明史紀事本末奢崇明・安邦彦を平定する(平奢安)

天啓元年(1621年)から崇禎十年(1637年)まで十七年間、四川永寧宣撫使の奢崇明と貴州水西の土目の安邦彦が起こした西南の大乱と、その平定を扱う。奢崇明は援遼の兵を口実に重慶で叛いて巡撫の徐可求らを殺し、成都を百二日囲んだが、布政使の朱燮元が守り抜いて撃退した。ついで安邦彦が水西で叛いて貴陽を十か月囲み、巡撫の王三善がこれを解いたものの、大方から還る途上で陳其愚に襲われて戦死し、戦局は膠着した。崇禎元年に朱燮元が五省総督として再起用され、翌年に永寧で奢崇明・安邦彦をともに陣中に討ち、安位の降伏を受けた。以後は郡県を置かず水西の地を分けて多くの土司に授ける善後策により西南は底定した。

年表(8件)

熹宗天啟元年(1621年)九月(奢崇明の反乱と重慶の陥落)

  • 四川永寧宣撫使の奢崇明が叛いた。奢氏は猓玀の種である。洪武年間に帰附して宣撫司に命ぜられ、代々その土を守った。数代を伝えて奢崇周に至って子がなく、奢崇明が族人として立つことを得た。
  • 崇明は性が陰鷙で恭順を装い、およそ徴調があれば命に応ぜぬことがなかったので、人は次第に狎れた。子の奢寅に逆志があり、険阻を負んで亡命を招き納れた。当時、辺事が急で四方の兵を徴していたので、崇明はそこで疏を上って兵三万を提げて援けに赴くことを請い、その将の樊竜・樊虎を遣わして兵を重慶に至らせた。
  • 四川巡撫の徐可求が点検してその老弱を汰り、餉を発したが餉はまた続かなかった。樊竜らはそこで衆を鼓して反した。樊竜は馬を走らせ槊を舞わせてまっすぐ徐可求を刺し、徐可求は死んだ。そこで一斉に擁して上り、道臣の孫好古・駱日升・李継周、知府の章文炳、同知の王世科・熊嗣先、推官の王三宅、知県の段高選、総兵の黄守魁・王守忠、参将の万金・王登爵らがみな死んだ。原任鞏昌同知の董尽倫は変を聞いて衆を帥いて入城して賊を殺したが、伏に遇って死んだ。募兵科臣の明時挙、台臣の李達、通判の王天運はみな傷を負って牆を越えて遁れた。
  • 当時、土兵数千が江岸に列んで、城内の砲が震えると城外がこれに応じた。賊はそこで重慶に拠り、兵を分けて一は夔州の水口を扼し、一は綦江・遵義に踞し、一は瀘州に踞し、一は川西の桟道を截った。全蜀は震動した。
  • 奢崇明が遵義を陥れた。当時、遵義道臣の李仙品、参将の万金が兵を督して遼を援けようとしてともに重慶に赴いており、城中の守備は空虚であった。奢崇明はその子の寅とともに衆を帥いて遵義に奄至し、署府通判の袁任は期に先んじて城を委ねて遁れた。賊は勢いに乗じて納渓・瀘州・江安などの城を焼き劫め、興文・永川・長寧・栄昌・隆昌・璧山はみな空になった。賊が合州・江津を攻めると、知州の翁登彦、知県の周礼嘉が力を悉くして捍ぎ禦ぎ、破って走らせた。興文を陥れると、知県の張振徳は屈せず妻子を率いて火に赴いて死んだ。
  • 石砫宣撫司掌印の女官の秦良玉が勤王した。秦氏は代々宣撫司である。良玉の兄の秦邦屏・邦翰は遼を援けて力戦して死に、弟の秦民屏は重傷を負って囲みを突いて出て帰ることを得た。当時、藺の賊は秦氏に厚く贈って助けを求めたが、良玉は使いを斬って銀を留め、部下の精兵一万余を率い、弟の民屏、姪の秦翼明らとともに甲を巻いて疾く趨り、ひそかに重慶を度って南坪関に営し、賊の帰路を扼した。兵を遣わして夜に両河を襲ってその船を焼き、賊が舟を汎かべて東下するのを阻んだ。自ら大兵を率いて江沿いに上り、水陸ともに進んだ。また兵一千を留めて多く旗幟を張って忠州などの地方を護り守らせ、犄角の勢いとし、夔州に文を移して兵を設けて瞿塘を防がせ、上下の声援とした。

天啟元年十月〜二年正月(成都の攻防)

