南齊書卷四 本紀第四 鬱林王
斉の第三代皇帝、鬱林王昭業(字は元尚、?–494年)。文恵太子の長子。世祖崩御後に即位したが、宦官らに政務を委ね酒色と散財にふけって朝野の信望を失い、蕭鸞(後の明帝)の廃立の謀を察知しながら誅殺し損ね、逆に廃されて殺された。享年二十一。
出自と生い立ち
- 鬱林王昭業、字は元尚。文恵太子の長子で、小字を法身という。世祖の即位に伴い南郡王に封じられ、封戸二千戸。
- 永明五年(487年)十一月戊子、東宮の崇政殿で元服の礼を行い、その日の小会で王公以下に絹帛を差等をつけて賜った。昭業には従者二人を給された。
- 永明七年(489年)、有司の奏により班剣二十人・鼓吹一部を加えられ、優れた師傅を選任された。
- 永明十一年(493年)、皁輪三望車を賜り、優れた国官を選ばせる詔が出た。文恵太子が薨じ、昭業は皇太孫に立てられ東宮に居した。世祖が崩じ、太孫(昭業)が即位した。
永明十一年(493年)の即位後の詔令
- 八月壬午、先帝の遺詔と称して、護軍将軍武陵王曄を衛将軍・征南大将軍とし本号のまま開府儀同三司とし、尚書左僕射西昌侯鸞を尚書令・太孫詹事とし、沈文季を護軍将軍とした。癸未、司徒竟陵王子良を太傅とし、租調・諸債の免除や、囚人の恩赦など多数の詔を発した。
- 九月癸丑、東西二省の府・国・長屯の財政窮乏を憂い、選部に人材登用を命じた。辛酉、文恵皇太子を追尊して世宗文皇帝とした。冬十月壬寅、皇太孫太妃を皇太后に尊び、何氏を皇后に立てた。十一月辛亥、臨汝公昭文を新安王、曲江公昭秀を臨海王、皇弟昭粲を永嘉王に立てた。
隆昌元年(494年)
- 春正月丁未、改元・大赦。太傅竟陵王子良に殊礼を加え、驍騎将軍晋熙王銶を郢州刺史、丹陽尹安陸王子敬を南兗州刺史、征北大将軍晋安王子懋を江州刺史、臨海王昭秀を荆州刺史、永嘉王昭粲を南徐州刺史とし、征南大将軍陳顕達は車騎大将軍に進号、郢州刺史建安王子真は護軍将軍とされた。百官に得失を極言させ、王公以下に人材の推挙を命じた。戊申、護軍将軍沈文季を領軍将軍、己酉、前将軍曹虎を雍州刺史、右衛将軍薛淵を司州刺史、庚戌、寧朔将軍蕭懿を梁南秦二州刺史、輔国長史申希祖を交州刺史とした。
- 辛亥、南郊で祀りを行い、農事奨励と獄訟の見直しを命じる詔を発した。戊午、景安陵に拝謁。己巳、新任の黄門侍郎周奉叔を青州刺史とした。
- 二月辛卯、明堂で祀りを行った。夏四月辛巳、衛将軍開府儀同三司武陵王曄が薨じた。戊子、太傅竟陵王子良が薨じた。戊戌、前沙州刺史楊炅を沙州刺史、丁酉、驃騎将軍廬陵王子卿を衛将軍、尚書右僕射鄱陽王鏘を驃騎将軍とし、共に開府儀同三司とした。閏月乙丑、南東海太守蕭頴冑を青冀二州刺史、丁卯、鎮軍大将軍鸞を本号のまま開府儀同三司、戊辰、中軍将軍新安王昭文を揚州刺史とした。六月丙寅、黄門侍郎王思遠を広州刺史とした。
- 秋七月庚戌、中書郎蕭遥欣を兗州刺史、東莞太守臧霊智を交州刺史とした。癸巳、皇太后令が下され、鎮軍将軍鸞(西昌侯)ら重臣を挙げ、皇室の由来と三代の功徳を述べたうえで、嗣主(昭業)が幼くして険戻の性を著し、酒色を好み善を嫌う一方、世祖はその慈愛から改心を期して容認してきたが、即位後は喪中に哀しみなく宴楽にふけり、政務は宦官徐龍駒・周奉叔・綦母珍之らに委ねられて滞り、後宮も乱れて男女の別なく淫らな行いが横行していると糾弾する内容であった。
- 昭業は文恵太子の禁を破って豫章王妃庾氏に「帝王の家に生まれた福徳より、市井の富豪の方がましだ」と語るなど放縦であったこと、即位後は世祖の府庫の銭を惜しみなく散財し、宝器を打ち壊して笑いものにし、闘鶏に大金を費やし、世祖の遺愛の物を宮人に断ち割らせて用いるなど、行状が乱れたことが記される。宦官徐龍駒を寵愛して後閣舎人とし、文帝の寵姫霍氏と密通させ、還俗させて留めようとした。中書舎人綦母珍之・朱隆之、直閣将軍曹道剛・周奉叔らが帝の羽翼となった。
- 高宗(鸞)はたびたび諫めたが聞き入れられず、まず龍駒を、次いで奉叔・珍之を誅殺しようとしたが果たせなかった。やがて尼媪の出入りから異語が伝わり、昭業は高宗に異志ありと疑い始めた。中書令何胤は皇后の従叔として親任され、皇后から「三父」と呼ばれる間柄であったが、昭業・何胤が高宗誅殺を謀った際、胤は事を受けることを避けて諫めた。帝の意はいったん止んだが、なお高宗を西州に出そうと画策した。
- 高宗は変事を察して帝の廃位を決意し、二十二日壬辰、蕭諶・蕭坦之らに命じて省で曹道剛・朱隆之らを誅殺させ、兵を率いて尚書省から雲龍門に入り、戎服の上に朱衣をまとって入宮した。王晏・徐孝嗣・蕭坦之・陳顕達・王広之・沈文季も加わった。帝は寿昌殿で異変を聞き、内殿の諸房閣を閉じさせたが、宦官に興光楼へ登らせて様子を見させると、戎服の一団が西鍾楼下にいると報告があった。まもなく蕭諶が兵を率いて先に宮中に入り寿昌閣を封鎖し、帝は寵姫徐氏の房へ逃げ込んで自刃を試みたが果たせず、帛で頸を巻かれて輿で延徳殿に運ばれた。
- 蕭諶が殿内に入ると宿衛の将士は弓楯を構えて拒もうとしたが、諶は「討つべき者は決まっている、動く必要はない」と告げて信じさせた。宿衛が帝の輿を見て奮い立とうとした時にはすでに遅く、帝は一言も発せぬまま西弄で殺された。享年二十一。遺骸は輿で徐龍駒の邸に運ばれ、王の礼で葬られた。残党もあわせて誅殺された。
史論
- 史臣曰く、鬱林王は容貌華麗で人々を惑わせたが、内心は隠詐で推し量りがたかった。嫡長子であるがゆえに立てられたが、世祖の心配りにもかかわらず徳を改めることなく、乱行は宮闈より兆し、害こそ大きくなかったものの社稷を傾けるに至った。『春秋』が梁伯の過ちを「自ら取った滅び」と記すのと同じである、と評する。
- 賛に曰く、十の過ちのうち一つでもあれば国は保てぬものだが、鬱林王はその負荷に堪えず、礼を棄て法を亡ぼした。