南齊書卷十二 志第四 天文上
総説
- 宋昇明三年、太史令・将作匠の文孝建は天文を陳奏し、孝建元年から昇明三年までの間に日蝕十度が起こり、そのうち七度に「亡国失君の象」「国命絶え主危うし」「異姓興る」「国に喪あり」「国去りて王徙る」「陽足らず」等の占が付されたと報告した。
- 具体的には、太白経天(占:天下革まり異姓興る)、月と太白の房心犯(占:国に喪あり)、奔星の紫宮出入(占:国去りて王徙る)、白虹貫日(占:人君これを悪む)、月の太微入、太白の太微入、熒惑の太微入(占:七曜軌道を行かず危亡の象、貴人権勢を失い王入りて主となる)、太白熒惑の羽林経(占:国残り世更まる)、熒惑の南斗守(占:天下正を易え元を更む)、填星熒惑辰星の南斗合(占:改立王公)、太白の填星犯、太白填星の危合(占:天子土を失う)、熒惑の太微勾巳(占:王者これを悪む、主命期無く主を徙すべし、天下紀を更む)、白気の出現二度(占:除旧布新、易主の象、遠期一紀)、太白の填星犯、太白嵗星填星の東井合(占:改立王公)、日の頻食二度(占:社稷将に亡びんとす)、填星の太微逆従行四年(占:亡君の戒め、世を易え王を立つ)、熒惑太白辰星の翼合(占:改立王公)、嵗星の南斗守(占:大赦・昇平の兆、律暦七政の本源、天下年を更む、五礼更興)、熒惑の輿鬼守・両戒間勾巳(占:尊者朝を失い必ず国を亡ぼし王去る)、辰星の孟効西方(占:天下更に王す)などが挙げられている。
- 昇明三年四月、嵗星が虚危の間・玄枵の野に徘徊したのは斉国に福厚く慶を受くる符とされた。
- こうした「三辰七曜の変」の記録は建元から隆昌に至るまで続けて記され『宋史』を継ぐ形とされたが、建武の代、太史が上奏した天変記録を明帝が外に伝えることを望まなかったため秘され、以後は欠けている。
日蝕
- 建元二年九月甲午朔、三年七月己未朔、永明元年十二月乙巳朔に日蝕が記録されている。
- 永明十年十月二日癸未朔には、蝕は西北角から起こり十分の四が欠け、申時に光色が回復したと詳細に記される。
- 隆昌元年五月甲戌合朔には巳時に日蝕が起こり三分の一が欠け、午時に回復した。
月蝕
- 建元四年七月(危宿)、永明二年四月(南斗宿)、三年十一月(東井、三分の一)、五年三月(氐宿)・九月(胃宿)、六年九月(婁宿、十五分の十一)、十年十二月(柳度、七分の二)、七年八月(奎宿)、八年六月(畢宿の左股第一星を掩蝕)に月蝕が記録されている。
- 永泰元年四月癸亥、月蝕の色が血のように赤く、三日後に大司馬王敬則が挙兵したため、人々はこの異変が敬則の兆であったと考えた。
- 永元元年八月己未、月蝕は全て赤く染まり、その夜、始安王蕭遥光が誅殺された。
史論(日月蝕の理論)
著者は、日月の蝕についての諸説を検討する。旧説(日蝕は上下左右中央の五様がある)、交会説(日蝕は月が日の西から東行して交わることに由来し、交わり方によって西南・西北いずれの角から欠けるかが決まる)、後漢黄香の説(日蝕は必ず西から、月蝕は必ず東から始まり、上下中央の別はない)を挙げ、『春秋』魯桓公三年の日蝕記事の解釈(鄭玄・王逸説)を検討する。王逸が「月が日を掩えば西から蝕み東で復すはず」とした点には疑義を呈し、日蝕は日自体の暗気によるとし、月蝕は月が「虚道」(暗気の帯)に入り天の暗気に遮られることによるとする説を紹介する。さらに太白経天の理論的説明について、二蝕(日蝕・太白経天)の理は「周衝の同じからざる」ものであり、経天か否かは星の遅疾によるとし、経天説を安易に引くべきでないと結んでいる。
日の光色(暈・珥・背等)
- 建元元年から永元元年にかけて、日の赤黄無光、日暈、虹抱珥直背、白虹貫日など多数の異常な光学現象が記録されている。永元元年十二月には日中に黒子三つが見えたとの記録がある。
月暈・月の犯(凌犯記録)
- 建元元年から隆昌元年にかけて、月が太微・房・氐・心・南斗・軒轅・畢・東井・箕・輿鬼・角・亢など多数の星宿を犯し、あるいは五星(歳星・熒惑・填星・太白)と合宿した記録が数百件にわたり、詳細な日付・方位・距離とともに記されている。
- 史臣は、月令の昏明中星がすべて二十八宿であるにもかかわらず箕斗の間だけがやや疎であるため、仲春・孟秋には建星が宿度と並び陵犯を受けやすいとし、石氏星経の「斗は爵禄を司り賢を襃め士を進める」との説を引き、建星の異変も宰相の占として扱われるべきだと論じている。
記録の続き
月犯の記録は永明中頃以降も続き、東井・軒轅・氐・房・畢・南斗・太微など各星宿への凌犯、および歳星・填星・太白との合宿が詳細に記され続けている。隆昌元年・永泰元年にも記録があり、末尾には「泰元元年七月、月が心中星を掩う」との記事があるが、これは考證によれば「永元元年」の誤りとされる。