南齊書卷六 本紀第六 明帝

斉の第五代皇帝、高宗明皇帝蕭鸞(字は景栖、?–498年)。太祖の兄・始安貞王道生の子。輔政の実権を握って鬱林王・海陵王を相次いで廃し自ら即位、太祖・世祖の諸子を次々と誅殺して皇位を固めた。倹約を重んじる一方で猜忌が強く、道術や吉凶を過度に信じたと評される。

年表(11件)

出自と生い立ち

  • 高宗明皇帝、諱は鸞、字は景栖。始安貞王道生の子で、小諱は玄度。幼くして父を失い、太祖の慈しみを諸子以上に受けた。宋の泰豫元年、安吉令となり厳格有能の名を得た。武陵王の左常侍に補されたが赴任せず、元徽二年、永世令となった。昇明二年、邵陵王安南記室参軍に任じられたが未赴任のまま寧朔将軍・淮南宣城二郡太守に転じ、まもなく輔国将軍に進号した。
  • 太祖の践祚により侍中に遷り西昌侯(邑千戸)に封じられた。建元二年、督郢州司州之義陽諸軍事・冠軍将軍・郢州刺史となり征虜将軍に進号。世祖即位後、度支尚書・領右軍将軍に転じた。永明元年、侍中・領驍騎将軍に遷った。王子侯は従来纒帷車に乗る慣例だったが、高宗は独り下帷の車で素士と変わらぬ従者で通した。ある時、公事で行き交う中で販食人の担う火が誤って牛の鼻を焼く事件があり豫章王が世祖に報告したが、世祖は笑って済ませた。散騎常侍・左衛将軍に転じ、道を清めて行くようになると上(世祖)はこれを喜んだ。
  • 永明二年、征虜将軍・呉興太守として外に出、四年、中領軍・常侍に戻った。五年、監豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事・右将軍・豫州刺史。七年、尚書右僕射。八年、衛尉を兼領。十年、左僕射に転じ、十二年、右衛将軍を兼領した。世祖の遺詔により侍中・尚書令となり、まもなく鎮軍将軍に進み班剣二十人を給された。隆昌元年、本号のまま大将軍となり鼓吹一部・親兵五百人を給され、まもなく中書監・開府儀同三司を加えられた。
  • 鬱林王が廃され海陵王が立てられると、使持節都督揚南徐二州軍事・驃騎大将軍・録尚書事・揚州刺史(開府はそのまま)となり、班剣を三十人に増やし宣城郡公(二千戸)に封じられ、東府城を鎮とし兵五千人・銭二百万・布千匹を給された。九江の変事(陳顕達の乱ではなく後述の乱事)に際し黄鉞を仮せられ、事が鎮まると表を上げてこれを返上した。まもなく黄鉞・都督中外諸軍事・太傅・領大将軍・揚州牧を加えられ、班剣を四十人に増やし幢絡三望車・前後部羽葆鼓吹・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を給され、左右長史・司馬・従事中郎・掾属各四人を置かれ、宣城王(邑五千戸)に封じられた。持節・侍中・中書監・録尚書はそのまま。まだ即位しないうちに、皇太后令により海陵王が廃され、鸞(太祖の第三子)が皇統を継ぐこととなり、群臣の三たびの請いを受けて即位を承諾した。

建武元年(494年)

  • 冬十月癸亥、皇帝に即位した。詔では皇齊の受命と七百年の長きを誓う一方、近年の王度の乱れと嗣命の相次ぐ更迭により宏図が墜ちかけたところを、宣徳皇后の判断で自身に天命が集まったことを述べ、大赦・改元し、宿衛の身に一階を進め、文武に位二等を賜り、建武元年以前の逋租・宿責・換負官物をすべて免除し、劫賊で台府に留められた余口を放免し、罪により流徙された者を本郷に戻した。太尉王敬則を大司馬、司空陳顕達を太尉、尚書令王晏を驃騎大将軍・中領軍加官、蕭諶を領軍将軍・南徐州刺史、皇子宝義を揚州刺史、中護軍王玄邈を南兗州刺史、張瓌を右光禄大夫、平北将軍王広之を江州刺史とした。乙丑、遠近よりの祝賀の献上を止める詔、丁卯、彫文篆刻の献上や貢献の禁止を命じる詔を出し、安陸昭侯緬を安陸王に追贈した。己巳、安陸侯子宝晊を湘州刺史とし、租税徴収の弊害是正の詔を出した。
  • 十一月癸酉、始安王遥光を揚州刺史、王洪範を青冀二州刺史とし、尚書令王晏に太子少傅を兼ねさせた。甲戌、大司馬尋陽公王敬則ら十三人を進爵。新林苑を廃して民地を還すことを詔した。庚辰、皇子宝義を晋安王、宝玄を江夏王、宝源を廬陵王、宝寅を建安王、宝融を随郡王、宝攸を南平王に立てた。甲申、邑宰の俸禄・貢納の負担軽減を詔し、宣城国の官への叙任措置も出した。乙酉、始安貞王を景皇に、妃を懿后に追尊。丙戌、聞喜公遥欣を荆州刺史、豊城公遥昌を豫州刺史とした。丁亥、細作中署・材官・車府の工人に休息を与える詔。戊子、皇太子宝巻を立て、天下に恩賜を行い、孝子順孫・義夫節婦を表彰した。己丑、東宮創建にあたっての慶賀儀礼を停止する詔。壬辰、新任の征虜将軍江夏王宝玄を郢州刺史とし、永明中に御史中丞沈淵が奏上した「七十歳以上の百官致仕」の令の弊害を踏まえた措置を講じた。庚子、老年の官への処遇を永明七年以前の制に戻す詔を出した。上(明帝)が輔政時に誅殺した諸王の属籍を回復し、その子を侯に封じた。十二月壬子、上奏の実情がよく伝わるよう配慮する詔を出した。

