明史紀事本末宦侍、国を誤る(宦侍誤國)
天啓七年(1627年)の懐宗即位から崇禎十七年(1644年)の明の滅亡まで、17年余にわたる宦官の起用とその弊害を扱う。即位した帝は魏忠賢を誅して各辺の内臣をことごとく撤し、朝野は至治を望んだが、崇禎二年に京師が戒厳すると再び太監に行営を視させ、張彝憲に戸工二部を総理させ、王坤・高起潜・曹化淳らを各鎮の監視・監軍に遣わした。高弘図・周鑣・袁継咸・倪元璐・劉宗周・金光宸らが体統の紊れと監視の無効を諫めたが、多くは責められ籍を削られ、監司も総監に属礼を行うようになった。崇禎七年と十三年に一度は監視を撤したもののすぐに復し、周延儒も内監を罷めたことで諸璫に文致されて死を賜った。崇禎十七年、杜勲・杜之秩が李自成に迎え降り、曹化淳が門を開いて降って、帝が社稷に死んだとき従い死んだ内臣は王承恩一人だけであった。
年表(6件)
- 熹宗
- 天啟七年秋八月〜冬(内臣の一斉罷免)1627年魏忠賢が誅せられ各辺の内臣と織造・漕運の太監がことごとく罷められる
- 懷宗
- 崇禎元年〜四年(1628〜)(内臣の再登用)1631年京師の戒厳を機に曹化淳・張彝憲らが起用され各鎮に監視の太監が置かれる
- 崇禎五年〜六年(1632〜)(内臣の権勢と諫言)1633年高弘図・周鑣が張彝憲らの越権を諫めて退けられ王志道も平台で叱責される
- 崇禎七年〜九年(1634〜)(監視太監の撤回と再設)1636年いったん総理・監視を撤したが大清の兵が至って高起潜ら内臣が再び諸鎮を総監する
- 崇禎十年〜十四年(1637〜)(監視の弊と諫言)1641年監司が総監に属礼を行うようになり劉宗周・方璽の諫めも用いられない
- 崇禎十五年〜十七年(1642〜)(東廠の抑制と明の滅亡)1644年東廠の緝事を限り劉元斌を誅したが杜勲・曹化淳が降って王承恩だけが従い死ぬ
熹宗天啟七年(1627年)秋八月〜冬(内臣の一斉罷免)
- 懐宗が践阼した。冬十月、魏忠賢が誅に伏した。南京守備太監の楊朝、浙江・直隷織造太監の李実、承天守備太監の李希哲、提督太和山太監の馮玉、天寿山太監の孟進、漕運太監の李明道・崔文昇を並んで免じた。
- 上は日講を終えて閣臣を便殿に召し入れ、薊遼督師の王之臣の疏を出して示し、「王之臣は自ら贅員といい、また虚しく拘わると言う。内臣の牽制ではないか。各辺の内臣をことごとく撤せよ」と言った。
- 十一月戊辰、諭して言った。「先朝は宣府・大同・薊州・遼東・東江の諸地に分けて内臣を遣わして協鎮させた。一つの柄を両つながら操るのは甚だ謂われがない。まして宦官が兵を観るのは古来、戒めがある。概ねこれを罷めよ。一切の機宜を相度するのはみな経略・督師の節制を聴かせ、再び委任を専らにせずしてその口実に藉らせるな。およそなんじら諸臣はこの意を体せよ」。
- 先に万暦以来、礦税が行われて騒然として苦しみ、やがて魏忠賢が権を擅にして骨を敲き髄を剥ぎ、天下は足を重ねて立った。上は即位して真っ先にこれを罷め、朝野は翕然として至治を望んだ。
懷宗崇禎元年〜四年(1628〜1631年)(内臣の再登用)
- 崇禎元年春正月、内臣にみな入直させ、命を受けるのでなければ禁門を出ることを許さなかった。
- 二月、廷臣に近侍と結交するのを戒めるよう諭した。
- 二年夏四月、内官監太監の曹化淳に南京織造を提督させた。
- 秋七月、司礼太監の曹化淳に東廠を提督させた。
- 冬十一月、大清の兵が南下し、初めて乾清宮太監の王応朝を遣わして行営を監視させ、太監の馮元昇に軍を覈べさせ、終わって初めて戸部に餉を発させた。また太監の呂直に軍を労わせるよう命じた。
