南北史演義第100回 昏君を弑し隋家の数が尽き、少主を鴆し楊氏が凶終する (弒昏君隋家數盡 鴆少主楊氏凶終)

煬帝の最期

  • 裴虔通・司馬徳戡らは煬帝を捜し出し、西閣に追い詰める。令狐行達が煬帝を降伏させ、宇文化及は自らは表に立たず丞相として擁立される。
  • 朝堂に引き出された煬帝は自らの罪状を突きつけられるが弁明し、幸姫朱貴児は反乱者を罵倒して斬られる。幼子趙王杲も刺し殺される。
  • 煬帝は毒酒での死を望むが許されず、令狐行達に絹の巾で絞殺される。在位十三年、享年五十であった。

化及政権と粛清

  • 化及は蜀王秀ら煬帝の一族を大量に殺害する一方、恭順した者は許した。給事郎許善心は化及への祝賀を拒んで殺され、その母は絶食して後を追った。
  • 化及は蕭皇后とその周辺の妃嬪を我が物とし、秦王浩を新帝に立てて実権を握る。

化及の西走と滅亡

  • 化及は江都から兵を率いて西へ向かうが、途上で反乱の企てや内紛が相次ぐ。李密に阻まれて東郡に留まり、後に秦王浩を弑して自ら帝を僭称するも、まもなく李神通に敗れ、竇建徳に捕らえられて処刑された。竇建徳は蕭皇后を丁重に扱い、後に突厥へ送り届けた。

唐の建国と群雄の趨勢

  • 李淵は群臣に推されて隋帝侑の禅譲を受け、皇帝に即位して国号を唐、元号を武徳と改める。
  • 東都では越王侗が皇泰主として即位するが、王世充が段達らと結んで実権を掌握し、政敵元文都を殺害して独裁権を握る。
  • 李密は宇文化及討伐で消耗した後、王世充との戦いに敗れて唐に降る。徐世勣(後の李勣)も唐に帰順する。
  • 李淵は河東の抵抗勢力(堯君素・王行本ら)を制圧し、関中の支配を固める。

隋の滅亡

  • 王世充はついに皇泰主を廃して自ら帝位につき、国号を鄭とする。廃された皇泰主(侗)と恭帝(侑)はともに毒殺・絞殺され、隋の帝統は完全に絶える。
  • 隋は文帝の簒奪から数えて四代・三十七年で滅亡し、南北朝の分裂も併せて終焉を迎える。

評語

煬帝の悪行は極まり、その最期は当然の報いであった。三千の美姫のうち殉じたのはただ朱貴児一人であり、正史はこれを記さないが『海山記』が特に書き残したことで後世に伝わった。宇文化及の擁立した秦王浩、李淵の擁立した代王侑、東都の擁立した越王侗は、いずれも実権を持たぬ傀儡であったが、代王侑の廃位により唐が興り、越王侗の死をもって隋の命脈が絶えたことを思えば、『隋書』が恭帝侑のみを正統とし恭帝侗を軽んじるのは公平を欠く。隋の滅亡の顛末は、君主の徳が明らかでなければ栄華も泡沫に過ぎないことを何よりも示している。