明史紀事本末国本を争う(爭國本)

万暦十年(1582年)の皇長子誕生から泰昌元年(1620年)まで、東宮冊立をめぐる神宗と廷臣の争いを扱う。鄭貴妃が皇三子を生んで進封されると、姜応麟・孫如法らが恭妃の冷遇を諫めて謫され、申時行・王錫爵ら輔臣の再三の請願も先送りされ続けた。万暦二十一年には三王並封の議が出て岳元声・李騰芳らの抗議で撤回され、「憂危竑議」「続憂危竑議」の妖書事件では戴士衡・郭正域らが連座し、皦生光が磔にされた。二十九年にようやく皇長子が皇太子に冊立されたが、出閣講学は十二年も曠しくされ、福王の就国も遅れた。神宗の崩後、鄭貴妃を皇后とする遺命は礼部尚書の孫如游が争って行われなかった。

年表(9件)

神宗萬曆十年〜十四年(1582〜1586年)(皇長子の誕生と鄭貴妃の進封)

  • 万暦十年八月丙申、皇の元子が生まれ、詔を頒って天下を赦した。
  • 十四年正月、皇の第三子が生まれ、その母の鄭氏を貴妃に進めた。
  • 二月、輔臣の申時行らが東宮の冊立を請う疏を上った。「早く太子を建てるのは宗廟を尊び社稷を重んずる所以であります。元子が誕生してからここに五年。いま麟趾・螽斯がまさに興って艾えぬときこそ、名を正し分を定めるべきであります。祖宗の朝で皇太子を立てたのは、英宗は二歳、孝宗は六歳、武宗は一歳。成憲は具に在ります。ただ陛下は今春の月吉の旦に礼部に勅を下し、早く儲位を建てて億兆の望みを慰められたい」。上は「元子は嬰弱である。二、三年を待って挙行しよう」と言った。
  • 戸科給事中の姜応麟、吏部員外の沈璟が上言した。「貴妃は賢であっても生んだのは次子であります。恭妃が元子を誕育し、鬯を主って祧を承けるのに、かえって下に居らせるのですか。成命を収め回し、まず恭妃を進め次いで貴妃に及ばれたい」。上は怒って姜応麟を広昌典史に謫し、沈璟もまた外に調えた。
  • 上は閣臣に「降し処したのは冊封のためではない。彼らが朕が長を廃して幼を立てると疑い、先んじて上意を揣り摩ったのを悪んだのだ。我が朝の立儲には自ずと成憲がある。朕がどうして私意で公論を壊せようか」と諭した。
  • 刑部主事の孫如法が上言した。「恭妃は元嗣を誕育して五年、進封の典があったとは聞きません。貴妃の鄭氏は一たび子を生むやただちに皇貴妃の封を得ました。貴妃が皇子の生まれた日に得たものを、恭妃は五年の敬奉の久しきをもって得られない。これは天下が疑わずにおれぬところであります」。上は怒って朝陽典史に謫した。御史の孫維城・楊紹程が儲位を定めるよう請い、ともに俸を奪われた。
  • 礼部侍郎の沈鯉が「恭妃の王氏も並んで封ずべきだ」と奏したが、上は「元子の冊立を待って行う」と諭した。
  • 皇貴妃の鄭氏の父の鄭承憲がその父のために恤典を請い、中宮の永年伯・王褘の例を援いた。礼部が疏して駁したが、上は墳の価五百両を与えるよう命じた。

萬曆十五年〜十八年(1587〜1590年)(建儲の再三の請願)

  • 十五年春正月、礼科都給事の王三余、御史の何倬・鍾化民・王慎徳がそれぞれ建儲を奏したが返答はなかった。輔臣が建儲と封王を請うと、旨を候って行うよう令した。
  • 十六年六月、山西道御史の陳登雲が東宮の冊立を請い、かつ鄭承憲の驕横の状を罪したが返答はなかった。
  • 十八年春正月朔、上が毓徳宮に御して輔臣の申時行・許国・王錫爵・王家屏を西室に召した。東宮の冊立は宗社の計に係るとして請うと、上は「朕は知っている。朕に嫡子はなく、長幼は自ずと定まった序がある。鄭妃もまた再三陳べ請うており、外間に疑いがあるのを恐れている。ただ長子はなお弱い。壮大になるのを待って出させたい」と言った。輔臣がさらに「皇長子は年すでに九齢。蒙を養い予め教えるのはまさに今日であります」と請うと、上は頷いた。
  • 申時行らが出ると、上はにわかに司礼監に追って止めさせ、「すでに人をやって皇子を宣して来させた。先生方と一目お会いなさい」と言った。輔臣が還って宮門内に至ってしばらくすると、皇長子と皇三子がともに至り、御榻の前に引かれた。皇長子は御榻の右にあり、上は手ずから携えて明るい方に向けてまっすぐ立たせた。輔臣らは注視すること久しく、そこで「皇長子は竜の姿、鳳の表で、岐嶷として凡ならず、仰ぎ見るに皇上の後を昌んにする仁であります」と奏した。上は欣然として「これは祖宗の徳沢、聖母の恩庇である。朕がどうして当たれよう」と言った。
  • 輔臣が「皇長子は春秋が長じました。読書させるべきです」と奏し、かつ「皇上が東宮に正位されたときは方に六齢で、すでに読書されておりました。皇長子の読書はもう晩うございます」と言った。上は「朕は五歳ですでに読書できた」と言い、さらに皇三子を指して「この児もまた五歳だが、まだ乳母を離れられぬ」と言い、そこで手ずから皇長子を膝の前に引いて撫で摩り歓び惜しんだ。輔臣は叩頭して「この美玉がありながら、なぜ早く琢磨を加えて器と成さぬのですか」と奏し、上は「朕は知っている」と言った。申時行らは叩頭して出た。
  • 十月、吏部尚書の宋纁、礼部尚書の于慎行が群臣を率いて疏を合わせて東宮の冊立を請うた。上は怒って旨を下して俸を奪った。輔臣の申時行が病と称して休を乞い、王家屏が中に居って調えると上意はやや解けた。鄭国泰の冊立を請う疏を群臣に示し、「建儲の礼は明年に立てを伝えるべきだ。群臣は重ねて奏して擾すな。もし重ねて請えば十五歳を越えさせる」と伝諭した。