- 十二月、司礼監太監の沈良佐、内官太監の呂直に九門および皇城門を提督させ、司礼太監の李鳳翔に忠勇営を総督させ京営を提督させた。
- 三年春二月、司礼太監の曹化淳らにそれぞれ錦衣衛指揮僉事を蔭した。
- 四年秋九月、太監の張彝憲に戸・工の二部の銭糧を総理させ、唐文征に京営の戎政を提督させ、王坤を宣府に、劉文忠を大同に、劉允中を山西に往かせてそれぞれ兵餉を監視させた。
- 冬十月、太監の監軍として王応朝を関寧に、張国元を薊鎮の東協に、王之心を中協に、邵希韶を西協に往かせるよう命じた。
- 十一月、太監の李奇茂に陝西の茶馬を監視させ、呉直に登島の兵餉を監視させた。
- 初め上は諸内臣を罷めて外事をみな督撫に委ねた。しかし上は英察で、たちまち法をその後に随わせ、外臣で任使に称う者が多くなかった。崇禎二年に京師が戒厳すると、そこで再び内臣に行営を視させた。これ以来、憲を銜んで四方に出、動もすれば威をもって上官に倨り、体は庶司に加わって、群れて相い壅ぎ蔽うようになった。
- 工部郎中の孫肇興を罷めた。孫肇興は盔甲廠を監督し、帑の詘るをもって疏して張彝憲を弾劾した。上は怒って落職させた。
崇禎五年〜六年(1632〜1633年)(内臣の権勢と諫言)
- 五年春三月、工部右侍郎の高弘図が上言した。「臣の部には公署があり、中は尚書、旁は侍郎。礼であります。内臣の張彝憲が両部を総理する命を奉じて儼然としてその上に臨むのは、また朝廷を辱め国体を褻すものではありませんか。臣の今日、侍郎たるや、尚書に貳するのであって内臣に貳するのではありません。国家の大体を臣はもとより慎まぬわけにいきません。ゆえに謹んでこれを川堂に延き、賓主を相にして公座はむしろ已めております。大いに張彝憲の意に拂りましょうとも、臣は顧みません。
- しかも総理の公署は命を奉じて別に建てられました。それなら臣の部にあるものは臣の部に還すべきです。どうして名正しく言順にして内外が平らかとならぬことがありましょう」。上は軍興・餉事の重きをもって部に到って験核すべきだとして聴かなかった。高弘図はそこで病と称して去ることを求め、疏を七たび上げてついに籍を削られた。
- 秋七月、司礼監太監の曹化淳に京営の戎政を提督させた。
- 冬十二月、南京礼部主事の周鑣が上言した。「内臣は用いるのが易く去るのが難い。これは従来の通患であります。しかしにわかに去りえぬとしても、なお裁ち抑えるところあるのを冀います。
- いま張彝憲が用いられて高弘図の骨鯁は容れられなくなりました。金鉉の撫蘆は幸いに罪を免れましたが他事で中てられました。王坤が用いられて魏呈潤は胡良機を救ったことで処せられ、趙良曦は直に糾したのを扶同として処せられました。鄧希詔が用いられて曹文衡は互いに結んだとして閑に投ぜられ、王弘祖は礼数を苛くして斥けられました。孫肇興・王弘祖の激直、李曰輔・熊開元の慷慨のごときは罷斥されぬものがなく、指を屈しきれません。
- とりわけ嘆ずべきは、邸報を読むたびに半ばは内侍への温綸に属することであります。これより後、臣子を草菅とし天言を委ね褻し、ただ中貴の心に狥うだけとなって、極まるところを知らぬこととなりましょう」。上はその切直を怒って籍を削った。礼部員外郎の袁継咸が疏して救ったが聴かれなかった。
- 司礼監右少監の劉労誉に九門を提督させ、百官に馬を進めさせた。三品以上はそれぞれ一匹を貢し、余りは合わせて進めるものはみな御馬監に納れさせた。実は金を賫して貿うのは本監であった。さもなくば驥に騎っていても却けた。