  • 十月、賊が成都に逼った。当時、瀘州・叙州の諸郡邑は瓦解し、柙木・竜泉の諸隘口はみな失われた。賊は勢いに乗じて成都に向かった。指揮の冉世洪・雷安世・瞿英・周邦太・張愷が衆を帥いて拒んだ。周邦太はまず資陽に至って賊に遇い、戦わずして降った。冉世洪らが九泉に至ると、賊は兵を山上に駐めて高きに拠り下に臨み、衆寡は敵せず、我が兵は陣に陥って世洪・安世・瞿英はみな死に、張愷は走って免れた。
  • 賊の兵は進んで城下に迫り、旌を懸けて号を僭し、四面から挟み攻めた。城内にはわずかに鎮遠営の七百人と、調え到った松潘・茂州・竜安の兵一千五百余人があるのみ。御史の薛敷政、左布政使の朱燮元が陴に登って守った。初め朱燮元はまさに輯瑞をもって道に就こうとしていたが、蜀王が国門に出、百姓とともに遮り留めたので、朱燮元は慷慨して自ら誓った。
  • 賊が城に迫ると、朱燮元は土司の坤汝常に賊を乗り越えさせ、指揮の常恭らに火砲で助けさせた。賊はやや却き、賊の先鋒一人を斬った。翌日、賊数千人が革を障とし竹の牌を裹んで進んだので、矢石が近づけなかった。朱燮元は七星砲・火箭・火磚を架けて衝撃するよう命じ、数百人を殺した。暮れに至って賊は鉤梯数千を擁して城に攀じ登ろうとしたが、朱燮元は士卒を戒めて、ただ砲を放ち石を礌して騒がぬようにさせた。明け方、賊の屍は積み重なって城下に陵をなした。
  • 当時は冬で濠の水が涸れていた。賊は民を降して篾で薪を束ねさせ、濠に土を載せて塁を山のように築き、上に蓬蓽を架けて形は行く屋のようにし、それで銃石を避け、弩を伏せて城中に仰ぎ射た。城中は簾を垂れて矢石を蔽った。朱燮元は夜に壮士を城から縋らせ、芻を持って膏を塗り、守る者を殺して火を放った。火が挙がって山は隤れ、賊は大いに阻まれた。朱燮元はまた人を遣わして都江堰の水を決して濠に至らせ、濠が満ちると賊は橋を治めてようやく少し息をつけた。そこで城中で賊と通じた者二百人を緝獲し、その首を陴の上に懸けた。
  • 賊はまた城の四面に望楼を立て、高さは城と等しかった。朱燮元は「賊が瞭望を設けた以上、必ず四方に出て剽掠して中は虚しい」と言い、そこで死士五百人に突き出て撃たせた。賊は果たして備えがなく、その三将を斬り、楼を焼いて還った。
  • このとき諸道の援兵が相次いで至った。十二月二十四日に安岳県を復し、二十八日に楽至県を復し、倒流鎮・石橋・永清舗で賊と戦っていずれも斬獲があった。各路の兵はあるいは転戦して城下に至り、あるいは潰え敗れて去った。秦良玉の兵三千もまた至った。しかし賊の兵もまた日ごとに増えて退く意がなかった。
  • 賊が城を囲むこと八十余日、年もまさに尽きようとして、城中の人は伏臘に祭らず、正月に賀さなかった。賊は城外で日ごとに諸人の塚墓を発き、城上から望み見てみな泣いた。折しも俘となった民で脱れ帰る者があり、「賊は旦夕に旱船をもって一決しようとしている」と言った。
  • 二年春正月、賊数千が林の中から大いに噪いで出た。見ると舟のような物があり、高さ一丈ばかり、長さ五百尺、楼は数重、簟の茀が左右にあり、板は平地のようであった。一人が髪を披いて剣を仗いて上に立ち、羽の旗を載せ、中には数百人がそれぞれ機弩と毒矢を挟み、牛数百頭が石の轂を運んで行き、傍らに雲楼二つを翼のごとく左右に広げた。俯して城中を視ると、老幼・婦女はみな哭いた。
  • 朱燮元は「これは呂公車である。破るには駁石でなければならぬ」と言った。駁石とは、巨木を杆と柱とし、軸を柱の間に置いて索を転じて杆を運び、千鈞の石を弾丸のごとく飛ばして撃つものである。賊の舟は近づけなかった。朱燮元はさらに敢死の士を募って大砲で牛を撃たせ、その軛に当たる者に中てると、牛は駭いて返り走った。勢いに乗じて縦え撃って破った。しかし城中もまた力は竭きた。
  • 禆将の劉養鯤が「諸生の范祖文・鄒尉が賊中に陥っており、孔之譚を遣わして賊将の羅乾象を約させたい。羅乾象は自ら抜け出て効用したいと申しております」と言った。朱燮元はただちに孔之譚を再び行かせた。至ると羅乾象とともに来た。朱燮元はちょうど戍楼に臥していたが、呼んでともに飲んだ。羅乾象は甲を内に着け刀を佩びていたが、朱燮元は疑わず、榻に就いて呼んでともに臥し、酣寝して朝に達した。羅乾象は感激して死をもって報いることを誓い、許して縋って出させた。後に賊営の挙動は繊悉として知らぬことがなかった。羅乾象の力である。
  • 数日を踰えて、また牙将の周斯盛に詐って降らせ、その来ることを質して伏を設けて待った。奢崇明は果たして自ら至った。だが一人を懸け上げたところで松潘の守兵が知らずに大いに噪いだ。奢崇明は走り、伏兵が起こってその従騎数人を獲たが、奢崇明は跳んで身を免れた。そこで遠く遁れることを謀った。
  • 朱燮元は偵り知って水牌数百面を造って錦江に投じて流れに順って下し、有司に舟を沈め筏を斬り橋梁を断って兵を厳しくして待たせた。賊は夜半に果たして逸れた。羅乾象らが内から変じ、賊営の四面から火が起こった。奢崇明父子は営を抜いて走り、羅乾象らはみな来帰した。成都の囲みはおよそ百二日で解けた。賊は瀘を渡って重慶に帰った。事が聞こえて朱燮元を巡撫とした。

天啟二年三月〜七月(重慶の奪還)

