南北史演義第四十九回 伏甲を設け謀を定めて悪を除き、軽騎を縦って闕に入り兇を行う (設伏甲定謀除惡 縱輕騎入闕行兇)
元顥と陳慶之の不和
元顥は銍県から出発して三十二城を落とし四十七戦全勝したが、これはひとえに陳慶之の功績であった。にもかかわらず顥は恩を忘れ、臨淮王彧・安豐王延明と結んで梁への叛意を密かに抱き、慶之への待遇も冷淡になっていった。慶之はこれを察し、増援を求めるべきと進言したが、延明に「これ以上兵を増やせば慶之を制御できなくなる」と反対され、顥は増援不要との上表を梁廷に送った。慶之の副将馬佛念は「今のうちに顥を討ち洛陽を奪う好機」と献策したが、慶之は「あまりに危険」と退けた。
河橋の攻防
河北からの急報により、爾朱栄が晋陽から出兵し元天穆と合流、子攸を奉じて南下してきた。慶之は北中城を守り顥は南岸で対峙、三ヶ月・十一度の戦いで互角を保ったが、爾朱栄は撤退も考えた。楊侃・高道穆は「今退けば民心を失う、筏を作り黄河沿いに広く渡河の構えを見せよ」と説き、占者劉靈助も十日以内の平定を予言、栄は伏波将軍の縁者の小舟の案内を得て爾朱兆・賀抜勝に馬渚から夜襲させ、顥軍を急襲した。顥の愛子で領軍将軍の冠受が捕らえられ、顥は敗走、延明らも潰走した。陳慶之は孤軍で撤退中、増水した川で多くの兵を失い、自ら髭を剃り僧侶に変装して汝陰から建康へ逃げ帰った。顥は轘轅から南下する途上、臨潁県卒の江豊に殺され、首は洛陽に送られた。
魏主子攸は北邙で百官の出迎えを受け洛陽に戻り、大赦を行い、爾朱栄を天柱大将軍、爾朱兆を車騎大将軍、元天穆を太宰に進めるなど論功行賞を行った。臨淮王彧は不問に付されたが、安豐王延明は梁へ亡命し後に病死した。
関中平定と宇文泰の台頭
爾朱栄は都を離れ晋陽へ戻り、賀抜勝に中山を守らせ、侯淵に葛栄残党の韓楼を討たせた。翌年には爾朱天光・賀抜岳・侯莫陳悦が万俟醜奴討伐に向かい、賀抜岳が伏兵で尉遅菩薩を捕らえて降兵一万余を得ると、醜奴は安定に退いた。天光らは夏の間に油断させる策を用い、醜奴が兵を解散させた隙に急襲して大柵を陥落、安定を無血で得た。醜奴は高平に逃げるも侯莫陳崇に生け捕りにされ、蕭寶夤も守兵に捕らえられて関中は平定された。醜奴と寶夤は洛陽で三日間晒された後、寶夤は賜死、醜奴は斬首となった。
顥討伐の功で寧都子に封じられた宇文泰は、醜奴討伐にも従軍し、魏主から征西将軍・行原州事に抜擢された。関隴を恩恵をもって治めたため民に慕われ、後の北周建国の礎となった。
爾朱栄と魏主の確執
爾朱栄は各地の乱を平定して威勢を強め、外藩にありながら朝政を遠隔操作し、宮中にも腹心を配して魏主を監視させた。魏主が吏部の人事に意欲を見せても、栄が推挙した人事案が却下されると横暴に人事を変更し、吏部尚書李神雋を辞任に追い込んだ。魏主が地方官の異動を拒んだ際も、太宰元天穆が栄の顔を立てるよう進言、魏主は「天柱(栄)が臣節を守るならともかく、百官の黜陟まで思いのままにはさせない」と応じ、これが栄の耳に入り恨みを買った。爾朱后(栄の娘)も嫉妬深く「天子は我が家が立てたもの、なぜ勝手にできぬのか」と憤り、世隆も封王を得られぬ不満を抱いた。
