南北史演義并州を攻め兵戎を分遣し、洛陽に幸し土木を大興する(0090 第九十回 攻并州分遣兵戎 幸洛陽大興土木)
宣華夫人と煬帝
- 宣華夫人は事の後、開き直って新皇帝(楊広)に媚びを売ることを決意し、盛装して謁見した。以後、小子は「隋煬帝」の呼称を用いる旨が語られる(父・楊堅が「文帝」と呼ばれないのは簒奪による統一だからとの説明)。
- 煬帝は宣華夫人と歓を尽くす一方、楊約に密命して廃太子勇を偽詔で絞殺させ、柳述・元岩を嶺南へ流罪とした。楊素の勧めで勇には房陵王の追封が与えられたが、跡継ぎは立てられなかった。
蘭陵公主の悲劇
- 蘭陵公主(柳述の妻)は夫と共に流されることを願い出たが、煬帝は再婚を強要し、拒む公主を叱りつけて追い返した。公主は柳述と引き離されたまま憂鬱のうちに病没し、遺言で柳氏として葬られることを望んだ。柳述もついに赦されず嶺南で客死した。
容華夫人も凌辱される
- 煬帝はさらに容華夫人(蔡氏)にも言い寄り、宣華夫人と同様に関係を結んだ(本文注記により『隋書』后妃伝に基づく記述とされる)。その後、隋主堅の柩は長安に戻され、文皇帝と諡され泰陵に葬られた。太史令袁充の追従に対し礼部侍郎許善心が諫めて左遷された。
漢王諒の挙兵
- 煬帝は漢王楊諒の離反を恐れて再三の召還を試みたが、偽の璽書と見破られ、楊諒は「楊素討伐」を名目に并州で挙兵した。各将を分遣して河内・黎陽・燕趙・雁門方面へ進軍させたが、腹心裴文安の速攻策を用いず好機を逃した。代州総管李景は寡兵で持ちこたえ、楊義臣が牛馬を使った疑兵の計で喬鍾葵を撃破し包囲を解いた。
楊素の平定
- 隋は楊素を并州道行軍総管に任じて討伐に当たらせた。楊素は商船を集めて夜襲で河橋を突破し蒲州を制圧、さらに晋・絳・呂三州を降し、趙子開の大軍も奇襲で撃破した。漢王諒配下の豆盧毓は内応を試みて殺され、王頍・蕭摩訶らの助言も用いられぬまま諒は晋陽に籠城し、ついに降伏した。楊素は諒を助命して長安へ送ったが、諒は後に庶人に落とされ幽閉先で病没、并州の民二十余万家が連座して徙された。
東京洛陽の造営
- 平定後、煬帝は術士章仇太翼の進言を口実に洛陽への遷都・巡幸を決意し、東京洛陽の大造営を開始した。楊素を総監として二百万人規模の労役を動員し、洛陽に富商・富民を移住させて繁栄させた。さらに宇文愷・封徳彝に命じて壮麗な離宮(顕仁宮)を建てさせ、江南から奇木珍石・珍禽異獣を集めるなど莫大な財力・人力を費やした。翌年正月、大業と改元し蕭妃を皇后に、長子昭を皇太子に立てた。
宣華・容華の召し寄せと大運河の起工
- 煬帝は洛陽でも宣華夫人を忘れられず、蕭后の許しを得て呼び寄せ、以後は花見や月見に興じる日々を送った。さらに江南への巡幸を望み、尚書右丞皇甫議の献策により通済渠・邗溝の開削と、長安から江都に至る行宮群(四十余か所)の造営を命じた。工事は民に多大な犠牲を強い、行き倒れる者が後を絶たなかった。
評語
- 漢王諒が楊広ではなく楊素を討とうとしたことは初手から誤りであったが、偽の璽書の背後に楊広の専断があったことも明らかであり、太子廃立や蜀王失脚の禍根もすべて楊広に発する。裴文安の速攻策を用いず、王頍の献策も退けたことで敗北は必然であった。煬帝が改元前に洛陽へ行幸し東京としたことは、周の陪都制に似るようで実は淫奢のための都市造営に過ぎず、宮殿と運河の造営で天下の財力・民力を尽くした。後世の論者は煬帝を「狡・淫・奢」と評するが、著者はただ一言「愚」に尽きると評する。