南齊書卷二十六 列傳第七 王敬則

王敬則、晋陵郡南沙県の人。母は女巫。拍張(格闘技)に長け、景和年間の宮廷政変や宋末の乱で武功を重ね、蒼梧王弑逆の夜には自ら首級を太祖蕭道成のもとへ届けて擁立を助けた。斉建国後は南兖州・呉興・㑹稽などの刺史を歴任し治績を挙げたが、明帝の猜疑を受け永泰元年に挙兵し敗死した。時に七十余歳。

年表(12件)

出自と宋末の武功

  • 王敬則は晋陵郡南沙県の人。母は女巫。生まれた時、胞衣が紫色だったため、母は「この子には鼓角の相がある」と語った。成長すると両脇に数寸の乳が生じ、五色の獅子に乗る夢を見た。20歳過ぎには拍張(格闘技)に優れ、刀戟を執る近侍に補せられた。
  • 景和年間(前廃帝劉子業の時代)、跳刀の技で頭角を現し、俠轂隊主となり、壽寂之とともに景和帝(劉子業)を打倒する政変に加わった。
  • 明帝即位後、直閤將軍となったが、刀を執って殿内に入り事を啓上したことに連座して尚方に十余日拘留され、その後直閤に復し、奮武將軍・重安縣子(邑三百五十戸)に叙せられた。
  • 若い頃狩猟中に黒豆のような虫が身にたかり、払うと血が流れる怪異があった。道士に占わせたところ「憂うるに及ばぬ、封侯の瑞である」と告げられ、喜んで都へ出て仕えることを決意した。
  • 泰始初年、龍驤將軍・軍主として寧朔將軍劉懐珍に従い夀春の殷琰を討伐。殷琰配下の劉従が死虎に四塁を築くと、劉懐珍は敬則に千人を与えて背後から横塘を突かせ、賊軍を敗走させた。功により奉朝請、のち東武・暨陽の令に出た。
  • 都を発つ際、陸主山下で同行の船十余艘の中で自分の船だけ進まず、水中を探らせると黒漆の棺が見つかった。「凡器でないなら、富貴を得た暁に改葬する」と誓うと船は進んだ。赴任後、約束通り棺を改葬した。
  • 戦乱後、紫山に拠る残党が県の患いとなっていたが、敬則は霊験あらたかな廟の神に誓いを立てて投降を呼びかけ、頭目が出頭すると廟で宴を催して捕縛し、「神への誓いを破らねば十牛を殺す」と言って処刑した。百姓はこれを喜び、敬則は員外郎に遷った。
  • 元徽二年(474年)、太祖(蕭道成)に従い新亭で桂陽王(劉休範)の乱を防ぐ。敬則は羽林監陳顯達・寧朔將軍高道慶とともに江上で賊の水軍を大破し、船を焼いた。事後、南泰山太守・右俠轂主、のち越騎校尉・安城王車騎參軍。蒼梧王(後廃帝)の暴虐で側近も身の安全を保てぬ中、敬則は太祖の威名を頼み、夜な夜な平服で領軍府に赴き蒼梧王の動静を報告した。