  • 三月、羅乾象が江安を復した。四月、官兵が新都を復した。初め奢の賊は新都に拠って城を繕い粟を積んで守る計とし、安岳を克って保寧を攻め、「まっすぐ潼関を取る」と声言したので人心は震動した。安綿副使の劉芬謙、湖広監軍の楊述程が兵を合わせて攻めた。兵が牛頭鎮に至ると、賊は騎数千・歩一万人で援けに来た。秦良玉・譚大孝らが挟み撃って破り、そこで新都を復した。賊は退いて蘭州に入った。
  • 遵義府を復した。当時、湄潭の叛民の王倫が賊を引いて焼き掠めた。湄潭は川・貴の険要である。都司の陳一竜が追って水西の境に至って降させた。諸軍は進んで遵義に駐まった。当時、ただ重慶だけがなお賊の巣であった。
  • 五月、諸軍が進んで重慶に逼った。初め奢崇明父子は瀘汭に拠って樊竜を声援と恃んだ。樊竜が重慶に盤踞してすでに九か月。重慶は古の渝州の地で、三面が江に臨み、春の水が泛れ漲れば一望瀰漫として渡れず、出入の必ず経る要道はただ仏図関から二郎関に至る一路のみ。賊は通遠門の城濠から二郎関まで営を連ねること十七、精兵数万を宿らせた。
  • 監軍副使の丘志充・楊述程、総兵の杜文煥が兵を帥いて進攻し、再び戦ってほとんどその塁に入るところだった。翌日、杜文煥が参将の楊克順らを帥いてまっすぐ賊営に抵り、石砫宣撫官の秦民屏が部兵を率いてその後ろに繞り出た。賊は驚き敗れ、そこで続けざまに仏図・二郎の二関を復し、賊三千余人を殺した。屍を積んで深い溝は両岸ともに平らになった。勝ちに乗じて進んで重慶に逼り、二十七日に計って賊首の樊竜・張彤・何若海ら三十一人を擒にして克った。
  • 六月、川の師が瀘州を復した。七月、遵義がまた陥ちた。

天啟二年七月(安邦彦の反乱と貴陽の包囲)

  • 貴州水西の土目の安邦彦が叛いた。安邦彦は安堯臣の別枝である。安堯臣は隴姓を冒して隴の地を併せ、撫を受けて兄の彊臣の世職を襲うことを得た。堯臣が死ぬと、妻の奢社輝、子の安位は幼く、安邦彦がこれを挟んで反した。当時、四十八馬頭と頭目の安邦俊・魯連・安若山・陳其愚・陳万典らが蜂のごとく起って和した。
  • 都司の楊明廷は三千人で畢節で敗れて没し、参将の尹啓易らは烏撒から霑益に奔り回った。炎方・松林はみな守れず、平彝衛もまた賊党の李賢に破られた。賊が普安・安南を囲むと、雲南都司の李天常が兵四千を帥いて救ったが、賊将の羅応奎が偽って降って畳水舗に誘い、伏が発して全軍が没した。そこで交水・曲靖・武定・尋甸・嵩明の間は騒然として兵に苦しんだ。
  • 賊は王倫・石勝俸を分け遣わして甕安を下し偏沅を襲って我が軍を断たせた。王倫らは楊応竜の余孽である。洪辺土司の宋万化が苗・仲・九股を糾して竜里に拠った。安邦彦は自ら蜀の賊と苗・仲の数万を統べて進んで貴州を囲んだ。二月九日から城下に迫り、雲梯を造り滾廂を製し墩台を築き、百計をもって城を攻めた。撫臣の李橒、按臣の史永安が力を悉くして禦いだ。
  • 賊は山に沿って営し、四面に路を伏せて把截し、城中の出入を断ち、環城の墳墓をことごとく掘り、殺掠は甚だ惨たらしく、木柵を置き戸牆を塁いて、鳥雀も飛び渡れなかった。鎮将の張彦芳が兵二万を将いて援けに赴いたが、竜里に隔てられて進めなかった。
  • 貴州総兵の楊愈懋、推官の郭象儀が賊と江門・白杵営で戦って死んだ。
  • 安邦彦が烏撒衛を破り、指揮の管良相が死んだ。先に水西がまだ叛かなかったとき、管良相は李橒に「奢氏が反せば安氏は必ず継ぎましょう。黔中に兵も餉もなく、猝然と変があればどう計るのですか。兵一万人を招き二年の穀を積み、許成名にこれを将いさせて、その変を観るべきです」と言ったが、李橒は力の及ばぬところとした。
  • 後に管良相は祖母の病により暇を乞うて去るとき、泣いて言った。「烏撒は孤城で、しかも安効良に隣しています。良相は水西を仇としております。難があれば禍いは必ず真っ先に及びましょう。良相は隻身で子がありません。死をもって国に報いたい。願わくは長策を図ってこの一方を保たれよ」。李橒もまた泣いた。管良相が去って一月で難が起こり、烏撒は真っ先に賊に破られ、管良相は自縊して死んだ。
