南北史演義第029回 蕭昭業が喜んで祖統を承け、魏孝文が計って都城を徙す (蕭昭業喜承祖統 魏孝文計徙都城)
文惠太子長懋の死と昭業の立太孫
- 永明十一年、太子長懋が三十六歳で病没(諡は文惠)。斉主賾は嘆き悲しみ、太子の宮室の奢侈を見て毀させた。
- 太子家令沈約が『宋書』編纂で袁粲の伝を立てるべきか迷ったが、斉主は忠臣として立伝を許可、一方で宋孝武帝の醜聞は伏せるよう命じた。
- 長懋の死後、長孫の南郡王昭業が皇太孫に立てられた。
斉主賾の崩御と昭業の即位
- 賾は病に倒れ、竟陵王子良・尚書左僕射蕭鸞らに後事を託し、太孫昭業への輔弼を命じる遺詔を残して五十四歳で崩御(在位十一年)。
- 中書郎王融は子良擁立を企て偽詔を用意し、宮門を封鎖して東宮の入宮を阻もうとしたが、賾が一時蘇生したとの報でとん挫。結局、武陵王曅・蕭鸞の主導で昭業が即位した。子良は太傅とされたが、王融の企ての余波で監視下に置かれた。
- 王融は後日、孔稚珪の弾劾により賜死(二十七歳)。子良は連座を恐れて救わなかった。
昭業の隠された悪行
- 昭業は太孫時代から放縦で、夜な夜な妓を招いて豪遊し、金の無心も憚らなかった。師の史仁祖・侍書胡天翼はこれを諌めたが聞き入れられず、絶望して服毒自殺した。
- 昭業は左右の者に密かに官爵を約束する紙片を身につけさせ、女巫楊氏に二宮(太子と斉主)を呪詛させて自らの即位を祈らせていた。父・祖父の前では孝子を装い、陰では歓楽に耽った。祖父危篤の際も上辺だけ涙を流い、即位後は喪をよそに後宮の妓を集めて歓を尽くした。
昭文帝への布石(魏の遷都準備)
- 昭業は弟の昭文・昭秀・昭粲を各王に封じ、女巫楊氏を「楊婆」として厚遇するなど、乱脈な統治が続いた。
- 一方、魏主宏(孝文帝)は華風を慕い、辮髪を改めて束髪・袞冕を採り入れ、堯舜・孔子を祀るなど礼楽を整備。洛陽への遷都を志し、南伐を口実に大軍を発した。
- 明堂での占筮で「革卦」が出たことを吉兆とし、任城王拓跋澄との密議で「南伐は名目、実は遷都が本意」と明かした。澄はこれに賛同し、南征の途上、渡河して洛陽に至った。
- 群臣の多くは南伐継続を望まず、安定王休らの諫めを受けて魏主宏は「南伐か遷都かどちらかを選べ」と迫り、結局遷都が決定された。
- 澄は平城に戻り留守の百官を説得、成功を収めた。魏主宏は鄴に留まり、王肅(斉の亡命者、王奂の子)を厚遇して制度改革を委ね、洛陽の宮室造営を進めた。
- 中書侍郎韓顯宗の上書(北都への還幸・造営の倹約・警蹕の整備・煩雑な政務の簡素化を求める四カ条)を容れ、いったん平城に戻ったが、燕州刺史穆羆や尚書於栗らの遷都反対論を退け、最終的に洛陽への正式な遷都を断行した。
(詩:魏主宏が洛陽へ都を移す気概を英雄的行為として称える一首)
評語
- 嫡孫が祖業を継ぐのは古来の通例であり、文惠太子の死後に昭業が継いだこと自体は道理に適う。昭業が淫乱で滅びを招いたのは「人道」に過ぎず、王融が子良擁立を図ったことを正当化する理由にはならない。
- 魏主宏の洛陽遷都は独断によるものだが、国家の興亡は政治の巧拙によるのであって遷都自体の是非とは関係がない。遷都を失策と見るのは皮相な見方である。