魏主は城陽王徽の妃(魏主の従妹)や姉婿の李彧らの進言を受け、栄への警戒を強めた。栄も虎を描いた図を進呈して武功を誇示したり、部将に九錫の礼を勧められたことを自ら報告するなど、その驕慢な態度が魏主の疑念をさらに深めた。
爾朱后の出産を控え栄が入朝を願うと、城陽王徽らは伏兵で討つべきと進言、李侃晞は「栄は必ず備えを固める、まず栄の党を除いてから兵を挙げるべき」と異論を唱えた。密謀は都に漏れ、爾朱世隆も匿名の警告文を目にしたが、栄は「世隆が臆病なだけ、単身入朝しても誰も手出しできまい」と意に介さず、妻の制止も聞かず洛陽入りした。
魏主は元天穆を巻き込むため一旦礼遇を装い、栄の疑念も一時解けたが、城陽王徽の「栄が反さずとも耐えがたい」との進言で計画は継続、天穆も入朝させて共に除くことにした。栄は周囲の追従(九錫・禅譲の噂、瑞兆の話)にすっかり有頂天になっていた。
栄の娘は魏主の甥陳留王寛に嫁いでおり、栄が「終には婿の力を得られよう」と口にしたことも魏主の警戒を強めた。魏主が夢で自らの指を切る夢を見て、城陽王徽・楊侃に相談すると「思い切った決断こそ吉」と勧められ、決意を固めた。
河陰の再来、爾朱栄の誅殺
元天穆が入朝すると魏主は栄と共に西林園で酒宴を開いたが、栄が「陛下自ら五百騎を率い狩猟で武を示すべき」と進言するなど、魏主の疑念はさらに強まった。翌日、魏主は中書舍人温子昇に董卓誅殺の故事を問い、「首謀者を誅し余党は赦免すれば、事は収まろう」と決意を語り、赦文の準備を命じた。
翌朝、栄と天穆を明光殿の酒宴に招き楊侃らを伏せさせたが、二人が早々に退出したため決行できなかった。栄はその後陳留王邸で泥酔し、以後は病と称して連日出仕しなかった。
魏主は密謀の露見を恐れ、城陽王徽の献策で「皇后が出産した」と偽って栄を呼び出す策に転じ、再び伏兵を明光殿に配した。栄は天穆と博打の最中にこの知らせを受け、喜んで祝賀に赴いた。魏主は栄の入来に顔色を変えたが、温子昇に酒を勧められ落ち着きを取り戻し、赦文を隠し持って栄と行き違いになった際も動じず乗り切った。栄と天穆が着席する間もなく、李侃晞らが刀を手に踏み込み、栄は異変を悟って御座に向かったが、魏主自ら刀で斬りつけ、侃晞が止めを刺して絶命させた。天穆も同様に斬られ、栄の長子菩提ら随従の三十名も伏兵に殺された。都中は歓声に沸いた。
爾朱氏の反攻
魏主は閶闔門で大赦の詔を宣し、洛陽防備を固めた。爾朱世隆は変事を知って夜のうちに脱出し、栄の妻や部曲と共に河陰に走った。栄党の田怡らは宮門突入を図ったが、賀抜勝は「宮中に備えあり」として脱出を進言、朱瑞や司馬子如も世隆に合流した。子如の「河橋を占拠し逆に洛陽を襲え」との策で、世隆は河橋を攻めて将軍奚毅を討ち北中城を占拠した。
魏主が遣わした慰撫の使者段育も殺され、事態は悪化した。かつて葛栄配下から魏に帰順していた高乾・高敖曹兄弟は、栄によって一時排斥されていたが、栄の死後魏主に召し戻され、河北大使として郷里で外援勢力を組織するよう命じられた。魏主は自ら見送り「京都に変事あらば黄河のほとりで兵を挙げてくれ」と託し、乾は涙し、敖曹は剣を抜いて死を誓った。
