南北史演義第024回 江上で謀が墮り親王が授首され、殿中で酔寝し狂豎が刀に倒れる (江上墮謀親王授首 殿中醉寢狂豎飲刀)
蔡興宗の去就
- 阮佃夫・王道隆らが専権を続け、袁粲・褚淵はこれを矯めようとしたが牽制された。蔡興宗は正直さゆえに疎まれ、地方への異動と召還を繰り返され、まもなく病没した。子の景玄は父の風を継いで官職を辞退し、清廉の家系として称えられた。
桂陽王休範の挙兵
- 阮佃夫は権勢を拡大し、袁粲らは宗室の劉秉を登用したが、実務能力は乏しかった。安成王准(実は桂陽王休範の子で明帝の養子)も幼く名目上の要職に就いていた。
- 桂陽王休範は昱の即位後、宰輔になれぬ不満から反乱を計画。朝廷は幼い晉熙王燮を郢州刺史として夏口に配して牽制した。
- 休範は挙兵して建康に急進。蕭道成は籠城持久策を主張し、自ら新亭に出陣、張永は白下、劉勔は宣陽門を守った。袁粲も母の喪中ながら馳せ参じて軍議に加わった。
新亭の攻防と休範の死
- 蕭道成は新亭で休範軍と激戦し、休範の檄文を一蹴。部下の黄回・張敬兒に偽りの投降をさせ、休範を油断させた。休範は二子を人質に出したが、道成は密かに二子を斬った。
- 黄回・張敬兒は酒に酔った休範に近づき、油断を見て暗殺し首級を得た。しかし使者が首を運ぶ途中で敵に阻まれ川に投じられ、確証がないまま蕭道成の功のみが認められた。
- 休範の死後も残党の杜黒騾・丁文豪が朱雀桁方面に進撃し、劉勔・王道隆が戦死。宮城は動揺したが、蕭道成が敵に休範父子の死を布告して敵の名刺を焼き捨てるなどして瓦解させ、袁粲・陳顕達らも奮戦して最終的に賊軍を平定した。
- 荊州の沈攸之は休範への同心を疑われぬよう自ら朝廷に通報し、他州とともに休範討伐に加わった。乱後、蕭道成は中領軍・南兗州刺史に進み、袁粲・褚淵・劉秉と共に「四貴」と称された。
後廃帝昱の暴虐
- 宋主昱は幼少より粗暴で、成人後は儀衛を伴わず微行を重ね、市中で乱暴を働いた。実父が李道兒であることを自ら誇示し、市井を放浪した。
- 荊襄の沈攸之を警戒した蕭道成は張敬兒を雍州刺史として牽制させた。南徐州刺史建平王景素は人望を集めたが、楊運長・阮佃夫の讒言で疑われ、垣祗祖の偽情報に乗じて挙兵するも蕭道成の迅速な鎮圧で敗死した。
- 昱の乱行はさらに激化し、随行者に通行人や家畜を刺し殺させる遊戯を行い、宮中でも侍臣を些細な理由で殺害した。阮佃夫らは廃立を謀ったが露見し、昱自ら阮佃夫・朱幼を捕らえ獄死させ、杜幼文・孫超之らを親しく処刑し、沈勃一家を皆殺しにした。
- 皇太后への毒殺まで企てたが左右に諫められ思いとどまった。蕭道成の寝所を襲い腹を的にして矢を射る遊びをしたが、王天恩の機転で骲箭(先端を丸めた矢)を使わせ、道成は難を逃れた。
蕭道成の決断と昱の最期
- 道成は袁粲・褚淵に廃立を相談したが、袁粲は時期尚早として反対。しかし昱が道成暗殺を企てていることが漏れ聞こえ、道成は危機感を強めた。
- 部下の進言により、宮中の衛士楊玉夫・楊萬年・陳奉伯ら二十五人を買収して機会をうかがう策を採った。
- 七月七日夜、昱は遊興の末に泥酔して眠り込み、楊玉夫は主の理不尽な脅しに恨みを抱いていたところ、夜半に楊萬年と共に忍び入り昱の喉を刺して殺害した(享年十五、在位五年。後に「後廃帝」と呼ばれる。詩:幼くして命を落とすのが遅すぎたと嘆く内容)。
評語
- 桂陽王休範は泰始でなく元徽の代に死んだのは意外だが、彼が命拾いしたのも死んだのも「愚」ゆえである。建平王景素も垣祗祖の言を軽信して挙兵したのは同じく愚行だが、史家が休範を許さず景素にはやや同情的なのは、景素の挙兵が楊運長・阮佃夫の迫害によるものだからである。
- 後廃帝昱は子業と同様に愚かにして暴虐であり、その最期も同じであった。宋武帝の狡猾さに対し、後嗣の多くが昏愚であったことから、仁厚こそ長久の道であり、狡黠は久しく続かぬことがわかる。