- 六年春正月、大学士の周延儒が宣府閲視太監の王坤に疏して弾劾されて罷めることを乞うたが允されなかった。左副都御史の王志道が「王坤が輔臣を侵すべきでない」と上言した。
- 上が廷臣を平台に召して王志道に言った。「内臣を遣わし用いるのはもとよりやむを得ぬことである。朕の言は甚だ明らかなのに、なぜ議論が多いのか。昨日の王坤の疏は朕がすでにその誣妄を責めた。それを廷臣が挙げ弾劾するのに内臣を牽き引かぬものがない。どうして各官を処分するのがみな内臣のためであろうか」。
- 王志道は「王坤がまっすぐ輔臣を弾劾し、挙朝は皇々として紀綱・法度を憂えております。臣は法度のために惜しむのであって諸臣のために地を為すのではありません」と答えた。上は「廷臣は国家の大計を言わず、ただ内臣が鎮に在って姦弊に不利なことによって、そこで王坤の疏に借りて朝廷を要挾している。まことに巧佞である」と言い、そこで王志道を詰ること再び。
- 周延儒が「王志道は専ら内臣を論じたのではなく、実は臣らの職を溺れたのを責めたのであります」と言うと、上の色はやや霽れて「職掌を修めず名を沽って論を立てる。どうして憲紀に堪えよう」と言い、立ちどころに王志道に退くよう命じた。周延儒はそこで放ち帰された。
- 夏五月、司礼監太監の張其鑑らを各倉に赴かせ、提督の諸臣とともに盤験・収放させた。
- 太監の張応朝を南京に調え、胡承詔とともに協同して守備させた。
- 兵部に諭した。「流寇が蔓延して各路の兵将の功罪には監紀があるべきである。特に太監の陳大金・閻思印・謝文挙・孫茂霖を内中軍として、各撫・道と会して曹文詔・左良玉の諸営に分け入らせよ」。まもなくさらに閻思印を総兵の張応昌とともに合わせ勦めさせた。汾陽知県の費甲鏸が逼り迫られて供億に苦しみ、井に墜ちて死んだ。
- 六月、太監の高起潜に錦州・寧遠を監視させ、張国元に山西の石塘などの路を監視させて兵餉を綜核させた。
- 秋七月、萊州を守った功で内臣を叙し、徐時得・翟升にそれぞれ錦衣衛正千戸を蔭した。
- 湖広守備太監の魏相に登島の兵餉を監視させた。
崇禎七年〜九年(1634〜1636年)(監視太監の撤回と再設)
- 七年春二月、登島を監視する太監の魏相が、給事中の荘鰲献が上った「太平十二策」に監視を撤せよとあったことで罷めることを求めたが允されず、荘鰲献を外に貶した。
- 総理太監の張彝憲が入覲の官に冊を投じさせて体統を隆くすることを請い、許された。山西提学僉事の袁継咸が上言した。「士に廉恥があってこそ風俗があり、気節があってこそ事功があります。総理内臣に覲官が冊を賫す令があるのを皇上が従われたのは、特に奸弊を剔り釐めるためで、群臣に膝を詘めさせようとされたのではありません。ところが上命が一たび出るや靡然として風に従い、藩・臬・守・令は参謁して息を屏め、阿責を免れうるのを幸いとしております。
- ああ、一人が瑞を輯めて万国が朝宗するのに、諸臣がまだ天子の光に覲えぬうちにまず内臣の座を拝する。士大夫がなお廉恥を有ちうるでしょうか。逆璫がまさに張ったとき、義子・乾児が昏夜に拝伏して自ら羞じたものです。いまは白昼、公庭で恬として怪しむを知らぬ。国家に自ずと覲典があって二百余年、いまだこれあるを聞きません。太息する所以であります」。上は職を越えて事を言ったとして責めた。