建武二年(495年)

  • 春正月辛未、死罪の囚人を五年刑に減じ、諸署の徒刑五年以下を赦す詔。王公以下に人材推挙を命じ、群臣に極諌を求めた。索虜(北魏)が司豫徐梁の四州に侵攻したため、壬申、王広之を司州、蕭坦之を徐州、沈文季を豫州の征討に督させた。己卯、京師二県の荒廃した墳墓の修理を命じ、農桑の奨励と堤防の修築を命じる詔を出した。乙未、虜が鍾離を攻めたが徐州刺史蕭恵休がこれを破った。丙申、太尉陳顕達を使持節都督西北征討諸軍事とし、丁酉、内外に戒厳を布いた。三月戊申、南徐州の民の負担を軽減する詔。己未、司州刺史蕭誕が虜を撃破した。虜の侵攻を受けた諸州の税調を停止する詔、丙寅、青州の麦租を停止。虜は寿春から退却し、甲申、戒厳を解いた。
  • 夏四月己亥朔、三百里以内の獄訟を京師で審理する制度を定めた。索虜が漢中を囲んだが梁州刺史蕭懿がこれを拒退した。己未、裴叔業を徐州刺史とした。五月甲午、寝廟が完成し、造営に従事した者へ恩賞を与えた。六月壬戌、領軍将軍蕭諶、西陽王子明、南海王子罕、邵陵王子貞を誅殺。乙丑、右衛将軍蕭坦之を領軍将軍とした。秋七月辛未、右将軍晋安王宝義を南徐州刺史、壬申、梁王(蕭衍)を司州刺史、辛卯、氐の楊馥之を北秦州刺史・仇池公とした。八月丁未、廬陵王宝源を南兗州刺史、庚戌、申希祖を兗州刺史とした。九月己丑、南平王宝攸を邵陵王、蜀郡王子文を西陽王、広漢王子峻を衡陽王、臨海王昭秀を巴陵王、永嘉王昭粲を桂陽王に改封した。冬十月丁卯、質素倹約に立ち返る詔を出し、東田を廃止し興光楼を毀した。乙卯、皇太子妃褚氏を納れ大赦した。十二月丁酉、旧都・旧陵の荒廃を憂え、晋帝諸陵の修理・守衛の増強を命じる詔を出し、呉・晋陵二郡の被災地の租税を軽減した。

建武三年(496年)

  • 春正月丁酉、陰平王楊炅の子崇祖を沙州刺史・陰平王に封じ、建安王宝寅を江州刺史とした。己巳、守長六周制を申明する詔。乙酉、前年の索虜侵攻で死傷した辺境将士を本土へ送還させる詔。三月壬午、車府の乗輿から金銀の飾りを取り除く詔。夏四月、虜が司州の戍兵を寇したが撃破した。五月己巳、蕭懿を益州刺史、陰広宗を梁南秦二州刺史、李慶宗を寧州刺史とした。秋九月辛酉、徐玄慶を兗州刺史、冬十月、申希祖を司州刺史とした。閏十二月戊寅、皇太子が冠礼を行い、恩賜と免税の詔を出した。

建武四年(497年)

  • 春正月庚午、大赦し、学校の再興を命じる詔を出した。壬寅、産子の家への調役免除・賜米、新婚者への夫役免除を詔した。丙辰、尚書令王晏を誅殺。二月甲子、左僕射徐孝嗣を尚書令、蕭季敞を広州刺史とした。三月乙未、右僕射沈文季に護軍将軍を兼領させた。秋八月、景皇の生母王氏を恭太后に追尊。索虜が沔北を寇し、冬十月には司州を寇したため、甲戌、梁王(蕭衍)に右軍司馬張稷を副えて討伐させた。十一月丙辰、氐の楊霊珍を北秦州刺史・仇池公・武都王とした。丁亥、屋宅田桑の課税を減じる詔。十二月甲子、裴叔業を豫州刺史、徐玄慶を徐州刺史、左興盛を兗州刺史とし、丁丑、崔慧景を遣わして雍州を救援させた。