  • 巡撫都御史の王三善が兵を進めて平越に至った。当時、平越所の陳兵はわずか一万余人。副総兵の徐時逢と参将の范仲仁が相容れず、范仲仁が先に進んで甕城河で賊に遇って戦い利あらず、徐時逢は兵を擁して救わなかった。そこで大敗し、諸将の馬一竜・白自強らが殲された。各処の声援はみな絶えた。
  • 貴陽の囲みはいよいよ困窮した。城の東隅に城と斉しい山岡があり、賊がその上に踞して廂楼を作った。官兵が計って焼き、火は三昼夜絶えなかった。城中の糧は久しく乏しく、将士は病んで戦えなかった。巡按の史永安が疏を上って王三善を詆り、大声で疾呼した。
  • 十一月、王三善は大いに将士を会して議した。「省城は待てぬ。外援は至らぬ。我ら輩は法に死ぬも敵に死ぬも同じ死である。なお何を俟とうか」。道臣の何天麟に兵七千を督させて清水江から進ませて右部とし、道臣の楊世賞に兵一万を督させて都匀から進ませて左部とし、王三善は自ら二万を将いて道臣の向日升と中路から進んで賊の鋒に当たった。
  • 十二月、新添に抵り、枚を銜んで疾走した。二日に母猪洞に進み、三日に新安に次した。この夜、賊の報が至って営中は驚き擾れ、退兵を議した。王三善は「退けば虀粉となる。死をもってこれを捍ぐ」と言い、兵を按じて動かず、ついに賊はなかった。
  • 四日、劉超を前部として竜頭営に抵り、王三善は身をもってその後に尾き、相い去ること二里に満たなかった。銃声を聞いて衆は股慄して止まろうとした。王三善は「前駆が賊に当たっている。必ず退く者はない。私が後勁となろう」と言い、そこで馬を策って前進した。一里も行かぬうちに劉超の捷音が至った。劉超の兵は遇って先に却いたが、劉超は馬を下りて二人を斬り、刀を持って賊の一標を断った。賊の首の阿成は驍勇で戦に長けていたが、劉超と部兵の張良俊がまっすぐ前に出てその首を斬り、賊はそこで披靡した。折しも大兵が至って大呼して斉しく進み、竜里を奪った。
  • 賊衆がまた大いに集まって大戦し、これを却けた。五日、竜里城に住した。衆は「省会を去ること遠くない。賊は必ず重兵で堵り截ろう。少しく休息すべきだ」と議した。王三善は「我が兵はにわかに至って賊は備えがない。持久はできぬ。急ぎ撃って失うな」と言った。
  • 六日、そこで馬を策って先に進み、衆は随った。賊の覘者もまた新撫が自ら将いていると知り、意うに数十万の兵が至ったかと相顧みて駭き愕いた。安邦彦はその衆を紿かして「私は兵を増して助けに来る」と言ってそのまま遁れ去った。賊は相率いて退いて竜洞に屯した。我が師は高寨・七里沖を奪い、勝ちに乗じて畢節舗に進兵した。賊の歩騎は雲のごとく、孫元謨が製した木発貢七門を斉しく発すると賊の死者は数知れなかった。楊明楷が烏羅の兵を率いて牆のごとく進み、賊は大敗して、その渠の安邦俊は銃に中って死に、輜重と器械は山のように棄てられた。
  • そこで勝ちに乗じて会城に抵った。撫臣の李橒、按臣の史永安、学臣の劉玄錫が死守すること十か月近く、旦夕に城がまさに陥ちようとしていた。にわかに賊兵が蟻のごとく奔り潰えるのを見、喊声が雷のごとく震えた。しばらくして五騎が鋒に衝んで城下に至り「新撫が至られた」と告げた。軍民は大いに悦んで更生を慶した。
  • このとき王三善は将卒とともに氈を披て単騎で矢石を冒し、二万人で賊十万を破った。李橒らが迎え入れると、王三善は「賊兵は遠くない。軍心はまだ定まらぬ。私は大帥である。ただちに安んずべきでない」と言い、そこで南門外の坂の上に営した。大雪となり、翌日、営を宅渓に移した。賊は聞いて陸広河の外に遠く遁れた。
  • 王三善は使いを遣わして奢社輝母子に安邦彦を縛って降るよう諭したが返答はなかった。数日を越えて左右の両部の兵が至り、さらに十日して楚・粤・蜀の兵もまた至った。王三善はその後期を怒り、かつ食の乏しきを憂えて謝し遣わそうとしたが、将校はみな「数千里を援けに赴いたのです。却けるべきではありません」と言った。王三善は衆が多く倉儲が空虚なので敵に因糧しようと考え、また諸軍が賊を軽く視すぎるのを憂えた。
  • 十二月三十日、前鋒の楊明楷が兵を率いて河を渡り、三十里の外に営を札てた。一軍は陸広に屯して大方の奢社輝に向かい、一は鴨池に屯して安邦彦の巣穴に向かった。