世隆は族人の爾朱払律帰に胡騎千騎を率いさせ、栄の遺体の引き渡しを求めた。魏主は「罪は栄一身にとどまる」と応じたが、払律帰は「太原王(栄)の遺体なくして帰れぬ」と号泣し、胡兵も共に哀哭した。魏主は鉄券を与えて世隆の懐柔を図ったが、世隆は「太原王すら生かせなかった鉄の文字など何の保証にもならぬ」と地に投げ捨てた。
魏主は三日で一万の敢死隊を募ったが未熟な兵で連戦連敗、皇子誕生の慶事で一時大赦を行ったのち再び討伐を議したが群臣は沈黙するばかりであった。散騎常侍李苗が「河橋を焼き払う」と申し出て決行、夜襲で爾朱軍を大混乱に陥れ橋を焼き落としたが、後続の援軍が来ないまま孤軍で敵に囲まれ、部下は全滅し李苗も入水自殺した。魏主は追悼したが、援軍を送らなかった失策を悔いる余地はなかった。この一撃に恐れをなした世隆は払律帰を呼び戻し北へ退いた。
洛陽陥落、魏主捕縛
魏主は源子恭・楊昱に世隆討伐を命じたが、爾朱兆が晋陽から南下して世隆と合流し、太原太守長広王曄を新帝に擁立、建明と改元した。世隆は尚書令、兆は大将軍となり、爾朱氏一族が次々要職に就いた。徐州刺史仲遠も呼応して挙兵した。
関隴平定中の爾朱天光は栄の死を知ると賀抜岳と諮り、魏主に対して二心なきよう装いつつ実際には日和見の姿勢を取り、魏主・長広王曄双方から王爵を与えられる形で両天秤にかけた。爾朱兆は高歓にも参陣を呼びかけたが、高歓は「兆の狂愚な逆謀に付き合いきれぬ」と山蜀未平を口実に応じなかった。
爾朱兆は丹谷で源子恭と対峙、爾朱仲遠は西兗州を陥れ刺史王衍を捕らえた。魏主は城陽王徽を大司馬・録尚書事として全軍を統率させ、鄭先護・賀抜勝に仲遠討伐を命じたが、先護が勝を疑って冷遇したため勝は恨みを抱き、滑台での戦いで先護が援護しなかったため敗北、勝は仲遠に寝返って先護を攻めた。先護は敗走し後に梁へ投降、北路でも源子恭の部将崔伯鳳が戦死、史仵龍が兆に降り子恭は命からがら逃げ帰った。洛陽は恐慌に陥った。
城陽王徽は無策な上に賞賜を惜しんで将士の信頼を失っていた。永安三年十一月、黄河の水位が下がり暴風で塵が舞う中、爾朱兆は軽騎で渡河し洛陽に突入、守備兵は総崩れとなった。魏主は雲龍門外へ徒歩で逃げる途上、馬で逃げる城陽王徽に助けを求めたが応じられず、やがて胡騎数十名に捕らえられ爾朱兆のもとへ連行された。小子ここに詩を詠む。
(詩:逆臣が宮門に入ってようやく慌てて逃げ出すとは、勢いを失えばもはや誰も至尊と認めない、天子が窮地に陥ってなおこの有様、在野の士の節操こそ貴いと知るべし、との趣旨)
魏主の生死は次回に譲る。
評語
葛栄を平らげ元顥を滅ぼし万俟醜奴を誅し蕭寶夤を捕らえた爾朱栄の功績は高いと言わざるを得ない。功高き者は主君に忌まれやすく、まして栄のように簒奪の心を抱き朝政を遠隔操作する者が主君の猜疑を免れられようか。魏主子攸が宮中で謀を定め伏兵で奸を除いたことは、梁冀誅殺や董卓討伐の故事に匹敵する痛快事と言えよう。惜しむらくは用いた人材が拙く、朝廷には無能な者ばかりが満ち、貪欲無能な城陽王徽を統帥に任じ、源子恭・鄭先護らも取るに足らぬ器であった。忠義に厚い李苗が単身河橋を焼く壮挙を成しても後援を送らず戦死させたのでは、いかに滅亡を望まずとも避けられようか。逆賊爾朱兆が宮中に至って初めて事態を知り、狼狽して逃げ出しすぐさま捕らえられたのを見れば、識者は子攸の破滅が自ら招いたものと悟るであろう。