太祖擁立への貢献

  • 太祖は敬則に殿内での機を伺わせた。楊玉夫らが蒼梧王を弑逆した夜、敬則は自邸におり、玉夫が首級を持参すると太祖の元へ急いだ。太祖は罠を疑い門を開けなかったが、敬則が門外から名乗り、垣根越しに首を投げ入れると、太祖は水で首を洗い確認したのち武装して出た。
  • 敬則は太祖に従い承明門から入ろうとしたが、門番は蒼梧王の帰還かと疑った。敬則は刀の鞘で覗き穴を塞ぎ急いで開門を求め、太祖が馬上にいるのを見た衛尉丞顏靈寶が「今開けねば天下は乱れる」と諭し、門は開かれた。翌朝、四人の重臣が後継を協議する場で、敬則は寝床の脇で白刃を抜いて跳び上がり、「官(皇位)は速やかに決すべし、異議ある者は誰か」と叫んだ。
  • 昇明元年(477年)、員外散騎常侍・輔國將軍・驍騎將軍・臨淮太守を領し、封邑千三百戸、殿内宿衛を掌握。沈攸之の乱では冠軍將軍に進む。太祖が朝堂を守る中、袁粲が挙兵し、夕方領軍劉韞・直閤將軍卜伯興らが宮内で呼応しようとしたが、敬則は関を開いて逆襲し全て誅殺、宮中の企ては敬則の働きで鎮まった。右衛將軍・常侍のまま封邑二千五百戸、さらに五百戸増邑。子の元遷は東鄉侯(邑三百七十戸)に封ぜられた。斉の台建立に伴い中領軍となる。
  • 太祖の受禅に際し、太極殿の柱を換える工事があり、順帝(宋末帝)は土を踏むのを避けて宮を出ようとせず、翌日の朝儀の際も再び宮内に隠れた。敬則は輿を用意して迎えに行き、順帝を説き伏せて出させた。順帝は敬則の手を叩いて「必ず案じるな」と言い、即位の際に十万銭を賜ると約した。

斉建国後の栄達

  • 建元元年(479年)、使持節・散騎常侍・都督南兖兖徐青冀五州軍事・平北將軍・南兖州刺史・尋陽郡公(邑三千戸)。妻の懐氏は尋陽國夫人となる。二年(480年)、安北將軍に進号。北虜が淮泗を侵すと、鎮を離れて都に戻ったため百姓が動揺したが、上(高帝)は功臣として咎めず、都官尚書・撫軍とし、のち使持節・散騎常侍・安東將軍・呉興太守に遷す。
  • 呉興は昔から盗賊が多かった。道端の遺失物を拾った十数歳の子供を処刑して見せしめとしたところ、以後道に落ちた物を拾う者がなくなった。捕らえた盗人には親族に鞭打たせて街路の清掃をさせ、その盗人に旧知の盗賊仲間を告発させた結果、他の盗賊は発覚を恐れて逃散し、郡内は清まった。市を視察中に肉屋の棚を見て「呉興には昔はこの棚はなかった、これは私が若い頃に作ったものだ」と述懐した。護軍將軍・常侍のまま、私邸を役所として用いた。
  • 三年(481年)、母の改葬のため職を辞す。詔により母は尋陽公國太夫人を追贈され、敬則は侍中・撫軍將軍に改任。太祖の遺詔で本官のまま丹陽尹を領し、のち使持節・散騎常侍・都督㑹稽東陽新安臨海永嘉五郡軍事・鎮東將軍・㑹稽太守。

会稽太守時代と塘丁税制の議論

  • 永明二年(484年)、鼓吹一部を賜る。㑹稽地方は湖海沿いの堤塘(堤防)の維持労役を士庶問わず全戸が負担していたが、敬則は労力に余裕があるとして労役を銭に換算し台庫に納めさせる便宜策を上奏し、上(武帝)はこれを許した。
  • 竟陵王子良は上奏して異を唱えた。三呉は国家の要地だが民は疲弊し、銭は高く物は安く、farming(農耕)の収穫は乏しく機織りの利も薄い。定額の租税は民の実情に合わず、堤塘の労役を一律銭納に換えても実際の維持費とは合致せず、かえって堤が崩れ川筋が乱れ民生と治政を損なうと説いた。斉建国以来の軍費増大で浙東五郡の丁税は一人千銭に達し、妻子を売って充てる者すら出て未納も多いこと、先に三分の一の租税を免除したにもかかわらず状況は改善しないことを述べ、堤塘の労役は旧に復し、未納分は事情を斟酌して減免すべきこと、銭納を強制せず布帛など実物での納入も市価相当で認めるべきことを提案。晋の江左遷都以来、絹布の相場が今の十倍だった例や、永初・元嘉年間の官布と民間相場の差など先例を挙げ、朝廷の基盤は結局三呉の富にあるとして、目先の小利より長期的な民力の涵養を優先すべきと訴えた。上は納れなかった。

