南北史演義第023回 弟兄を殺し宋帝が刑を濫し、仏老を好み魏主が禅統する (殺弟兄宋帝濫刑 好佛老魏主禪統)

淮北の空名と後宮の乱れ

  • 劉勔は魏軍の侵入を撃退し、常珍奇を説いて帰順させたが、宋は徐・兗・青・冀の失地を実質回復できず、鐘離・淮陰・鬱洲に名目だけの官吏を置いて体裁を整えるにとどまった。
  • 宋主彧は当初の王皇后(王景文の妹)を疎んじ、数百人の嬪御を後宮に入れた。しかし子を得られず、宮人陳妙登を寵臣李道兒に下げ渡して身籠らせ、生まれた子(慧震)を自分の子と偽って太子に立てた(後の昱)。跡継ぎを得るため妊娠した諸王の姫妾を宮中に取り込み、産まれた男子の母を殺して寵姫を仮の母とするという非道も行った。

王皇后の抵抗と権幸の跋扈

  • 宮中の宴で女性に裸体で戯れることを強要した際、王皇后だけが扇で顔を隠して拒み、宋主に叱責されても毅然と拒絶した。王景文はこれを聞いて娘(妹)の剛正を評価した。
  • 阮佃夫・王道隆・楊運長ら側近が権勢を振るい、特に阮佃夫は賄賂を貪り豪奢を極め、皇族排斥のため讒言を弄した。

宗室粛清

  • 庐江王禕は柳欣慰との交友から擁立の陰謀に連座を疑われ降格の上、自裁させられた。
  • 建安王休仁はかつて宋主を守った功臣だったが功高きゆえに忌まれ、辞職を申し出た後も、詔使により毒殺された。休仁の死は「謀反により自裁した」と偽って公表され、爵位は子の伯融に継がせたが、その母殷氏も密通の罪で自尽させられた。
  • 山陽王休祐(晋平王)も狩猟中に壽寂之らに謀殺され、「落馬事故」と偽装された。
  • 巴陵王休若も帰京を促され、七夕の宴の後に賜死された。
  • 壽寂之・吳喜も功があったにもかかわらず忌まれて賜死された。蕭道成も讒言により召還されたが、堂々と入朝したため咎められず、官職を移されるにとどまった。

宋主の信仰と魏の禅譲

  • 宋主は故第を湘宮寺に改めて壮麗にしたが、虞願は「これは民の血税で建てたもの」と諫めて叱責された。虞願はまた弈碁への耽溺も諫めたが、文人として罪を免れた。
  • 宋は垣崇祖に淮北回復を試みさせたが、大きな成果は得られなかった。
  • 魏では拓跋弘(献文帝)が親政を行い、賞罰を明らかにして治世を安定させたが、馮太后は若い尚書李敷の弟李奕と密通していた。
  • 弘は仏教・道教を好み、五歳の太子宏(孝文帝)に禅譲しようとしたが、群臣の反対で叔父京兆王子推への譲位は取りやめ、太子への禅譲に落ち着いた。宏は幼くして父を気遣う言葉を述べ、弘はこれに感心して禅位を決めた。弘は太上皇帝として仏道に専念する道を選んだ。

宋主彧の最期

  • 南北は使者を交わし一時和議が成った。宋主は病に伏し、皇后の兄王景文の権力集中を恐れて自尽を命じ、景文は碁を打ち終えてから毒を仰いで死んだ。
  • 病篤い宋主は幻覚に苦しみ、殺した休仁・休祐の亡霊に責められる夢を見た。泰始八年を泰豫元年と改元し仏事に祈るも効なく、桂陽王休範ら重臣に太子の後事を託して崩御した(享年三十四、在位八年)。
  • 十歳の太子昱が即位し、袁粲・褚淵が輔政となった(詩:借腹の子が世を継ぎ、幼い夫婦が国を担う頼りなさを嘆く内容)。

評語

  • 建安王休仁は兄弟のために諸甥を殺す議に加わり、宋主彧は嗣子のために兄弟を殺したが、休仁自身も免れなかった。骨肉相残す者に、身も国も保てた例はない。後に蕭斉が宋を簒い劉氏を滅ぼしたのも、宋主彧の好殺の報いといえる。
  • 魏主弘の禅譲も常道を外れたもので、馮太后の内行の乱れを正さず、仏道に逃げて政務を放棄したのは禍の種であった。人情に背く行いは、必ず身を滅ぼす。