能力で栄進した寒門出身の官人。宋末に太祖へ帰服して信任を得たが、太祖没後は世祖に疎まれて謀を持ちかけたことが露見し、弾劾されて死を賜った(享年五十二)。

年表(4件)
  • 泰始四年468年江夏王義恭女の礼制をめぐる議論に連座し、杖督五十・奪労百日の罰を受ける
  • 昇明元年477年沈攸之の乱に際し、太祖に黄鉞を加える献策を行う
  • 建元元年479年侍中に遷り、湘州留事等を歴任、永新県伯に封ぜられる
  • 建元三年481年左民尚書となり、皇子らの出閤に伴う人事を委ねられる

出自と宋代の官歴

  • 江謐、字は令和、済陽考城の人。祖父・秉之は臨海太守で宋代の清吏、父・徽は尚書都官郎・呉令であったが、劉子業(前廃帝)に殺され、江謐は尚方に繋がれた。孝武帝が京邑を平定してようやく釈放され、奉朝請・輔国行参軍・于湖令として強済(果断で有能)を称された。
  • 宋の明帝が南豫州にあった頃、江謐は身を傾けて仕え帝に親任され、即位後に驃騎参軍とした。弟・䝉は容貌が醜く、帝は常に召し出して戯れに侮った。江謐は尚書度支郎、右丞・兼比部郎に転じた。
  • 泰始四年(468年)、江夏王義恭の第十五女が十九歳で未婚のまま卒した際、成人の礼にするか諸王の大功の礼にするかで議論があり、左丞・孫夐が『礼記』を引いて重ねて奏したが、礼官の判断が経典に違うとして博士・太常以下が免職・贖罪となり、江謐も杖督五十・奪労百日の罰を受けた。江謐は孫夐の議も誤りとして追及し、孫夐も免職・贖罪となった。
  • 建平王・景素の冠軍長史・長沙内史・行湘州事に出向したが政治は苛刻であった。僧・僧遵は江謐と親しく、江謐の郡で小事により郡獄に繋がれた際、僧遵は自らの三衣を裂いて食べさせ、尽きると死んだ。有司の弾劾で京師に召還されたが、明帝崩御の恩赦で赦され、正員郎・右軍将軍。
  • 太祖が南兖州を領した際、江謐は鎮軍長史・広陵太守となり、都に入り游撃将軍。世俗に流されやすく利勢に趨りやすい性格で、元徽末、朝野が建平王・景素に期待を寄せる中、江謐も深く身を寄せたが、景素の乱が敗れると辛くも禍を免れた。
  • 蒼梧王(後廃帝)廃立後、なお人心が疑惑を懐く中、江謐は独り誠を尽くして太祖に帰服し、本官のまま尚書左丞を領した。

太祖・世祖期の栄進と誅殺

  • 昇明元年(477年)、黄門侍郎に遷り左丞のまま。沈攸之の乱が起こると、太祖に黄鉞を加えることを議したのは江謐の献策であった。乱平定後、吏部郎に遷り次第に親任され、太尉諮議・領録事参軍に転じた。斉臺(斉建国の準備機構)が建てられると右衛将軍。
  • 建元元年(479年)、侍中に遷り、臨川王平西長史・冠軍将軍・長沙内史・行湘州留事として先に赴任、まもなく驃騎・豫章王・嶷が湘州を領すると、江謐は長史・将軍・内史として州留事を知る任のまま、永新県伯(封邑四百戸)に封ぜられた。
  • 建元三年(481年)、左民尚書。皇子らの出閤(別居開始)に伴う文武の主帥人事は皆江謐に委ねられ、まもなく「江謐は寒門の出で華族と競う地位ではないが才幹に優れ委任に堪える、吏部の掌に遷らせよ」との勅が下った。江謐は刀筆の才に長け事務処理に優れた。
  • 太祖崩御に際し江謐は病と称して参内せず、顧命(遺言・後事の託し)に与らなかったことを人々は怨んでいるのではと疑った。世祖即位後も官位が上がらず、これを怨望した江謐は、世祖の病臥に際し豫章王・嶷に「至尊(世祖)は起きられる病でなく、東宮(皇太子)も才が足りない、今どうするべきか」と密かに謀を持ちかけた。世祖はこれを知り、江謐を征虜将軍・鎮北長史・南東海太守として出向させた。
  • 赴任前、上(世祖)は御史中丞・沈冲に命じ、江謐の前後の罪状を上奏させた。上奏は江謐の若い頃からの軽躁・諂媚・不義の交わり、宋朝での阿諛と賄賂横行、沈攸之と結んで機を窺った経緯、劉景素との結託、太祖の恩寵を受けながら湘州で盗みを働き、選官として賄賂を公然と受け取り、先帝(太祖)の病臥中も平然として国喪にも遅参し、悪口を放って朝政を誹謗し忠賢を貶め、儲后(皇太子)や宗室をも謗ったことなどを列挙し、免官・削爵・廷尉獄への収監を求めるものであった。
  • 詔により江謐は死を賜り、時に五十二歳であった。子の江介は建武中に呉令となったが治政は苛烈で、民間で榜死した者の髑髏を「江謐の首」として掲げ、官を棄てて去った者があったという。