天啟三年(1623年)(陸広の敗と諸方の戦い)

  • 春正月、賊はさらに藺の賊と雲南の安効良らを糾合して衆数万を帥い、力を併せて陸広を攻めた。楊明楷が勇を奮って接戦したが、蒙の兵が先に潰え、衆はそこで乱れ、水に溺れ死ぬ者は数千。楊明楷は賊中に陥った。賊は勝ちに乗じて鴨池に赴き、我が兵は退いて威清に屯した。王三善は兵を収めて入城した。土司・苗仲は我が軍の利あらぬを見て再び劫掠を肆にし、竜里から甕城まで屍は横たわること四十余里に及んだ。
  • 夏四月、川の師が遵義を復した。当時、賊首の尤朝柄・楊維新・鄭応顕が遵義に拠っていた。副将の秦衍祚・侯良柱が兵二千を督して攻め、九接灘に誘い戦って銃でその渠の㷵賽を斃し、さらに南城外の羅鋼渡で賊を追い破って克った。
  • 賊の安鑾が妻子と部衆を帥いて降った。安鑾は奢寅の右腕である。監軍道の趙邦清がひそかに賊党の了相・喩文富を遣わして招き、安鑾は心を動かしたが、妾の石氏と子の安在嵩が符国禎の営にいたので敢えて発しなかった。十四日、官兵が羅付の大河口に抵って奢寅を撃って破った。安鑾は奢寅の敗れるのを見て、そこで密かに副総兵の侯良柱と約して兵を助けて妻子を挟み取ろうとした。侯良柱は羅安良を分け遣わして陶公灘に進ませて賊を牽き、自ら親兵七百人を帥い、安鑾の部兵とともに夜に三寨を経て賊の巣に抵り、銃砲は天を震わせた。賊は倉卒で我が兵の多少を知らず、符国禎は先に走った。安鑾は妻子および部兵数千を率いて自ら抜けて来帰した。
  • 川の師が永寧を復した。先に川撫の朱燮元が衆を会して「我が久しく賊に志を得ぬのは、我が分かれて賊が合しているからだ」と議した。そこで納渓に営を列ねて陽に進取するふりをし、陰かに大兵に長寧で会させ、まず麻唐坎・観音菴・青山厓・天蓬洞などを攻めた。霧に乗じて険を奪って入り、石砫の兵と会して進んで永寧を攻めた。土地坎で賊に遇い、奢寅が自ら兵を率いて搏戦したが、我が兵は勇を奮って撃ち破り、老君営・涼傘舗まで追ってことごとく賊営を焼いた。奢寅は身に二鎗を被り、樊虎も創で死んだ。さらに横山・八甲・青崗坪などで賊を破り、まっすぐ城下に抵って一鼓して抜いた。周邦泰らを生け捕り、降った賊は二万、城を踰えて水に溺れ死んだ者は数知れなかった。奢崇明父子は江岸の上に営を列ね、官兵は水を隔てて塁し、降る者は日ごとに至った。賊はまた遁れた。
  • 安邦彦は我が兵が潰えたと知って苗仲を扇ぎ誘い、逆党の宋万化らを糾合して再び貴州を犯そうとした。その党の何中尉に竜里に拠らせ、李阿二に四十八荘の兵を督させて青巌を囲んで我が糧道を断ち、宋万化に洪辺の兵を督させて苗仲を左翼とし、呉楚漢が八姑蕩・平八荘を結んで苗仲を右翼とし、自ら水西の兵を統べて、ともに会城を犯すと約した。
  • 王三善は遊撃の祁継祖を遣わして盧吉兆・左世選の兵を統べて竜里を下し、一鼓して蓮花堡を破り、続けて上・中・下の三牌の賊寨百五十処を焼いた。何中尉は敗れて深い箐に逃げ、竜里の路が通じた。参将の王建中・劉志敏・宋迪・屈朝先らを遣わして青巌を救い、首三百余級を斬った。王元佐らの兵が続いて進み、賊寨の四十八荘を焼いた。李阿二は神鎗に中って水西に逃げ帰り、定番の路が通じた。
  • 諜報に「賊はまさに八姑蕩・洪辺の二路の兵を糾して会城を進犯しようとしている」とあった。王三善は夜に王建中・祁継祖らの兵一万五千を遣わして八姑蕩を進み勦めさせ、生寨二百余処を焼き、首五百級を斬り、窮追して河を渡らせ、溺死する者は数知れず、その積聚数万を焼いた。賊の糧は絶えて謀はついに寝んだ。
  • 宋万化が人を遣わして詐って降り動静を覘った。王三善は佯って許し、監軍の楊世賞を調えて劉志敏・祁継祖らを督して甲を巻いて赴かせた。賊は倉皇として出戦し、そこで擒にされた。併せてその妻子および偽軍師の劉洪祖らも擒にされた。宋万化は驍勇で戦に長け、安邦彦が倚っていたが、このとき気を奪われた。
  • 四路がすでに通じ、秦民屏の兵が平越に至って再び還って竜里を守った。諸苗の叛いた者は相次いで降った。王三善は黄旗を給してそれぞれ寨中に竪てさせた。安邦彦は望み見て敢えて再び出ず、ただ鴨池・陸広の諸要路に坑塹を掘り、水西を修補して兵を屯して自守の計とした。
  • 五月、川の兵が永寧を発して進んで奢崇明を追い、続けて紅崖・天台の二寨を克った。賊数千人が迎え降り、そこで紅潦の四十八砦を安撫した。当時、総兵の盧世卿が偽御史の汪沢遠、偽参謀の文道南を禽にし、副将の秦翼明が偽監軍の夏奇雲、偽給事中の孔聞過らを禽にし、併せて偽印十余、鎧仗を山のごとく獲た。
  • また安の兵の田進忠を獲た。その言うところ、「奢の賊は計が窮して美女と黄金を水西に降し、安邦彦に兵を借りた。安邦彦は兵十六、七営を遣わし、すでに河を過ぎて獅子山に到った。目把の曽仲英が兵六営を領してなお赤水河に駐まっている。兵を分けて、一は鎮雄から兵三営で永寧の後に乗じ、一は普安から新寨に入って永寧の前を攻めようと謀っている」と。
  • 十三日、羅乾象が兵を督して藺州を破り、その九鳳楼を焼いてその巣を掃った。奢の賊は狼狽して走った。
  • 雲南六佐県の営長の安応竜が霑益の賊首の補鮓と合して乱を為し羅平を囲んだ。巡撫の閔学が羅平を攻めて克ち、兵を移してその巣を覆し、その妻子を俘にした。安応竜は普安に逃げ、さらに烏撒に入った。やがて安効良が降を乞うと、補鮓・安応竜を縛るよう責めて誘い、安効良は安応竜を縛って献じた。
  • 水西と藺の賊が兵を合わせて遵義・永寧を窺った。当時、藺の賊の奢崇明・奢寅は戦ってしばしば敗れ、窮蹙して水西に投じた。安邦彦はさらに兵を助けて謀を合わせ、一は遵義を窺い一は永寧を窺った。官兵は長寧・納渓の両路を合わせて芝麻塘でこれを破り、賊は青山に遁れ入った。
  • 六月、貴州総兵の魯欽らが三路から進兵して直ちに賊の巣に入り、土司の何中尉らを擒にし、進んで紅崖に営した。紅崖とは天台・水脚・婁石・牛酸・草などの七囤で、もとより天険と称され、官兵が至ったことはなかった。総兵の張彦芳が羊耳で賊を撃ってやはり破り、鴨池河まで追ってその戦象を奪い、首二百七十余を斬った。
  • 七月、大兵が戦い勝って大埧・洪紅・鳥岡に深入りした。賊が借りた鳥芸などの部の苗は風を望んで奔り潰えた。王三善は轡を按じて直ちに大方に入り、降る者は千を数えた。田景猷・劉志敏・楊明楷らを救い出した。奢社輝と安位は大方の老巣を焼いて火灼堡に竄れ、安邦彦は織金に逃げ入った。
  • 川の兵が竜場に入り、陣で奢崇明の妻の安氏および奢崇輝・蔡金貴・李廷・王承恩・張尚極らを獲た。
  • 安位母子が漢把の劉光祚を鎮遠に遣わして降を乞い、総督の楊述中が許して、賊党の袁紹らに状を授けて奢寅父子を擒にして自ら贖うよう命じ、遣わして巣に回らせた。袁紹らは省に至って羈留され、まだ発たぬうちに、撫按の会議もまた安位母子に期限を勒して安邦彦・奢寅を縛って解し、その後に旨を請うて罪を治めるとした。
  • おおむね王三善は元凶がまだ窮まらぬので勦をもって撫と為すべきだとし、楊述中は一意に撫を主どったので、議はついに合わなかった。王三善が大方に駐まること日久しく、安邦彦は日夜、兵を聚めて自らを益し、その党の陳其愚に詐って降らせた。陳其愚は目把の中の大猾である。王三善は軽々しく信じて多く軍務に参贊させた。これによって安邦彦は繊悉ことごとく知った。

