南齊書卷三十 列傳第十一 桓康

出自と太祖・世祖への随従

  • 桓康、北蘭陵承の人。勇猛果敢で宋の大明中、太祖の従軍として軍容にあった。世祖が贛県にあった泰始初、世祖が挙兵した際、太祖の郡が包囲され衆は散り散りになったが、桓康は穆后(世祖の母)と文恵太子・竟陵王子良を担いで山中に匿い、門客の蕭欣祖・楊瑑之・臯分喜・濳三奴・向思奴ら四十余人と共に郡獄を破って世祖を救出した。
  • 追手が急であったが桓康らはこれを撃破。世祖の挙兵に従い堅陣を摧き陣を陥れる膂力は絶人であったが、経過した村邑では暴虐な掠奪も行った。江南の人々はこれを畏れ、その名で小児を怖がらせ、その形を描いて瘧を辟けるほどであった。世祖の冠軍府参軍に抜擢され、殿中将軍・武騎常侍を経て襄賁令に補せられた。
  • 桂陽王の乱が起こると桓康は県を棄てて都に戻り太祖に従い、乱平定後に員外郎となる。元徽五年(477年)七月六日夜、少帝(後廃帝)が微行して領軍府に至った際、桓康は太祖の養った健児・盧荒と共に門間でこれを聞き、翌夕、王敬則が帝の首を持って門を叩くと、桓康は事変と見て荒・黒と共に刃を抜いて出、そのまま宮中に入った。
  • 太祖が東府に鎮すると、桓康は武陵王中兵・寧朔将軍・蘭陵太守を帯びて常に側を護衛した。太祖が黄回を誅殺した際、黄回は南兖州の部曲数千を擁しており乱を恐れ東府に召し入れて外斎に留め、桓康に数十人を率いて回の罪を数えさせた上で殺させた。
  • 黄回は当初、屯騎校尉・王宜与と石頭の謀に与していたが、太祖はこれを隠しつつも重兵を回に付し腹心を配した。王宜与は刀楯の技に長け、黄回はかつて十余人に水をかけさせても宜与に触れなかったほどの手練であったが、宜与の裏切りを恐れた回はその軍を先に解いたため、宜与は憤って処分に従わず、回は怒って王宜与を斬った。これを見た諸将は太祖に「回は強兵を握り必ず反すだろう」と進言、桓康は独り往って刺すことを請うたが、太祖は「彼に何ができようか」と応じなかった。回が召された折、その愛妾は回の頭上に赤光を見て終始これを留めようとしたが、当時の人は「侜張(欺き惑わすこと)を欲するなら桓康に問え」と語ったという。
  • 桓康は後軍将軍・直閤将軍・南濮陽太守・寧朔将軍のまま。建元元年(479年)、呉平県伯(封邑五百戸)に封ぜられ、輔国将軍・左軍将軍・游撃将軍・太守を歴任。太祖は「卿は久しく我に従いながらまだ方伯を得ていない、私と共に虜を滅ぼしてからにしよう」と語った。
  • 虜が動くと桓康は仮節で出撃、冠軍将軍に進号。建元三年(481年)春、淮陽で虜と戦い大破し虜の樊諧城を攻め陥した。太祖は喜び淮北の義民を迎え入れるよう命じたが実現せず、翌年、持節督青冀二州東徐之東莞琅邪二郡朐山戍北徐之東海漣口戍諸軍事・青冀二州刺史・冠軍将軍として出向。世祖即位後、驍騎将軍に転じ前軍郡を復したが、その年に卒した。
  • 詔に「桓康は昔、南方の功に与り義を兼ね常に忠誠を懐いていた、この凶事は深く哀悼に堪えない、手厚く葬儀を行うべし」とあり、五十七歳での死であった。
  • 淮南の人・尹畧は若くして太祖に仕え、晩年に騎射を習い便捷なることから将に用いられた。昇明中、虎賁中郎・越騎校尉。建元初、平周男(封邑三百戸)に封ぜられる。永明八年(490年)游撃将軍として巴東王・子響討伐で戦死し、輔国将軍・梁州刺史を追贈された。