南北史演義第六十七回 敵将を擒え梁軍が大捷し、淫威を逞しくし斉主が横行する (擒敵將梁軍大捷 逞淫威齊主橫行)
三叛の蜂起
- 王僧辯誅殺の報に、その婿の吳興太守杜龕が挙兵して陳霸先に抗し、僧辯の弟僧智(呉郡太守)、義興太守韋載も呼応した。
- 霸先の甥陳蒨は長城で少数の兵を集め柵を築いて防ぎ、杜龕の部将杜泰の猛攻を凌いだ。周文育は義興を攻めるが韋載に阻まれ、霸先自ら援軍に赴く。
建康への圧力
- 譙・秦二州の徐嗣徽は北斉に降り、南豫州刺史任約と結んで建康を急襲、石頭城に侵入するが、侯安都の守りで撃退される。
義興・呉郡の平定
- 義興の韋載は族人の説得で降伏。霸先はこれを許し重用した。
- 呉郡では裴忌の奇襲により王僧智が敗走し、霸先方が呉郡を占拠する。
対斉戦
- 北斉が徐嗣徽を援けて大軍・大量の糧秣を送り込むが、韋載の献策により侯安都が湖墅を焼き討ちし、斉の糧船を焼失させる。斉将侯領州も捕らえられた。
- 淮南に築いた壘で兵站を確保し、以後の斉軍との攻防(秦郡、倉門水南の柵攻めなど)で梁軍が優勢に立つ。侯安都は徐嗣徽の琵琶と鷹を奪い皮肉交じりに送り返す一幕もあった。
- 斉の淮州刺史柳達摩は敗れて石頭城に籠るが水に窮し、霸先の子曇朗と永嘉王蕭荘を人質に出す条件で和議が成立。斉主高洋は敗戦の責を柳達摩に負わせ処刑し、蕭軌に大軍を委ねて再南下を図るが、厳冬のため一旦見合わせる。
杜龕の滅亡
- 吳興の杜龕は周文育・陳蒨の攻囲に長く耐えたが、内応した部将杜泰の裏切りで陥落。杜龕の妻王氏は財を投じ将士を励まし一時は梁軍を破ったものの、龕自身は勝利に浮かれ酒に溺れ、隙をつかれて捕らえられ斬られた。妻王氏は髪を落として尼となり難を逃れた。王僧智兄弟は北斉へ逃走した。
会稽・東揚州の平定
- 王僧辯派の東揚州刺史張彪も陳蒨・周文育に討たれ梟首される。南方はこれでほぼ平定された。
建康攻防の決戦
- 徐嗣徽・任約が斉の大都督蕭軌と合流し十万の兵で建康に迫るが、黄叢の迎撃で緒戦は斉軍が後退。
- 淵明の身柄引き渡し交渉中に淵明が病死し、斉軍はそのまま進撃し建康近郊に迫る。
- 霸先・周文育は逆風下でも戦意を貫き斉軍を撃退。侯安都は少数の騎兵で乞伏無勞を生け捕るなど各所で戦果を挙げた。
- 兵站を断たれた斉軍は泥濘の中で困窮し、梁軍は陳蒨の兵糧補給を受けて英気を養ったのち総攻撃をかけ、斉軍を大破。徐嗣徽兄弟を斬り、大都督蕭軌以下四十六名を捕らえて処刑、任約らはかろうじて逃れた。
陳霸先の権勢拡大
- 凱旋した霸先は司徒・中書監・長城公に叙せられ、さらに丞相・録尚書事・揚州牧・義興公に進み、事実上の実権を掌握して帝位を窺うようになる。
王琳の去就
- 広州刺史王琳は元帝の死を悼み喪に服す一方、部将侯平の離反で兵力を失い、北斉・西魏双方に款を通じつつ梁にも臣従するという複雑な立場に置かれた。西魏からは妻子と元帝父子の棺を取り戻すことに成功した。
北斉主高洋の暴虐
- 蕭軌らの敗死に激怒した高洋は人質の陳曇朗を処刑する一方、宮殿造営に没頭し酒色と暴虐に耽るようになる。奇矯な振る舞い(裸で歩く、女装めいた格好をするなど)が常態化し、宮女や皇族の婦女を辱め、左右にも同様の行為を強いた。
- 高澄の妻元氏を辱め、母婁太后を打擲し、太后の怒りを買っては泣いて詫びるなど情緒不安定な言動を繰り返す。
- 高岳を薛氏姉妹を巡る嫌疑で毒殺し、寵姫薛氏を斬ってその骨で楽器を作るなど残虐を極めた。
- 三台の宮殿を強行普請し、危険な高所を平然と歩き回る、道行く婦人を理由なく斬るなど常軌を逸した行動が続く。
- 李后の母崔氏を弓矢と鞭で傷つけ、彭城王浟の母爾朱氏を手にかけて殺し、魏安楽王元昂を射殺してその妻を奪うなど、皇族・外戚への暴行も相次いだ。
- 宰相楊愔にも鞭打ちなどの辱めを加えつつ重用し、忠言する者は容赦なく処刑した。侍臣趙道德の諫言には一時従うこともあった。
- 典御丞李集が高洋を桀・紂になぞらえて諫死したことが特に語り継がれる。
(詩:主君を強く諌めて死んだ李集の忠義を悼みつつ、狂君に仕える虚しさを詠む)
評語
陳霸先が斉軍を撃破したことは、後の簒奪への布石となった。斉が勝っていれば霸先も梁室に頭を上げられなかったであろうが、全軍覆滅により霸先は自立の志を強めた。高洋自身も淫乱で庸将ばかりを用いており、勝てなかったのは必然である。斉の敗戦後、高洋は反省するどころか酒色と殺戮にふけり、桀・紂に勝るとも劣らぬ暴君となった。李集の諫死は無益であったが、「君に仕えて諫言を重ねれば疎まれる」との古訓の通りであり、まして暴君に対してはなおさらである。