- やがて張彝憲もまた奏して弁じ、「覲官の参謁は朝廷を尊ぶものだ」と言った。袁継咸はさらに上言した。「朝廷を尊ぶのに典例より大なるはありません。知府が藩・臬に見えて属礼を行うのは典例であります。内臣に見えて属礼を行うのもまた典例でしょうか。諸司が京に至って吏部の各官に冊を投ずるのは典例であります。まず内臣に謁するのもまた典例でしょうか。
- 事がもと典例であれば、坐して受けてもなお安んじうるところ。事が創めであれば、張彝憲がたとえ長揖してもただその辱めを増すだけ。高皇帝の立法では内臣は外事に与ってはなりません。もし必ず内臣をもって外臣を縄すというなら、会典に載らぬところであります」。上はなお厳しく責めた。
- 夏五月、陝西按察司副使の賀自鏡が監紀太監の孫茂霖が寇を玩んでいると奏した。宣府太監の王坤が「監軍は功罪を紀すのみ。追い逐うのは将吏に在る」と奏した。上は「果たして賀自鏡の言のとおりなら地方官の罪は孫茂霖の下にあるまい」と言い、問わなかった。
- 六月、禁旅の功を叙して太監の曹化淳に世襲の錦衣衛千戸を蔭し、袁礼・楊進朝・盧志徳にそれぞれ百戸を蔭し、衣幣を賜った。盗を撃ってしばしば捷ったからである。
- 各道の監視太監を罷めて諭した。「朕が御極の初め、内鎮を撤し還して天下の事を挙げてことごとくこれ(外臣)に委ねた。ところが大小の臣工で近ごろ私を営む者が多く、民の艱きを恤まず、廉謹な者はまた迂疎で通論がない。己巳の冬、京都が兵を被って宗社は震え恐れた。これは士大夫が国家に負いたのである。
- 朕はやむを得ず成祖の監視の例を用いて各鎮に分け遣わして監視させ、両部に総理を添え設けた。一時の権宜とはいえ、また諸臣に自ら罪を引かせようとしたのだ。いま経制はほぼ立って兵餉はやや清くなった。諸臣もまた省みることを知るであろう。総理・監視などの官はことごとく撤し回して朕の初心を信じさせよ。
- 張彝憲は漕が竣わるのを俟ってただちに司礼監に回って職に供せ。ただ関寧は外境に密邇するゆえ、高起潜は両鎮を兼ね監せよ。内臣の提督は旧のごとくとする」。
- 秋七月、幣金・蟒緞を発して監軍太監の高起潜に給し功を賞した。
- 九月、司礼監太監の張従仁を内官監に改めて九門を提督させた。
- 冬十月、兵部に内中軍の張元亨・崔良用とともに西寧に往かせて監視させ、および茶馬御史の易壮馬を命じた。
- 総理戸工二部司礼太監の張彝憲を司礼監提督に改めた。
- 十一月、侍読の倪元璐が上言した。「辺臣の情は命を軍容に帰し、事なきときは成を禀けるのを恭とし、寇が至れば推し委ねること百出、陽には人に号して『吾は自由ならず』と言います。陛下はどうして賞を信じ罰を必ずしてその後を持されず、必ず近習の人に鋒鏑を試みさせ、しかも口実に藉らせて、ついに成るところなきに至るのですか。始め陛下は『行って績あればただちに撤す』と仰せられました。いま行って績なし。いよいよ撤すべきであります」。聴かれなかった。
- 十二月、乾清宮太監の馬雲程に京営の戎政を提督させ、南京守備太監の胡承詔・張応朝を撤して、司礼太監の梁洪泰、内官太監の張応乾に協同して守備させた。
- 八年夏四月、承運庫太監の周礼が「崇禎六年・七年の省の金花銀は共に八十九万を逋している」と言い、促すよう命じた。
- 冬十一月、太監の高起潜の弟に錦衣衛中所正千戸を世襲で蔭した。
- 九年夏六月、司礼太監の曹化淳に法司とともに囚を録するよう命じた。
- 秋七月、大清の兵が居庸に至り、内中軍の李国輔を遣わして紫荊関を、許進忠に倒馬関を、張元亨に竜門関を、崔良用に固関を守らせ、勇衛営太監の孫維武・劉元斌に六千五百人で馬水沿河を防がせた。