天啟四年〜六年(1624〜1626年)(王三善の戦死と戦局の膠着)

  • 四年春正月、王三善が大方から貴州に還り、陳其愚が相次いで随行した。にわかに「陳其愚が山の後で賊に遇った」と伝えられ、王三善は馬を勒して回り視た。陳其愚はことさら轡を縦して衝き、王三善は地に墜ちた。王三善は変あると知り、将帥の印を家人に付して護持して先に去るよう囑し、ただちに襪の中の小刀を抽いて自ら頸を刎ねた。頸の皮はすでに破れたが、陳其愚が馬を下りてその刀を奪った。玀鬼の諸苗が蜂のごとく擁して至り、王三善は賊を罵って屈せず、賊はその首を割って去った。副将の秦民屏もまた死んだ。秦佐明・秦祚明は囲みを突いて出た。賊の勢いはまた張った。
  • 事が聞こえて総督の楊述中は本籍に回って勘を聴かせた。やがて監軍御史の傅宗竜が陳其愚を獲て誅した。陳其愚は狡凶で計が多く、安邦彦が耳目と倚っていたが、このとき誅に伏した。
  • 秋七月、総理の魯欽・劉超が巌頭寨を克って平茶を破り、勝ちに乗じて深入りして織金に至ったが敗績した。
  • 五年春、雲南巡撫の閔洪学が霑益を復した。水西・藺・烏撒・霑益の三逆が兵数万を合わせて霑益を窺い、敗走させた。
  • 四川烏撒の土目の安効良は水西の賊の安邦彦の肺腑の親で、その順逆はただ水西を視てのことであった。水西と藺が相次いで叛くと、滇撫の閔洪学は兵力が続かぬので羈縻して賊を擒にして自ら贖うよう命じた。安効良もまた恭順を装って安応竜を擒にして献じたが、遣わした献功の人が文を領して還る途中で劫められた。安効良はまた黔の師が陸広に出、滇の師が霑益に入って、隠然として背を撫し吭を扼する勢いがあるのを見た。水西と烏撒はいよいよ虎に騎る形となった。
  • このとき黔を截った余焰に乗じて南に向かって滇に入り、藺・水西・烏撒・霑益・安南の諸部三十九営を合わせてまっすぐ霑益に抵った。衆は我が十倍。副総兵の袁善、宣撫使の沙源らが将士を督率して勇を奮って血戦し、城下に対塁すること五日五夜、しばしば奇兵を出して破り走らせた。
  • 六年春、水西の苗老虎・阿引らが賊酋の奢寅を殺して降ってきた。苗老虎は奢寅に随い侍って年あり、巴乃に着いて奢寅の騎馬を引いた。卒の李老松は奢寅に茶を看た卒で、奢寅とともに聶舌埧の上に居った。奢寅の妻は箐林の山上にあり、相い去ること二、三里。奢崇明は克仲埧に居り、相い距たること三百余里。奢寅の子の阿甫は年七歳、一女は芒部に嫁していた。
  • 当時、水西は二月に三路から兵を興すことを約し、一は雲南を攻め、一は遵義を攻め、奢寅は専ら永寧を攻めることとした。奢寅はもとより性が兇淫で、附き過ぎた彝人の妻女で姿色ある者は強姦し、財に富む者はその鏹を勒索し、遂げねばたちまち殺した。これによって部下の多くは鎮雄・芒部に往って生を逃れた。
  • その麾下の阿引らはもとかつて撫臣の朱燮元の金銭を受けて奢寅を図るよう命ぜられ、総兵の李維新と血をすすって密かに事を挙げることを謀っていた。奢寅は微かに覚って阿引を縛って拷掠し、利刃でその左足を穿つこと一昼夜。阿引は死に至るまで承知しなかったので釈した。阿引はそこで苗老虎・李明山らを勾い合わせて謀を同じくした。
  • 折しも奢寅が部下と痛飲し酣歌して牀に登って寝た。苗老虎は佯って奢寅に絮を蓋いつつ、奢寅が寝てまさに鼾をかいているのを見て刀を持ってその胸を砍った。奢寅が大呼すると李明山がさらに助け砍って身は死に腸が出た。李明山の刀は折れた。偽総兵らが闌れ入ると苗老虎は走り、まっすぐ箐の中に往って奢寅の妻を擒にしようとしたが、妻はすでに変を聞いて逃げていた。賊党が苗老虎らを追うこと甚だ急で、一碗水に至って官兵に遇い、そこで降った。
  • 二月、安邦彦が衆数万を率いて江を渡り、我が兵と大いに戦うこと数日。総理の魯欽が力めて禦いだが、暮れに至って賊兵はいよいよ衆く、我が兵は数か月の無餉によって夜に乗じてみな潰えた。魯欽は自ら剄して死んだ。賊は麻姑・孫官堡を焼き劫め、苗仲がまた逆を助け、貴州の三十里の外は樵蘇も行われず、城中は大いに震えた。
  • 巡撫の王瑊、巡按の傅宗竜がまず王国禎らを遣わして河沙壩を攻め、玀鬼をことごとく俘にした。広順・定番・青巌・白納一帯の苗蛮はこれがために気を奪われた。続いて張雲鵬を遣わして趙官堡で安邦彦を逆え、小戦二日、大戦二日、殺傷した者は甚だ多く、水内・水外の賊は奔り走って潰え帰り、道路はまた通じた。
  • 総督の朱燮元が父の喪により帰り、偏沅巡撫の閔夢得に総督を加えて、中から調度して五省を控制させた。
  • 夏、黔の兵が匀哈・長田一帯の諸苗を攻めた。黔中は四面が苗仲だが、最も狡悍なのは匀哈に及ぶものがなかった。安邦彦が初め叛いて竜里・新添を囲んだのもみなその衆に籍った。このときしばしば出没して清平・新添の地方を劫掠し、餉道が梗となった。平越知府が都司の張雲鵬と会同して兵を率いて擺沙の大寨を攻めた。擺沙は寨の中に居り、平越を距たること百余里。夜に乗じて間道から掩襲して破った。賊は箐に遁れ入ったが、その中の米は山のように積まれていた。翌日、百里の大山を捜し、営を牛場箐に移した。保文鸞が甕岳などの寨を攻め、さらに都匀城の西南を攻めた。仲賊の八路が兵を会して箐に入り、それぞれ斬獲があった。さらに江時・戸西・高平・養古など数十寨を攻め、首二千余級を斬り、二百余里を掃蕩した。
  • 七年、参将の楊明輝が命を奉じて安位に宣諭し、首悪を擒にして献ずるよう命じたが、安邦彦に殺された。

