南齊書卷三十 列傳第十一 戴僧靜
戴僧静、会稽永興の人(?–永明九年)。太祖に幼少より庇護され、沈攸之の乱では自ら袁粲を斬る功を立てた猛将。永明年間には比陽で荒賊桓天生の大軍を破ったが、巴東王子響討伐には反対の意見を上奏した。
出自と太祖への忠誠
- 戴僧静、会稽永興の人。祖父・飾は宋の景平中、富陽の孫法先と共に謀反し伏誅、家族は青州に徙された。戴僧静は若くして胆力があり弓馬に長け、刺史・沈文秀に仕え共に虜に没したが、後に家族を連れて淮陰に逃げ帰った。太祖はこれを撫育し常に側に置いた。
- 戴僧静が都で錦を積んで出た際、欧陽の戍に捕らえられ兖州の獄に繋がれた。太祖は薛淵に酒食を届けさせ、刀子を魚腹に隠して送った。戴僧静は獄吏と共に酒に酔い、刀で械(かせ)を刻んで自ら鎖を折り、屋根を破って脱出、太祖の下に帰りその邸内に匿われた。太祖は貧しい戴僧静の家に年千斛の穀を給した。
- 虜が甬城を囲むと戴僧静は出撃を重ね捷を得て、帳内軍主に補せられ京師に戻り、勲階は積射将軍・羽林監に至った。沈攸之の乱で太祖が朝堂に入ると、戴僧静は軍主として袁粲の拠る石頭攻撃に従い、太祖は腹心の戴僧静を先に石頭へ遣わした。
- 蘇烈が倉城に拠っていたため、戴僧静は書を矢文で烈に射込み、夜に城内へ縄で下りさせた。袁粲は城の西南門に登り燭火を並べて臺軍の動きに矢を放たせたが、流星が赤く城中に落ちた頃、戴僧静は力を尽くして倉門を攻め自ら士卒の先頭に立ち、袁粲軍は潰走、戴僧静は自らの手で袁粲を斬った。外の軍もこれに応じて門を焼き突入した。
- かつて袁粲が蕭恵開・周朗と同車した際、大桁で車を止めて語り合い、恵開は鏡を見て「寿命が尽きた」と言い、周朗は鏡を見つめ「死を帰するがごとく見る」と言い、袁粲は最後に「三公に至るが天寿を全うできまい」と言ったという逸話が伝わる。
- 戴僧静はこの功により前軍将軍・寧朔将軍。戦死した将士のために太祖は自ら弔祭した。昇明二年(478年)、游撃将軍。沈攸之平定の論功で興平県侯(封邑千戸)に封ぜられ、太祖即位後さらに封邑千二百戸に加増、南済陰太守。
永明年間の武功と晩年
- 輔国将軍・建昌県に改封。建元二年(480年)、驍騎将軍・員外常侍を加え太子左衛率に転じる。世祖践阼後、持節督徐州諸軍事・冠軍将軍・北徐州刺史として出向し、牛を買い貧民に与えて耕作させ荒地を開いた。給事中・太子右率に遷り通直常侍を加える。
- 永明五年(487年)、護軍・陳顕達に隷して比陽で荒賊・桓天生を討伐。平西司馬・韓孟度、華山太守・康元隆と共に比陽四十里手前の深橋に頓した際、桓天生が虜の歩騎十万を引き入れ奇襲したが、戴僧静は合戦してこれを大破、万を数える戦果を上げ、天生は比陽に退却。戴僧静は進んで包囲し、天生軍が城外に出るたびに撃破したが、天生は門を閉ざして出なくなり、戴僧静は疲弊してついに撤退した。
- 征虜将軍・南中郎司馬・淮南太守。永明八年(490年)、巴東王・子響が佐官を殺害すると、世祖は戴僧静に領軍を命じ江陵に向かわせたが、戴僧静は上に「巴東王は年少であり、長史の督責が急なあまり忿ったに過ぎない。子が誤って殺人しても、これほどの罪であろうか。今にわかに軍を西上させれば人心は動揺しよう」と面奏したが、上は答えず、内心これを是とした。
- 廬陵王中軍司馬・高平太守・将軍に転任。永明九年(491年)卒。詔は「戴僧静は志節を貞果とし艱難に功を著し、西方の乱を鎮めて功を運始に彰した。急逝は哀傷に堪えない」とし、賻銭五万・布百匹、諡は壮侯。
- 戴僧静と同郡・餘姚の陳胤叔(本名は承叔、宣帝の諱を避けて改名)は弁が立ち刀楯に長けた。初め左夾轂隊将となり泰始初に太祖に従い東討、忠実に征伐に従い功により当陽県子に封ぜられ官は太子左率に至った。世祖に鉄が不足する鍛箭の改良を献策したが、東冶令・張候伯の鑄造した戈が鈍く実用に合わず沙汰止みとなった。永明三年(485年)卒。