南北史演義自序(0101 自序)
春秋の筆誅と乱臣賊子
孟子(子輿氏)は、世が衰え道が廃れて邪説・暴行がはびこり、臣が君を弑し子が父を弑する例が相次いだため、孔子が『春秋』を作り、それによって乱臣賊子が恐れをなした、と説いた。孔子が乱賊を懼れたのと同様、乱賊もまた孔子を懼れる。一字の褒貶が斧鉞にも勝る厳しさを持つのは、筆削の功がそれだけ大きいからである。
南北朝は簒奪の時代
『春秋』以後も乱賊の輩出は絶えなかったが、その最たるものが南北朝である。宋の武帝がその首悪であり、斉・梁・陳も一つとして簒奪によらず国を得た王朝はなく、興亡はいずれも道に悖るものだった。北方では索虜(北魏、東西魏を含む)が興ってその弊に乗じ、十一代・百七十余年にわたり国を保った。夷狄の側に立派な君主がいて中華がそれに及ばないとは、嘆かわしい限りである。北斉・北周に至っても簒奪が相継ぎ、同じ穢れに染まった乱賊横行の世であった。
隋の天罰
隋の文帝は外戚として国を盗み、南北を統一して中華をあまねく領有したが、冥罰はその身に及び、子による禍(阿摩=煬帝が父君を弑し、兄弟を害し、淫乱を極めた末に江都で客死した)を受けた。夏の桀・殷の紂もこれには及ばない。二代の孫(恭帝ら)も立てられてはすぐ廃され、仏前に座して「二度と帝王の家に生まれぬように」と願うほどであった。祖の報いとはいえ、幼い子に何の罪があってこの惨事を招いたのか。かくして隋の天下取りも一つの過渡期に過ぎず、旧来の史家が言う正統の列には数え入れるべきではない、というのが著者の見解である。
正史の隠蔽を批判する
沈約の『宋書』、蕭子顕の『斉書』、姚思廉の『梁書』『陳書』は、いずれも語るところが回護に流れ、深く諱(い)んでいる。沈・蕭は梁の人であるから鼠を打つに器を憚る(=身内をはばかる)事情もまだ理解できるが、姚思廉は唐の臣でありながら梁・陳の逆跡を曲げて隠した。これは唐の建国自体が簒奪の故智によったためか、それとも父・姚察が梁・陳に仕えた身であったために直筆を憚ったためか。
魏の史書を監修した崔浩は隠さず直筆したが、事が露見する前に誅殺され一族も滅ぼされた。その後を継いだ諂佞の徒・魏収の書は当時「穢史」と呼ばれ、信を置くに足りないことは明らかである。『北斉書』は李百薬、『北周書』は令狐徳棻が編んだが、いずれも安易に筆を執り両朝の記録に頼って刪修を加えたに過ぎず、褒貶の当を得ていない。『隋書』は唐の諸臣の手になり、魏徴の名が冠せられるが、直臣と称される魏徴でさえ張衡伝で煬帝が父を弑した事に触れず曲げて隠しており、他は推して知るべしである。
李延寿『南史』『北史』への評価
李延寿の『南史』『北史』は私家の著述であって官撰史書を補うものであり、詳略の偏りはあるにせよ、その得失はここで論じない。ただ隋朝を『北史』に列したことを後人は不適当と譏るが、『春秋』が夷礼を用いた者を夷として扱う筆法に照らせば、李氏の意図もそれと同じであろうと著者は考える。
乱臣賊子が天下に満ち、たとえ一時天下を掌中に収めたとしても、それが史書の栄誉として後世に伝わるに値するとは限らない。
本書執筆の趣旨
本書は李延寿の『南史』『北史』の例に倣い、事実を拾い集めて演義に仕立てたものであり、さらに年代の関連から南北を一つに融合させ、読者が両者を対照する手間を省いた。官撰・私撰の諸史書の後塵を拝するだけのつもりで書いたのではない。
正史は読む者を厭きさせやすいが、小説は詳細さを求められても厭きられない。著者は長年にわたり歴史演義を著してきたが、一書出すごとに読者に歓迎されてきた。それは言葉を平易にし、事実を虚偽から遠ざけてきたためであり、たとえ拙く粗いところがあっても、通俗という本旨には背いていないと自負する。
さらに本書では、乱臣賊子への大義名分をたびたび強調し、あえて隠すことをしなかった。時世の乱れが激しい今、あえて焼け石に水のような真似(揚湯止沸)をするつもりはない。全体の体例については、これまでの各歴史演義においてすでに述べてきたので、ここでは繰り返さない。
中華民国十三年一月、古越の蔡東帆、臨江書舎にて自ら序す。