愍帝崇禎元年〜二年(1628〜1629年)(朱燮元の再起用と平定)

  • 崇禎元年秋九月、詔して朱燮元を起こし、なお貴州・湖広・雲南・四川・広西の五省の軍務を総督させた。
  • 二年夏六月、初め大方は東に播を倚り北に藺を倚って相い犄角をなしていた。後に播・藺がすでに平らぐと、賊はただ烏撒を援けと恃み、畢節が四裔の交通する処であった。
  • 先に王三善は貴陽から陸広を経て大方に入った。陸広から大方まで百七十里はみな玀鬼の巣窟で、前からは我を衝き、後ろからは我を包み、左右からは我を衝き撃てる。王三善はついに地の利を失って陥った。
  • 天啓年間、朱燮元は建議して、滇の兵を霑益に出して安効良の応援を遏め、別に天生橋・尋甸などに布いてその蜀に走る路を絶ち、蜀の兵を畢節に臨ませてその四裔に交通する路を扼し、別に竜場の巌の後に出してその険を奪い、黔の兵を普定から思臘河を渡して径ちに安邦彦の巣に趨らせ、陸広・鴨池でその虚を衝き、粤西は泗城に出て兵を分けて策応させ、その後に大軍を帥いて遵義から鼓を鳴らして前進すべきだとした。まもなく憂によって去り、用いられなかった。
  • 総督の閔夢得が継いで、やはり「貴州から大方に抵る路は険しく、賊はただ畢節の一路を恃んで外に通じている。用兵は永寧から始めるべきだ。永寧から普市、摩泥、赤水まで百五十里はみな坦途で、赤水には城郭があって憑んで守れる。ここに営を結び、次第に進んで次第に逼るべきだ。四十里で白巌、六十里で層台、さらに六十里で畢節。畢節から大方まで六十里に満たない。賊は必ず力を併せて禦ぎに来るから、重兵で扼してその四走の路を断ち、その後に遵義・貴陽が期を刻んで並び進むべきだ」とした。やはり果たされなかった。
  • このとき朱燮元が再び黔に涖んだ。そこで滇の兵を激して烏撒を下し、蜀の兵を永寧・畢節に出して各路の要害を扼させ、自ら大軍を帥いて陸広に駐まって大方に逼った。
  • 八月、奢崇明は「大梁王」と号し、安邦彦は「四裔大長老」と号し、歹費・小阿烏・継阿鮮怯らがそれぞれ元帥と号して、力を悉くして永寧に趨り、まず赤水を犯した。諜がこれを知り、朱燮元は守将の許成名に意を授けて佯って北げて賊を深く誘い入れさせた。賊がすでに永寧に抵ったと度って、林兆鼎を三坌から、王国禎を陸広から、劉養鯤を遵義から分け遣わして入らせた。安邦彦は兵を分けて四方に応じたが力が支えられず、羅乾象がさらに奇兵でその背に繞り出て急ぎ撃った。賊は大いに驚いて潰え、奢崇明・安邦彦らはみな創を被り、漢の兵がその首を斬って献じた。
  • 朱燮元は兵を窮めることを欲せず、そこで安位に檄を移してその罪を赦し帰附を許した。しかし安位は豎子で自ら決しえず、その群下がさらに潰兵を合わせて我に拒むことを謀った。
  • 朱燮元はそこで大いに諸将を会して言った。「水西は山険が多く、叢箐と篁竹、蛮の烟と僰の雨で昼夜も弁じがたい。深入りすれば出がたく、これによって多く敗れた。諸君とともにその要害を扼し、四面から迭いに攻め、次第に蕩き除いて賊に糧を乏しくさせれば自ら斃れよう」。そこで蒙翳を焼き、巌穴を剔り、渓流を截ち、勁卒を発して百余里を馳騁させ、あるいは樵牧を斬り、あるいは積聚を焼き、暮れに還って屯に帰らせた。賊はいよいよ測りえなかった。およそ百余日、得た首功は一万余級、生口は数万。嚮導を得るたびに窖の粟を発いて食に就き、賊は甚だ飢えた。
  • 劉養鯤がその客を大方に入らせて宮室を焼き、榜を懸けて出た。安位は大いに恐れて降を乞うた。四事を約した。一に爵を貶すること、一に水外の六目の地を削って朝廷に帰すこと、一に王巡撫を殺した者の首を献ずること、一に畢節などの駅路を開くこと。安位はみな命を受け、そこで土目を率いて款を納れた。朱燮元が奏請すると詔して許された。
  • そこで便宜の九事を条陳した。郡県を設けず、軍衛を置かず、その俗を易えず、土人と漢人が相い安んずる。便その一。地はいよいよ墾き闢かれ聚落は日ごとに繁く、経界がすでに正されれば土目は民が耕さぬのに乗じて地を侵し軼れることができぬ。便その二。黔の地は瘠せて外に仰ぎ給していたが、いま自らその土に食んで転輸の労を省ける。便その三。国用がまさに匱しく、太府の金幣を出して諸将を労うのが足りぬなら爵で酬いる。爵の軽きは地に如かず、国に損なうところがない。便その四。すでに世々その土を許してそれぞれ自ら家を立て、久遠を経て永く折衝と為る。便その五。大小が相い維ぎ軽重が相い制し、事なければ安んじやすく、事あれば定まりやすい。便その六。農を訓え兵を治め、武を河上に耀かして賊に日々我に備えさせる。便その七。兵民の便に従って耕すことを願う者に給し、且つ耕し且つ戍らせれば、衛所は自ら実って勾軍の累がない。便その八。軍は耕して餉に抵て、民は耕して糧を輸す。屯をもって耕を課し、その籍に拘らず、耕をもって人を聚め、その伍を世々にせず、それぞれその業を楽しませる。便その九。上はその奏を可とした。

