南北史演義将才を選び呉明徹に独任し、妒意を含み馮小憐を特進させる(0076 第七十六回 選將才獨任吳明徹 含妒意特進馮小憐)

周主邕の親政と論功行賞

周主宇文邕は親政を始めると、尉遲回・竇熾・李穆・宇文憲・宇文直・宇文招・辛威・陸通ら功臣を三公九卿の要職に昇任させた。庾季才にも褒賞を与えた。老臣の於謹・達奚武・楊忠らは相次いで世を去り、楊忠の子・楊堅(のちの隋文帝)が父の遺訓に従って宇文護に近づかなかったため、護誅殺後も咎めを受けずに済んだ。

衛公直の不満

誅護の功労者を自任する衛公宇文直は、大冢宰・大司馬の要職が他者に渡ったことに不満を募らせた。周主は側近の裴文舉を通じて宇文憲に、幼い天子を輔佐する自覚と兄弟の和を説かせた。憲は本心では忠節を尽くす意向であったが、直との間には隙が残った。

太子贇の立太子

周主は皇子・宇文贇(李氏所生)を太子に立てた。贇は素行を厳しく監督されていたが、本性は改まらず、後年の乱行の伏線となる。

陳・欧陽紇の反乱

陳主陳頊の代、広州刺史の欧陽紇が反乱を起こしたが、章昭達に討たれ処刑された。欧陽紇に加担しかけた馮僕の母・冼夫人は大義を重んじて陳軍に協力し、母子ともに陳から厚く褒賞された。章昭達はその後、後梁への遠征で周軍と交戦したが利あらず退き、まもなく病没した。

陳の北伐発議

数年後、天変を機に陳主頊は北齊討伐を決意。群臣の推挙をしりぞけ、徐陵・裴忌の推薦により吳明徹を元帥、裴忌を副将として十万の兵で北伐を命じた。

呂梁の戦い

北齊は源文宗の献策(王琳に淮南の兵を委ねる策)を用いず、尉破胡らを主力に出兵させた。呂梁での戦いで陳の蕭摩訶が齊軍の胡人部隊・大力軍を撃破し、齊軍は大敗して長孫洪略が戦死、王琳は彭城に逃げ込んだ。

淮南諸城の攻略と王琳の最期

吳明徹・黄法𣰋らは瓦梁・歴陽・合肥など諸城を次々陥落させ、齊軍の陸騫も撃破した。王琳の籠る壽陽は水攻めののち陥落し、王琳・盧潛らは捕らえられ、明徹は王琳を建康護送の途中で密かに誅殺させた。王琳の死は齊人にも惜しまれ、旧部下や庶民が哀悼した。

皮景和の失態と齊廷の腐敗

壽陽救援に向かった皮景和は戦わずに退却したが、齊主高緯は穆提婆・韓長鸞らの言に安んじて呑気に構え、景和を尚書令に昇進させる始末であった。

祖珽の失脚と復権

僕射祖珽は陸令萱母子と対立して讒言により左遷されたが、陳軍来襲時に機知で城を守り抜いて奏功。それでも重用されず、まもなく任地で病没した。

蘭陵王高長恭の死

北齊の名将・蘭陵王高長恭は邙山の勝利以来威名が高まり、齊主緯に猜疑された。尉相願の勧めに従い引退を図ろうとしたが機を逸し、結局は毒を賜って自殺した。

王琳の遺骸をめぐる嘆願

陳では吳明徹が凱旋し重用される一方、王琳の旧吏朱瑒が徐陵に書を送り遺骸の返還を願い出た。陳主はこれを許し、王琳は手厚く葬られ、のちに北齊からも追贈を受けた。

高綽の残虐と非業の死

齊主緯の異母兄・高綽は幼少より残忍で、動物や人を虐待して楽しむ性癖があった。齊主緯もこれに同調し兄弟で残虐を競ったが、韓長鸞の讒言により高綽は絞殺された。

後宮の奢侈と馮小憐の寵愛

齊主緯は後宮の奢侈を極め、寵妃を次々に替えた末、穆皇后の侍女・馮小憐を側に上げた。小憐は琵琶と歌舞に優れ、たちまち齊主の寵愛を独占して淑妃に冊立され、国政は陸令萱・穆提婆・韓長鸞・高阿那肱らに委ねられて乱れていった。(詩:美女が国を傾ける故事になぞらえ、北齊の行く末を憂える内容)

評語

吳明徹の北伐成功は徐陵の人物眼にもよるが、実際は齊主の淫昏と皮景和の消極姿勢による自滅の面が大きい。王琳は忠臣と称されたが、複数の主に仕えた身であり、その死を深く惜しむには及ばない。齊が王琳を手厚く追贈したのも過分な賞である。高緯の乱行を見れば、北齊の滅亡はもはや時間の問題であった。