南北史演義第八回 営陽王を廃し外藩を迎立し、江陵で謀反し内変を聞き驚く (廢營陽迎立外藩 反江陵驚聞內變)

敗戦の責任と少帝の放埒

宋廷は河南喪失の敗報続きに動揺し、徐羨之・傅亮・謝晦は自ら劾を上げるが、少帝義符は遊興に耽り取り合わない。折しも魏の明元帝が没し、太武帝拓跋燾が即位、崔浩の勧めで一時休戦となり宋は小康を得る。

廬陵王義真の廃黜と誅殺

義真は謝霊運・顔延之・僧慧琳らと親しく交わり、「我が意を得れば汝らを重用する」と発言したことが徐羨之らの警戒を招き、二人は左遷される。義真はこれに反発し放言、財の要求も裁かれて恨みを深め、不遜な上表を行った。徐羨之らは少帝の廃立を密議しており、義真の一件を機に先に義真を廃して庶人とし新安郡に流し、まもなく密使を送って絞殺した。

少帝義符の廃立(クーデター)

徐羨之は檀道濟・王弘を召し密議に加え、謝晦は自邸に将士を集めて挙兵の準備をする。景平二年六月、暑さの中、義符が華林園で遊興し龍舟で一泊した隙を突き、檀道濟らが兵を率いて雲龍門から突入、義符を捕らえて廃位(営陽王)とする。太皇太后の名で「淫楽と暴虐を極めた」との廃立の詔が発せられ、皇后司馬氏も王妃に降格された。

傅亮は百官を率いて江陵の宜都王義隆を迎えに向かうが、道中で蔡廓に諫められ、営陽王(義符)殺害を止めようとするも間に合わず、義符は邢安泰の手で殺害された(十九歳)。

宜都王義隆の即位

義隆は司馬王華の勧めで即位を決意し、江陵から都へ入る。徐羨之は傅亮に「今上は如何なる人物か」と問い、傅亮は「晋の文帝・景帝以上」としつつも内心の不安を漏らす。義隆は即位(宋文帝)し、廬陵王義真の名誉を回復して遺骸を改葬、諸弟を王に封じ、謝晦を荊州刺史として外に出す一方で内実は警戒していた。謝晦は蔡廓に「禍を免れられるか」と問い、「二人の兄を殺してなお臣下でいるのは難しい」と警告される。

文帝の親政と粛清の準備

元嘉二年、徐羨之・傅亮が政を返上、文帝が親政を開始。孔寧子・王華らの進言もあり、文帝は徐羨之・傅亮・謝晦の排除を決意する。謝晦の妻子を人質同然に都へ留め、伐魏を名目に檀道濟を都へ召し、王華の疑念に対し「道濟は従犯にすぎず殺害にも関与していない」として味方に引き入れる。

謝晦の挙兵

元嘉三年、謝晦のもとに不穏な情報が相次ぐ。参軍何承天の進言を容れず江陵での決戦を選び、挙兵の準備を進めるが、諮議参軍顔邵は諫めて自殺、司馬庾登之は消極的な姿勢を示す。周超が守城を買って出るなど混乱の中、まもなく都から徐羨之・傅亮とその子弟が誅殺されたとの報が届き、謝晦は驚愕して昏倒する(詩:一族を守ろうとした挙兵が、かえって子弟を先に失う悲劇を詠む)。

評語

少帝は廃するに値したとしても弑するのは行き過ぎであり、廬陵王は罪も明らかでないのに廃され、さらに殺された。劉裕が晋の遺族を滅ぼしたのは子孫を保つためだったが、皮肉にもその子孫を滅ぼしたのは託孤の三大臣であった。徐羨之・傅亮・謝晦は義隆を担ぎ立てて功に頼ろうとしたが、かえって義隆自身の手で誅殺される。天の報いの巧みさを思わせる顛末である。