- 兵部尚書の張鳳翼が援兵を督して出師し、監視関寧太監の高起潜を総監として南して霸州を援けさせ、遼東前鋒総兵の祖大寿を提督として、山海総兵の張時傑とともに高起潜に属させ、高起潜に金三万、賞功牌千を給して賞格を購わせた。
- 前司礼太監の張雲漢・韓賛周を副提督として城を巡り軍を閲させ、司礼太監の魏国徴に天寿山を守らせた。まもなく魏国徴に宣府・昌平・京営を総督させ、御馬太監の鄧良輔を分守太監とし、鄧希詔に中・西の二協を監視させ、太監の杜勲を分守とした。
- 張元佐を兵部右侍郎として昌平を鎮守させた。当時、内臣で天寿山を提督する者はみな即日に往ったので、上は閣臣に「内臣は即日に道に就くのに、侍郎は三日も出ぬ。どうして朕が内臣を用いるのを怪しむのか」と語った。
- 司礼太監の盧維寧に天津・通州・臨清・徳州を総督させ、内中軍太監の孫茂霖を分守とした。
- 八月、科道の各官に地を分けて督運させるよう命じた。太監の張彝憲の言に従ったのである。廷臣および河南道御史の金光宸を平台に召した。初め金光宸は督師の張鳳翼および鎮守通州兵部右侍郎の仇維楨を参劾し、真っ先に内臣の功を叙するのは援けを借りるものだとし、また内臣に兵を督させるのを罷めるよう請うたが、上は善しとしなかった。
- この日、上は甚だ怒って「仇維楨はまさに通州に至ったばかりである。なんじはただちに題に借りて名を沽った」と言い、重く治めようとした。折しも大雷雨があって、謫することとした。
- 九月、大清の兵が建昌の冷口から還るとき、守将の崔秉徳が兵を率いて帰路を遏めることを請うたが、総監の高起潜は敢えて進まず、「半ば渡るを当って撃つべし」と揚言した。偵騎が「師はすでにことごとく行った」と報せて四日、高起潜はようやく進んで石門山で三級を斬ったと報じた。
- 司礼監太監の孫象賢を南京に調えて張彝憲とともに守備させた。
- 冬十月、工部侍郎の劉宗周が上言した。「人才の兢わぬのは才なきを患えるのでなく、君子なきを患えるのであります。いま天下が才に乏しいとはいえ、どうしてことごとく二、三の中官の下に出るに至りましょう。緩急の際のたびに必ずこれに依って大任とし、三協に遣わしがあり、通州・天津・臨清・徳州にも遣わしがあり、さらにその体統を重んじて総督に等しくします。中官が総督なら総督をどこに置きましょう。これは封疆をもって嘗め試みるものであります。
- しかも小人と中官はしばしば相い引き重んじ、君子だけが岸然として自ら異なります。ゆえに古来、小人を用いる君子はあっても、ついに中官に党比する君子はありません。皇上がまことに君子を進め小人を退けようとされながら、重ねて中官を用いてこれを参制されるのは、明らかに左右袒を示すものであります」。返答はなかった。
- 太監の曹化淳らに綵幣を賜った。当時、それぞれ馬を進めたからである。
- 京師の城守の功を叙し、太監の張国元・曹化淳に指揮僉事を蔭してそれぞれ世襲させ、金幣を賜った。初め曹化淳は京営の提督となって降丁を収め用い、昌平を守るに及んでみな散り去り、京師の城下を叩く者に至るまでみな京営の兵と称して弁じえなかった。
- 十一月、禁旅の功を叙して太監の劉元斌に錦衣衛百戸を蔭した。
- 御馬太監の陳貴に大同・山西を総監させ、牛文炳を分守とし、御馬太監の王夢弼に宣府・昌平を分守させ、鄭良輔に協理させた。
- 兵部左侍郎の王業浩、司礼太監の曹化淳を平台に召した。
- 十二月、曹化雨に後軍都督府左都督、世襲錦衣衛指揮僉事を加えた。
