南北史演義第九十五回 楊玄感が兵敗れ窮途に死し、斛斯政が拘え回され惨戮に遭う (楊玄感兵敗死窮途 斛斯政拘回遭慘戮)
各地の群盗蜂起
- 高麗遠征による過酷な徴発に耐えかね、王薄・劉霸道・高士達・張金稱・竇建德ら各地で反乱が相次ぐ。斉郡丞張須荳のみが奮戦して抑えるが、地方全体の乱を鎮めるには及ばない。
楊玄感の挙兵
- 楚国公楊素の子・楊玄感は、父の死に際し煬帝から含まれた含意を憂い、黎陽での督運を機に挙兵を計画する。友人李密を招き、来護児謀反を口実に黎陽で大挙して兵を集める。
- 督運使の御史游元は玄感への同心を拒み殺される。李密は「上策=薊を突いて高麗遠征軍の退路を断つ」「中策=関中を奪う」「下策=東都を攻める」の三策を進言するが、玄感は下策(東都急襲)を選ぶ。
洛陽攻囲と衛文升の敗退
- 玄感は洛陽近郊で東都軍を撃破し包囲するが、留守の樊子蓋が堅く守る。西京から救援に向かった衛文升も伏兵の計にかかり大敗を喫する。
- 玄感軍は十万に膨れ上がるが、李子雄の勧める称帝には李密が「時期尚早」と諫めて思いとどまらせる。
玄感の敗走と死
- 屈突通・宇文述・来護児らの官軍が集結し東西から挟撃されるに至り、玄感は洛陽の囲みを解いて関中を目指すが、弘農宮攻めに固執して時を失う。追撃を受けて大敗し、董杜原で潰滅、わずかな供とともに逃走した末、弟の積善に自らを殺させて自害する(積善も自刺)。李密のみ脱走に成功する。
余党の粛清と李淵の登場
- 大理卿鄭善果の厳しい取り調べにより三万余人が処刑される。玄感に内通していた兵部侍郎斛斯政は高麗へ亡命。これに連座を疑われた元弘嗣は捕らえられ、代わって衛尉少卿李淵が弘化留守となる(後の唐朝の伏線として特筆される)。
江南の乱と王世充の討伐
- 劉元進・朱燮・管崇らが江南で挙兵し劉元進を天子に擁立するが、王世充らに討たれ壊滅。降兵三万余は黄亭澗で坑殺される。杜伏威・輔公祏ら新たな群盗も台頭する。
弥勒仏を称する乱
- 唐県の宋子賢、扶風の向海明が相次いで「弥勒仏」を称して反乱を起こすが討伐される。唐弼が李弘芝を擁立するなど各地の混乱は収まらない。
高麗再征と斛斯政の処刑
- 大業十年、煬帝は再び高麗へ出兵。来護児の攻勢を受けた高麗は斛斯政の身柄を引き渡して降を乞う。煬帝は斛斯政を凱旋の体で太廟に献じたのち、群臣に射させて処刑し、遺体を煮て百官に分け食わせるという酷刑を行う。高麗の高元は結局入朝しなかった。
盧明月討伐と秦瓊・羅士信
- 大業十一年、張須荳は盧明月討伐にあたり、秦瓊(叔宝)・羅士信の奇襲で敵の柵営を焼き払い大勝する(両者は後に唐に仕える名将となる)。しかし各地の残賊は依然平定されず、混乱は続く。
評語
- 楊玄感の挙兵は好機であったが、李密の上策を用いず下策に走ったことが敗因である。父楊素は弑逆の首謀者であり、その後嗣が功業を為すはずもなく、天道の応報として描かれる。斛斯政の亡命・処刑や、たった一人の逃亡犯の処刑を太廟に告げて誇るような煬帝の酷虐ぶりは、民が死を恐れなくなるほどの圧政であり、これこそ隋滅亡の必然を示すものである。