崇禎九年〜十年(1636〜1637年)(水西の善後策)

  • 九年、朱燮元が兵を遣わして擺金・両江・巴香・狼壩・火烘の五洞の叛苗を誅し、ことごとく平らげた。水西の勢いはいよいよ孤となった。また上下の六衛および清平・偏橋・鎮遠の四衛の道路、およそ一千六百余里を通じ、亭障を設け游徼を置いて往来に便じた。滇中の沐氏の土舎の普名声が乱を為すと、朱燮元は命を奉じて兵を移して討ち平らげ、普名声は誅に伏した。
  • 十年、水西の安位が死んで嗣がなく、族属が立位を争った。朝議はその弊に乗じて郡県にしようとしたが、朱燮元が書を上って諫めたのでやめた。
  • 朱燮元はそこで土目に檄を伝えて威徳を諭した。諸部は争って土を納め重器を献じた。朱燮元は将吏を召して議し、「衆く土司を建ててその勢いを少なくし力を分かてば制しやすい。それぞれ土地を保って子孫に伝えようとすれば敢えて逆を為すまい」と考えた。
  • そこで上奏した。臣が按ずるに、西南の境はみな荒服であります。楊氏は播に反し、奢氏は藺に反し、安氏は水西に反しました。ところが滇の定番は弾丸の小州でありながら長官司たる者が十七あり、二、三百年、反した者があると聞きません。他の司が逆を好んで定番が忠順というのではありません。そもそも地の大きいのは跋扈の資であり、勢いの弱いのは世を保つ策であります。
  • いま臣は水西の壌を分けて諸渠長および功ある漢人に授け、みな世々守らせたい。およそその俗の虐政・苛斂は一切除き、参えて漢法を用いさせれば長久の計とできましょう、と。制して可とされ、西南はついに底定した。

史論(谷應泰曰)

  • 天啓年間、奢崇明は猓玀の種で重慶に拠り、安邦彦は水西の酋で貴州に反した。思うに苗の俗は叛服が常ならず、それがその天性である。しかも両家は唇歯と倚り合い、時に姻婭を通じた。いわゆる功を同じくし体を一にする人である。
  • ところが乱を謀った初めは奢が先で安が継ぎ、窮追の日は奢が敗れて安が亡んだ。覆轍が相い尋いで合すること符契のごとし。小醜が宗を墜としたのは、人に何を尤めよう。
  • 私が観るに、奢崇明は陰鷙で謀があり、その子の寅は亡命を招き納れて、一挙して全蜀を震動させた。剽悍で鋭く当たるものなく、安邦彦の敢えて望みうるところではあるまい。しかし安邦彦の師はなお持久に堪えたのに、奢崇明の衆はたちまち挫け衄み、往々にして水西に降り安の部に投じた。それは安の地が大きくて力が盛んだったからである。
  • 奢の酋がひそかに発したのは蜀道の一隅にとどまるが、安の酋は転戦して西は巴蜀に通じ南は滇黔を圧し、さらに烏撒・霑益・安南の諸部落を合わせて綿々と長駆し、数省を動揺させた。これを戢めなければ、まことに江楚の深い憂いであった。ゆえに恢蕩の功もまた安を平らげたのを首とし、奢を平らげたのはこれに次ぐ。
  • 奢を平らげたのは、秦良玉が夜に両河を襲い、杜文煥が仏図で塁を奪い、盧世卿が紅崖で仗を積んだ。その功は泯びない。安を平らげたのは、王三善が奮って十万を斬り、秦衍祚・侯良柱が夜に三寨を抜き、張雲鵬が八路から進兵し、許成名が三方から深入りした。その功はさらに泯びえない。
  • そして奢崇明・安邦彦は同時に陣で殲され、奢寅は淫らで横暴だったので内から相い図られた。すでに五洞の叛徭を平らげ、また清平の四衛を開き、新たに亭障を設け游徼を増置すること総じて一千六百余里。漢の楼船が十道から西して冉駹に通じたとしても、その盛んなることは及ばぬであろう。
  • しかしそのとき蹤を発き指し示して奇を出すこと窮まりなかったのは、多くは督臣の朱燮元の方略に由る。論者は成都を固守し群妖を蕩滅し安位を招降したのを朱燮元の不世出の功とするが、善後の撫綏でその地を分裂させ、南人を再び反せしめなかったのが、みな朱燮元の長算であったことを知らない。
  • 善いかな、朱燮元の疏に「いま水西の壌を分けて諸渠長および功ある漢臣に授け、みな世々守らせたい。そもそも地の大きいのは跋扈の資であり、勢いの弱いのは世を保つ策である」という。昔、主父偃は宗室に子弟を分王することを令して藩服はいよいよ削られた。それなら、衆く土司を建ててその力を少なくするのは、まことに遠きを馭する良規であろうか。