崇禎十年〜十四年(1637〜1641年)(監視の弊と諫言)
- 十年春正月、常熟の張従儒が銭謙益を訐発した。温体仁が隙を修めて獄に下した。銭謙益はかつて王安のために祠記を作っており、太監の曹化淳はもと王安の門下だったので、銭謙益は免れることを得た。温体仁はまもなく致仕して還った。
- 御馬太監の李名臣に京営の巡捕を提督させ、王之俊を副とし、司礼太監の曹化淳に東廠を提督させた。
- 分守津・通・臨・徳総理太監の楊顕名が前巡塩御史の張養、高欽舜がそれぞれ税額を侵したと参劾し、詔して逮えた。当時、張養は先に卒しており、撫按に下してその家を録した。
- 夏四月、南京守備太監の孫象賢・張雲漢に兵部尚書の范景文とともに兵馬・械杖を清覈するよう命じた。
- 総監太監の高起潜が部を行うと、永平道の劉景耀、関内道の楊于国はともに属礼を行うのを恥じて疏を上って免除を求めた。上は「総監はもとより総督の体統をもって事を行う」として楊于国を罷め、劉景耀を二級降した。これ以後、監司はみな敢えて争わなかった。当時、監の設置はただ餉を扣す人を一人多くするだけであった。監視が満足すれば督撫・鎮道はみな恃むところあって功を飾り過ちを掩えたので、辺吏はみな監視のあるのを楽しんだ。上はまさに中官に倚り任じて察しなかった。
- 秋七月、工部員外郎の方璽が外に謫された。方璽は上言していた。「皇上は親しく魏忠賢を擒にして手ずから刃されました。どうして閹豎に情を溺れられましょう。外廷の諸臣に一人も用いうる者がないので、才を借りてこれに及ばれたにすぎません。まして人臣が聖功に感激してかりに報答を知るなら、内外を何ぞ論じましょう。しばしば見るに、廷臣は地を処すること懸絶し、宮廷の狎御が忠を効すのが倍して易きに若かず。およそこの内臣がこの曠典を徼えたのは、誰か頂踵を棄て捐てて我が皇上に酬いようとせぬ者がありましょう。必ずしも鰓々として計り過ぎるに及びません」。刑科給事中の何楷が「内に通じて身を呈した」と駁し、吏部がその籍を削るよう請うた。上は手ずから改めて三級を降して外に謫した。
- 冬十一月、司礼太監の曹化淳・杜勲らに京営を提督させ、孫茂霖に薊鎮の中・西の三協を分守させ、鄭良輔に京城の巡捕を総理させた。
- 十一年春正月、任丘・清苑・淶水・遷安・大城・定興・通州の各有司が不法で、上は内々に訪ねて逮え入れ、撫按がまず弾劾せぬのを溺職と責めた。近畿でこのとおりなら遠地は知るべしとして、部院に申飭を命じた。
- 二月丙申、盧溝に城いて「拱極城」と名づけた。太監が役を督して路上の人を掠め、工を受けて民の力を疲れとした。
- 冬十月、御馬太監の辺永清に薊鎮の西協を分守させた。
- 十二年春正月、緝奸の功を叙して東廠太監の王之心・曹化淳に錦衣衛百戸を蔭した。
- 二月、司礼太監の崔琳に両浙の塩課・賦税を清理させた。
- 秋七月、司礼太監の張栄に九門を提督させ、王裕民に京営を総督させ、午門・端門の諸内臣が朝士を延き接するのを戒めた。
- 九月、内官監太監の杜秩亨に九門を提督させた。
- 十三年春三月、詔して各鎮の内監を撤して京に還らせた。
- 夏六月、大学士の薛国観が免ぜられた。先に上が薛国観を召して朝士の貪婪に言い及ぶと、「廠衛が人を得れば朝士がどうして敢えてこのようにしましょう」と答えた。東廠太監の王化民が側にあって汗が背を浹し沾した。そこで専らその陰事を偵り、薛国観もまた褊り忮んで賄を通じたことに坐して敗れた。
- 十四年夏四月、大学士の周延儒を召して入朝させた。