累進と人物

  • 三年(485年)、征東將軍に進号。宋の廣州刺史王翼の子の妾路氏が婢を数人殺害する事件が起き、翼の子法明が敬則に訴えると、敬則は山陰獄に付して路氏を処刑した。路氏の一族が訴えたため、担当した山陰令劉岱が棄市の刑に処されることとなった。敬則が入朝すると、上は「人命は至重、誰の判断で報告もなく殺したのか」と問い、敬則は「私の一存です、法などわきまえず、罪ありと見れば殺すべしと申しただけです」と答え、劉岱もまた罪を引き受けたため、上は二人を赦免した。敬則は免官となるも公として郡は保持し、翌年侍中・中軍將軍に遷り、王儉とともに開府儀同三司に叙せられたが、王儉が固辞したため敬則もすぐには受けなかった。
  • 七年(489年)、使持節・散騎常侍・都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事・征西大將軍・豫州刺史(開府のまま)、のち驃騎に進号。十一年(493年)、司空・常侍。世祖崩御の遺詔で侍中を加える。
  • 高宗(蕭鸞)が輔政し密かに廃立を図る中、隆昌元年(494年)、敬則は使持節・都督㑹稽東陽臨海永嘉新安五郡軍事・㑹稽太守として都を離れる。海陵王擁立後、太尉に進む。
  • 高位にありながら奢らず、士庶に分け隔てなく接し、常に呉方言で親しく語りかけた。かつて北魏への使者として北館に柳を植えたが、のち使者として帰った員外郎虞長耀に「あの柳は今どれほど育ったか」と尋ねると、長耀は「北方では甘棠(召公の遺徳を偲ぶ木)と呼ばれています」と答え、敬則は笑って何も返さなかった。世祖主催の賦詩の席で、紙を手にして「私はこの席で恥をかくところだった」と述べ、理由を問われると「もし字が読めていたら尚書都令史止まりだったろう、今日の地位はなかった」と答えた。読書はできなかったが才知に長け、地方官として文書処理や裁判に誤りがなかった。
  • 明帝即位後、大司馬に進み千戸増邑。授任の日に大雨が降り敬則は動揺したが、傍らの客に「あなたは昔から丹陽・呉興に赴任した時もそうでしたよ」と言われ喜び、正装で儀仗を整えて出仕したものの、内心は落ち着かず舌を出し続けていたという。

