南北史演義第025回 権臣を討ち石頭で殉節し、鎮地を失い櫟林で喪身する (討權臣石頭殉節 失鎮地櫟林喪身)
安成王准の擁立
- 楊玉夫は昱の首を陳奉伯・王敬則を経て蕭道成に届けた。道成は首を確認して入殿し、槐樹の下で太后の命と称して袁粲・褚淵・劉秉を招集した。
- 蕭道成は互いに帝位継承の主導権を譲り合う場面で王敬則に強く推され、最終的に安成王准(明帝の子とされるが実は桂陽王休範の子)の擁立を提案し、皆これに従った。
- 詔により昱は蒼梧王に追封され死後も貶められた。安成王准が即位(十一歳)し、升明と改元。道成・劉秉・褚淵・袁粲らにそれぞれ要職が与えられ、袁粲は自ら望んで石頭城に出鎮した。
沈攸之の挙兵準備
- 荊州の沈攸之は道成と姻戚関係にあり当初は対立していなかったが、酒席での失言を機に讒言を受け、朝廷内の疑念と刺客派遣未遂により道成への不信を強めた。
- 蒼梧王弑逆後、道成が昱の凶器を攸之に示したことも、攸之の受け止め方次第で挑発と映り、攸之は「王陵として死すとも賈充として生きず」と決意を固め、太后の密勅(燭の中に隠されていたという偽の証)を口実に挙兵を決意した。
- 攸之は張敬兒・劉懐珍らに同心を求めたが拒絶され、道成への詰問状を送った上で挙兵に踏み切った。
石頭城の変
- 蕭道成は子の蕭嶷・蕭映・蕭賾らを要地に配置して備え、蕭賾は郢州付近に留まり周山図と共に夏口・湓口を固めた。
- 王蘊・袁粲・劉秉らは密かに蕭道成打倒を計画し、劉韞・卜伯興らも加担したが、袁粲は褚淵にも計画を明かしたため、褚淵が道成に密告した。
- 道成は王敬則に命じて劉韞・卜伯興を殺害させ、劉秉は臆病から早々に石頭城へ逃げ込んで計画を破綻させた。袁粲は蘇烈・戴僧靜らの攻撃を受けて子の袁最と共に討死し、劉秉父子も捕らえられて斬られた。民は袁粲の死を悼む歌を残した。
沈攸之の敗死
- 蕭道成は自ら黄鉞を仮り沈攸之討伐に出陣。攸之軍は郢州の柳世隆に阻まれ長期戦となり、逃亡兵が相次いだ。
- 郢城攻めが長引く間に道成の軍が江陵へ迫っているとの報が入り、攸之軍は動揺して瓦解。臧寅は投身自殺し、攸之は江陵が張敬兒に奪われたことを知り進退窮まった。
- 攸之は華容から櫟林へ落ち延び、子の文和と共に自ら首を吊って死んだ。村民がその首を斬って江陵に献上し、張敬兒は攸之の子孫や親党を捕らえて誅殺、財物を私したという。
- 攸之に最後まで殉じた留府司馬邊榮とその客程邕之も張敬兒に処刑された(詩:功名富貴を争うより義に殉じるべきで、忠逆の別は後世の公論に委ねられるとの内容)。
評語
- 袁粲・劉秉はいずれも大事を任せるに足る器ではなかった。劉秉が軍事を蕭道成に譲ったのは既に失策であり、決起の期に恐れて石頭城へ逃げ込むような胆力では成功は望めない。袁粲も密謀を蕭道成派と知りつつ褚淵に告げたのは劉秉以下の失態である。
- 沈攸之が速やかに建康へ向かわず郢城で足止めしたのも討賊の志にそぐわぬ判断であり、敗死は必然であった。袁粲・劉秉が内で図り、沈攸之が外で図ったにもかかわらず、両者とも機を逸して蕭道成の権勢を却って強めてしまった。史家が沈攸之の挙兵を「討」、袁粲・劉秉の企てを「謀誅」と書き分けたのは、乱を憎み忠義を顕彰する筆法である。