- 秋八月辛酉、上が太学に幸した。重修が告成したからである。正一真人の張応京が扈従して雍に臨むことを請うた。期に先んじて司礼監太監の王徳化が命を奉じて群臣を率いて太学で儀を習った。当時、これを唐の魚朝恩の講経、元の李邦寧の釈奠の事に比した。
- 九月、東廠提督で京営を提督する者もまた総督と称するよう改めた。
- 冬十一月、朝士が私に内閣を探って内侍に通ずるのを禁じた。そこで待漏はみな露に立って敢えて直舎に入る者はなかった。
- 十二月、内操を停めるよう諭し、内臣の神宮などの監および各司局庫などに外政に与らぬよう勅し、併せて廷臣に近侍と交通せぬよう申し戒めた。
崇禎十五年〜十七年(1642〜1644年)(東廠の抑制と明の滅亡)
- 十五年春正月、京営を提督する内臣を罷めた。
- 御史の楊伯願が上言した。「臣は勅諭に内侍と結交する律を申べられたのを読み、そこで高皇帝の初めにいわゆる緝事の令がなく、臣工の不法はただ明らかに糾すにとどまって陰かに訐ることがなかったのを稽えました。臣は南城に罪を待つ身として、見るところ詞訟には番役を仮って妄りに東廠と称するものが多く、甚だしきは人に諉けて奸を作し仇を挟んで首告するに至ります。
- そもそも人を餌にして禍いに陥れ、人を択んで喙を肆にする。ただその悪を為さぬのを恐れ、またただその法に罹らぬのを恐れる。皇上が罪に泣き網を解かれる仁に揆れば、どうして傷まぬことがありましょう。伏して願わくは、まず東廠の条例を寛くされんことを。東廠が寛くなれば刑罰は次第に省けます。
- そのうえで臣にはさらに請うところがあります。臣子が罪を獲たら、ただ撫按に勅して檻車で闕下に送り詣でさせても不可ではありますまい。もし緹騎が一たび遣わされれば、資ある者は家門が破れ散じ、資なき者は地方が歛めて餽り、害を為すこと浅くありません」。上は是として、東廠の緝えるところは謀逆・乱倫にとどめ、その奸を作し科を犯すものは自ずと有司があるとし、錦衣校尉が使いを奉じて需め擾すのを戒めた。
- 秋七月、司礼太監の斉本正に東廠を提督させ、王承恩に勇衛営を提督させた。
- 冬十月、司礼太監の劉元斌を誅した。初め劉元斌が河南で監軍したとき、群盗は陝州・洛陽にあったのに、劉元斌は帰徳に留まって敢えて進まず、諸軍を縦して大いに掠め、樵り汲む者を殺して功を論じた。辟を論ずるに及んで、まだ旨を得ぬうちに奏して弁じ、上は怒って併せて太監の王裕民を誅した。
- 十六年夏五月、内官監太監の王之俊に京城の巡捕・練兵を提督させた。
- 秋七月、廷臣が私に内臣に謁するのを戒め、果たして事があれば朝房で商うこととした。
- 八月、司礼太監の王承恩に京営の戎政を督察させ、韓賛周に南京を守備させた。
- 冬十二月、前大学士の周延儒に罪あって死を賜った。周延儒は中外が交々訌れるにあたり、ついに上のために一策も画きえなかった。その内監を罷め廠衛を撤したので、内臣は日夜これを文致した。ゆえに周延儒は始終みな璫によって敗れた。
- 初め周延儒は主眷を受けること深く、諸璫がやや隙に乗じて媒し孽んでも上はみな信じなかったので、周延儒はいよいよ忽せにして慮らなかった。師を視て辺を行うに及んで上意はやや移り、諸璫はそこでことごとくその蒙し蔽う状を発いた。上は信じ、呉昌時の事が発いて聖怒はついに回すべからざるものとなった。
- 十七年春二月、李自成が山西から真定・保定に趨り、太監の高起潜らに要害を分け拠らせるよう命じた。
- 三月、李自成が宣府を陥れ、太監の杜勲が迎え降った。居庸関に入ると太監の杜之秩が迎え降った。