明帝の疑心と挙兵

  • 明帝は多くの粛清を行い、敬則は高帝・武帝時代からの旧臣として恐れを抱いた。明帝は表向き礼遇しつつ内心疑い、頻繁に敬則の健康状態を探らせた。内地に居ることでいくらか安心を得ていた。永泰元年(498年)に先立つ三年、朝廷は蕭坦之に武装兵五百を率いさせ武進陵(先帝陵)へ派遣、都にいた敬則の子らは恐れおののいた。上はこれを知り、敬則の世子仲雄を東へ遣り安心させた。仲雄は琴の名手で、当代随一とされ蔡邕の焦尾琴を宮中の庫から五日に一度賜って弾くことを許されていたが、御前でこの琴を弾き「懊儂曲」に「かつて情を負うた男の言葉を今まさに実行された」との歌詞をのせて歌った。
  • 明帝の疑いはますます深まり、永泰元年、帝が重病に陥ると張瓌を平東將軍・呉郡太守として兵を配し密かに敬則に備えさせた。敬則討伐の噂が広まると、敬則は「東(呉郡方面)にもはや敵はいない、私を討とうとしているだけだ」と静かに語ったが、子らは動揺した。
  • 五男幼隆は正員將軍徐嶽を遣り、密かに徐州行事謝朓に真意を伝え、同心なら報告を求めたが、謝朓は徐嶽を捕らえて朝廷に急報した。城局參軍徐庶は京口の子から密報を受け敬則に伝えた。族子で信頼厚い五官王公林は、子らが死んでも構わぬから直ちに単舟で都へ急使を送るよう勧めた。敬則は司馬張思祖に上奏文を起草させかけたが、「都の子らからも既に何か知らせがあるはずだ、一晩待とう」と思い直した。その夜、僚佐と賭博の宴を開き「諸君は私にどうせよと言うのか」と問うたが誰も答えなかった。防閤丁興懐だけが「殿はただ行動なさるべきです」と答えた。
  • 翌朝、山陰令王詢と台の侍御史鍾離祖願を召し、刀を横たえて座り、動員できる丁数と貯蔵の銭物を尋ねた。王詢は「県の丁は急には集められない」と、祖願は「物資の多くは未納」と答えた。敬則は激怒して二人を斬ろうとし、王公林が「他のことは悔いても構いませんが、これだけは取り返しがつきません」と諫めたが、敬則は公林の顔に唾を吐き「小僧、私のすることに口を出すな」と挙兵に踏み切った。
  • 明帝の詔(要旨)は、謝朓の報告と徐嶽の証言を並べ、王敬則は本来凶暴狡猾な性で、宋末の乱に軍功を挙げて栄達したが、その功に見合わぬ栄爵を得ながら永明・隆昌の頃より逆心を抱き、亡命者を集め子の元遷らと結び、婚戚の謝朓・同郷の徐嶽との繋がりから謀反は明白であるとし、敬則とその子のみを厳罰に処し、他の連座者は赦すとした。子の員外郎世雄・記室參軍季哲・太子洗馬幼隆・太子舍人少安らは邸で殺され、寧朔將軍として千人を率い北虜と戦っていた長子元遷も、徐州刺史徐𤣥慶の手で誅殺された。

敗死

  • 敬則は二、三日で兵を整え出発、前中書令何𦙍を擁立しようとしたが、長史王弄璋・司馬張思祖に止められ、実兵一万をもって浙江を渡った。張思祖が檄文の作成を勧めたが、敬則は「これから自ら朝廷へ帰るだけだ、何のために書くのか」と応じなかった。
  • 朝廷は輔國將軍前軍司馬左興盛、後軍將軍直閤將軍崔恭祖、輔國將軍劉山陽、龍驤將軍直閤將軍馬軍主胡松ら三千余人を曲阿長岡に築塁させ、右僕射沈文季を湖頭に置いて京口路を防がせた。敬則は旧将としての人望から十余万の民が農具を担いで従い、晋陵で南沙人范脩化が県令公上延孫を殺して呼応した。武進陵口で敬則は号泣しながら肩輿で進み、左興盛・劉山陽の二塁に猛攻をかけた。
  • 左興盛は兵に「お前の子はもう皆死んでいる、その物(旗印)を持って何になる」と呼びかけさせた。囲みを解けず退くに退けぬまま両軍は死闘となり、胡松の騎兵が背後を突くと、装備の乏しい徒衆は動揺して四散、敬則軍は大敗した。敬則は再三馬に乗ろうとして果たせず、左興盛配下の袁文曠に討ち取られ首級を送られた。
  • このとき明帝は重篤で、敬則急襲の報に朝廷は震撼した。東宮にいた東昬侯(後の廃帝)は逃亡を考え、屋上から様子を見させたところ征虜亭の火事を敬則軍の到達と見誤り、急ぎ逃走の支度をした。ある者が敬則にこれを告げると(伝聞として)敬則は「檀公の三十六策、逃げるが上策と言うではないか、お前たち父子はただ急いで逃げるがよい」と語ったという。挙兵の勢いは盛んだったが、わずか数日で敗れ、時に七十余歳であった。左興盛・崔恭祖・劉山陽・胡松はそれぞれ新吳縣男・遂興縣男・湘陰縣男・沙陽縣男(各四百戸)に封ぜられ、公上延孫は射聲校尉を追贈された。