永泰元年(498年)

  • 春正月癸未朔、大赦し四年以前の逋租・宿債を免除。中軍大将軍徐孝嗣を本号のまま開府儀同三司とした。沔北諸郡が虜に侵され相継いで敗没したため、乙巳、太尉陳顕達に節を持たせ雍州救援に遣わした。丁未、河東王鉉、臨賀王子岳、西陽王子文、衡陽王子峻、南康王子琳、永陽王子珉、湘東王子建、南郡王子夏、桂陽王昭粲、巴陵王昭秀を誅殺した。二月癸丑、蕭恵休を寿陽援護に遣わし、辛未、豫州刺史裴叔業が淮北で虜を破った。辛巳、蕭遥欣が雍州刺史を兼ねた。三月丙午、雍州の被災県の租布を免除する詔。戊申、孔子の祭祀(祧薦)を厚くする詔を出した。夏四月甲寅、改元し、囚繋を赦し文武に位二等を賜った。丙戌、蕭坦之を侍中・中領軍とした。己未、武陵昭王子子坦を衡陽王に立て、丙寅、劉暄を郢州刺史とした。丁卯、大司馬会稽太守王敬則が挙兵反乱を起こし、五月壬午、劉山陽に東討を命じた。乙酉、王敬則を斬りその首級を伝送し、浙東呉晋陵七郡を曲赦した。蕭頴冑を南兗州刺史、丁酉、司馬元和を兗州刺史とした。秋七月、王珍国を青冀二州刺史、癸卯、梁王を雍州刺史、太尉陳顕達を江州刺史とした。己酉、帝は正福殿で崩じた。享年四十七。遺詔で徐孝嗣を八命に重申し中書監以下の官はそのままとし、沈文季を左僕射、江祏を右僕射、江祀を侍中、劉暄を衛尉とし、軍政の大事は陳(顕達)太尉に委ね、内外の衆事は大小を問わず徐孝嗣・遥光・坦之・江祏に委任し、大事は沈文季・江祀・劉暄も参議に加わるものとした。劉悛・蕭恵休・崔慧景を心膂の任として委ねるよう定めた。興安陵に葬られた。

  • 帝は事に明敏で吏才があり、法を執っては私情を挟まず、寵臣であっても厳しく統制した。寒人に四幅の傘の使用を禁じるなど倹約を重んじ、世祖の建てた新林苑を廃して地を百姓に還し、文帝の建てた太子東田も廃して売却した。永明中の輿輦・舟乗の金銀装飾はすべて剥がして主衣庫に戻した。太官が裹蒸(ちまき)を進上した際、帝は「私はこれを食べ切れないので四片に割って残りは夕食に回すように」と言った。世祖の掖庭中宮の殿舎・服御は一切改めなかった。

  • 一方で猜忌が強く多慮な性格で、しばしば誅戮を行った。密かに道術を信じ、出行の際には吉凶を占い、南に出るときは西行と称し、東に遊ぶときは北幸と称して行き先を隠すほどで、ついに南郊の祭祀にも赴かなかった。当初は病がありながら政務を絶やさず、病を秘して臣下に伝えなかった。寝疾が長引くと台省府署の文簿を求めて白魚(紙魚)を治外の兆と見なした。自ら絳衣を着し服飾を赤で統一して厭勝とし、巫覡が「後湖の水頭が宮内を経て帝の病の原因になっている」と言うと、自ら太官に赴いて水路を検分し、左右が「太官はこの水がなければ成り立たない」と諌めても、帝は淮水を南に引いて塞ごうと決めたが、事半ばで崩じ沙汰止みとなった。

史論

  • 史臣曰く、高宗は傍系の身から皇統を継ぎ、猶子(甥)にあたる幼帝に対して謀を巡らせたことは、もとより本意ではなかったであろうが、遺託の重責からやむを得ぬ面もあった。骨肉を害する事は、雄々しい忍耐から出る場合も、畏懼から生じる場合もある。近親の情を先に断ち切り、寵愛の対象を将来に禍根を残すものと見なして遠ざけたのは、疑い深さゆえの決断であった。涙を流しながら誅戮を行ったことは義挙とは言い難く、安泰を求めた事とはいえ内心に恥じるところがなかったはずはない。やがて自らの子孫は孤弱となり、この不振が宗社を覆すことになった。もし天命の巡り合わせが定まっているのであれば、殷の盤庚の祀りが陽甲に継がれたのと同様、天運の推移として咎めるには及ばないであろう、と評する。
  • 賛に曰く、高宗は傍系より起って宗国の慶を受け、名節と倹徳を慕い、文法を垂れて小心翼々、明察な吏政を敷いたが、沔陽で土地を失い南風は振るわなかった。