- 司礼太監の王承恩に内外の京城を提督させ、前太監の曹化淳らを召して諸門を分け守らせた。丙午、賊の騎が彰義門に迫り、太監の杜勲が城を縋って上って大内に入り見えて、賊の勢いを張り皇して守璫の輩に「吾が党の富貴は自在である」と語った。この夕、太監の曹化淳が門を開いて降った。
- 上は社稷に死んだ。内臣で従い死んだ者はただ王承恩一人であった。
史論(谷應泰曰)
- かつて聞くに、宦者の四星は皇位の側にある。しかし身を腐し子を薫ずる者が動もすれば相い衒い達し、金貂・左璫が口に天憲を含むに至ったのは、由って来るところが漸んだのである。
- しかし秦は趙高によって敗れ、漢・唐は宦侍によって亡んだ。太祖はこれを鑑みて、およそ内竪には書を読ませず、掖庭に備えて灑掃に給させるにとどめた。中葉に及んで刑余の者を寵し用い、英宗・憲宗・武宗・熹宗の四世に乱れた。
- 懐宗に比べれば、冲齢で践阼し、睿謀は天縦、手ずから凶璫を剪った。李閏に安を伺う功があり曹騰に桓を建てる策に参じたことはあったにせよ、ついに張逵は坐して甘露を収め、変なく色を動かさずして大奸を去った。これぞ奇である。
- しかもその初年、江南の織造はただちに撤し還され、塞北の監軍はことごとくみな免じ罷められ、なお内臣に命を受けて初めて禁門を出、廷臣は官に在って近侍と交わるなと諭された。このとき嚬笑は仮されず狐鼠は窃まず、宮中も府中も粛清を極めた。
- どうして意ったろう、渭水に兵を陳べ甘泉に火を挙げるに至って、銭穀を問えば大僚は答えず、廟算を諮れば肉食は謀に寡なかった。秦にすでに人なく、王真は孤立した。そこで初めて貂璫を参え任じ、往来して給使させ、軍を労い餉を転じ、行間を偵り刺させた。思うにまたやむを得ぬところがあったのである。
- これより後、曹化淳らは錦衣の蔭を蒙り、張彝憲は戸・工を総理し、唐文征は親しく京営を督し、高起潜は錦州・寧遠を監視し、張其鑑は収放を盤験した。内外の各司には必ず貂貴を兼ね、辺に縁う諸鎮にはさらに中涓を設けた。語に「西頭の勢いは重く、南衙の枢機、権は宰相に過ぐ」という。まことに誣いではない。
- その後、高弘図・熊開元は次第に劾を投じ、倪元璐・袁継咸は先後に章を上った。侯覧が事を用いて朱穆は疽を発し、魚朝恩が席に即いて魯公が坐を争った。国体はすでに傷つき、士大夫の鄙むところとなったのももっともである。
- しかし英主が御して太阿はまだ落ちず、王振の土木の罪、汪直の西廠の酷、劉瑾の不軌の謀、魏忠賢の闇奸の状があったわけではない。それでいてひそかに意旨を窺い、馴れて敗亡に致ったのは他でもない。陽に国柄を授けるのはなお竜を摘む珠のごとくだが、陰に耳目を寄せるのはまさに叢の神を窃むものだからである。
- 総じて、懐宗の怒りは門戸にあった。ゆえに必ず甫節を用いて膺・滂を伺わせ、懐宗の疑いは蒙蔽にあった。ゆえにまた必ず弘石を用いて楊・賈を発かせた。ついに中常の子弟はことごとく黄巾と合し、涼州の議郎は貨賄の輸納を責めて、天下の事は為すべからざるものとなった。
- 私が論ずるに、崇禎の初造、人は太平を望んだ。かりに誠を推し腹を置いていたら竈を煬く者は除きえ、賢に任じ邪を去っていたら小さな群れは渙散しえた。これを閹人に詗るのは、正士に信ずるに如くものがあろうか。天を回して独り坐すには、もとよりこの曹を事とするに及ばなかった。
- ひとり奈何ぞ、李輔国が誅に就いて程元振がさらに用いられ、張譲を殺してさらに然えた。眉睫の喩えは、そこで識者の悼み惜しむところとなったのである。