南齊書卷二十九 列傳第十 王廣之
王広之、字は林之、沛郡相の人(?–建武四年、享年七十三)。宋末から殷琰討伐・合肥攻略などで武功を挙げ、沈攸之討伐後は太祖・世祖・高宗の三代に仕え、晩年まで各地の刺史を歴任した宿将。
出自と武功
- 王広之、字は林之、沛郡相の人。若くして弓馬に長け勇力があった。初め馬隊主となり、宋の大明中に功により本県令・殿中龍驤強弩将軍・驃騎中兵・南譙太守に補せられた。
- 泰始初、寧朔将軍・軍主として寧朔将軍・劉懐珍に隷属し寿春で殷琰を討伐。殷琰配下の劉従が塁を築いて対峙し、臺軍と対峙が続く中、殷琰は長史・杜叔宝に五千人・輸送車五百輌を率いさせ劉従を援けさせた。劉懐珍は王広之・軍主の辛慶祖・黄回・千道連らに横塘で迎撃を命じ、王広之らは肉薄戦で夕方から日没まで戦い、千余人を殺傷し敵を大敗させ輸送車を焼き払った。劉従はこれを知って塁を棄て逃走した。
- 合肥城が反乱すると官軍は前後から挟撃されたが、都督・劉勔が諸軍主を集めて評議した際、王広之は「私に将軍の馬を貸してくれれば平定してみせる」と請い、劉勔がこれに応じると三日で合肥を攻略した。
- 引き続き劉懐珍に従い淮北を討伐。当時、明帝が青州刺史・明僧暠を北征させ三城に至ったが沈文秀に攻められた際、王広之は歩騎三千余人を率いて海沿いを救援に赴き、共に退却。さらに進軍して沈文秀配下の長広太守・劉桃根を攻め、桃根は城を棄てて逃走し、王広之は安蛮県子(封邑三百戸)に封ぜられた。
- 蒲圻に改封、建威将軍・南陽太守(不赴任)、越騎校尉・龍驤将軍・鍾離太守、左軍将軍・寧朔将軍・高平太守、游撃将軍・寧朔将軍・給事中・冠軍将軍を歴任し、宋建平王の乱討伐で京口で先登の功を立て、寧都県子(封邑五百戸)に改封。
- 太祖が蒼梧王(後廃帝)を廃した際、王広之は仮節督徐州軍事・徐州刺史・鍾離太守・冠軍将軍として出向。
建元以後の官歴と晩年
- 沈攸之の乱が起こると王広之は京師に留まり石頭平定に与り、太祖に従い新亭に頓し征虜将軍に進号。太祖が黄回を誅殺した際、黄回の弟・駟や従弟の馬・兄子の奴が逃亡したため、太祖は王広之に書簡を送り「黄回にはわずかな功もあったが罪過は許し難い。輿や刺史の服飾を求める上表は不問に付そうとしたが、なお車を求めるならこの罪は数えきれぬ。弟(王広之)はこれをよく心得よ」と述べ、法に依り追捕を命じ、王広之は江西で駟らを捜捕した。
- 建元元年(479年)、爵を進めて侯となり封邑千戸、散騎常侍・左軍将軍。北虜が動くと翌年、仮節として淮上に出た。王広之の家は彭沛にあり、郷里の部曲を招いて彭城を奪う策を上表し許され、使持節都督淮北軍事・平北将軍・徐州刺史となったが、淮を越えて得るところなく免官となった。
- 間もなく征虜将軍・散騎常侍・太子右率に復す。世祖即位後、長沙王の鎮軍司馬・南東海太守・司徒司馬・尋陽栢南新蔡太守・安陸王北中郎左軍司馬・広陵太守・将軍を歴任し、持節都督徐州諸軍事・徐州刺史として出向。のち光禄大夫・左将軍司徒司馬に戻り、右衛将軍・散騎常侍・前将軍に転じた。
- 世祖は王広之の子・珍国が有能であるのを見て「卿はまさに老いた蚌だな」(老いても優れた真珠=子を生んだの意)と語り、王広之は「臣あえて辞しません」と答え、上は大笑いした。游撃将軍を拝さず、永明十一年(493年)、虜が動くと節を仮され招募を担った。
- 隆昌元年(494年)、給事中・左衛将軍に遷る。豫州刺史・崔慧景が虜と密通し異志ありとの噂の中、延興元年(494年)、王広之は持節督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事・平西将軍・豫州刺史となる。鬱林王廃立の功で封邑三百戸を加増。
- 高宗が諸王を害した際、王広之は江陽で安陸王・子敬を征討し鼓吹一部を賜った。事後、使持節散騎常侍都督江州諸軍事・鎮南将軍・江州刺史に改任され、応城県公(封邑二千戸)に進封。建武二年(495年)、虜が司州を囲むと持節督司州征討として遣わされ、到着前百余里で虜が退いたため帰還した。
- 翌年、侍中・鎮軍将軍・給扶。建武四年(497年)、七十三歳で卒。散騎常侍・車騎将軍を追贈され、諡は壮公。
史論
- 史臣は言う。公侯が国境を守り国を保つ力の源であり、必ず久しく兵事に習熟していなければ一戦の力とはならない。呂安国らは累代にわたり功を立て、その勤めは称すべきものであり、皆それぞれ時勢を識り上に付き従う道を心得ていた。周盤龍の驍勇は三軍随一で、匈奴が畏れた漢の「飛将軍」李広ですらこれに及ばなかったであろう。まことに壮とすべきである。
- 賛にいう。呂安国は宿将として太祖に協力し社稷を輔け、九江の平定を助けた。周山図は太祖に従い中夏を輔翼した。周盤龍は敵を屠り虜馬の囲みを開いた。王広之は晩年に至るまで旌旗を掲げて奮闘した。