萬曆十九年〜二十年(1591〜1592年)(申時行の失脚と諫臣の弾圧)

  • 十九年冬十月、閣部の大臣が疏を合わせて東宮を建てるよう請うた。先に建儲の事はすでに上旨を奉じていたので、申時行は同官と遵守してもう一年待つことを約し、諸司に接見するたびにこれを告げていた。ゆえに辛卯の歳は春から秋まで言い及ぶ者がなかった。
  • このとき工部主事の張有徳が東宮の儀仗を備えることを請うた。申時行はちょうど休暇中で、次輔の許国が「小臣でさえ建儲を請うている。我ら輩が一言もなくてよいものか」と言い、倉卒に疏を具えて首に申時行の名を列して上った。申時行はこれを聞いて大いに愕き、別に揭を具えて「臣はすでに告休中で、同官が疏に臣の名を列したのを臣は知りません」と言った。故事では閣臣の密掲はみな留中されるが、この疏は諸疏とともに発せられたので、礼科の羅大紘がそこで疏して申時行が上意に迎合して位を固くしていると論じ、武英中書の黄正賓が継いだ。上は怒って黄正賓を杖し、羅大紘の籍を削った。
  • 十二月、輔臣の王家屏が「明春に建儲して道路の揣り摩る口を塞ぎ、墻幃の牽制する私を銷されたい」と乞うたが返答はなかった。
  • 二十年春正月、礼科都給事の李献可が疏して豫教を請い、籍を削られた。大学士の王家屏が揭を具えて救いを申べ、御批を封じ返した。上は怒った。給事の鍾羽正・舒弘緒・陳尚象・李固策・丁懋遜・呉之佳・楊其休・葉初春、御史の銭一本・鄒徳泳・賈名儒・陳禹謨、主事の董嗣成が交々章を上って救いを申べ、籍を削られ降調されること差があった。科臣の孟養浩の疏が最も後で、上は杖一百を加えた。王家屏は三たび疏して帰ることを乞い、許された。
  • 吏部主事の顧憲成、章嘉禎らが「王家屏の忠愛は廃し置くべきでない。召し還されたい」と廷推した。上は怒って顧憲成の籍を削り、章嘉禎を羅定州の州判に謫した。
  • 十一月、礼部尚書の李長春がしばしば冊立を請い、疏は十四に及んだが返答はなく、まもなく罷めて去った。

萬曆二十一年(1593年)(三王並封の議とその撤回)

  • 春正月、輔臣の王錫爵が帰省から朝に還り、密疏して東宮を建てるよう請うた。「先に冊典がまさに行われようとしたのに、たちまち小臣の激しい聒がしさに阻まれました。皇上は親しく大信を発して二十一年に挙行すると定められ、そこで群れの囂しさは寂然としました。みな成命が上に在って恃むところあって虞いなきを知ったからです。もし春の令が期を過ぎれば、外廷の臣は必ず『昔は激しい聒がしさで遅れに改まった。いま何の名をもってまた緩めるのか』と言いましょう。伏して諭を降して挙行し、盛美をみな独断に帰して天功が人の謀に与らぬようにされたい」。
  • 上は答えて「朕には今春の冊立の旨があったが、昨日、皇明祖訓を読むに『嫡を立てて庶を立てず』とある。皇后は年がなお少ない。もし出産があれば二人の儲となる。いま三皇子を並べて王に封じ、数年の後に皇后に出産がなければ改めて冊立を行う」と言った。
  • 王錫爵は重ねて疏して言った。「昔、漢の明帝は宮人の賈氏の子を取って馬皇后に養わせ、唐の玄宗は楊良媛の子を取って王皇后に養わせ、宋の真宗の劉皇后は李宸妃の子を取って子としました。日を曠しくして遅く久しく将来の未定の天を待つより、古を酌み今に準じて目下の両全の美を成すに如きません。臣は謹んで諭に遵い、併せて伝帖二道を擬して採択に憑らせます。しかしなお皇上が臣の言を三思され、俯して後議に従い、恩義を全うして人心を服させられんことを望みます」。上はついに前の諭を出した。
  • 工部郎中の岳元声が科臣の張貞観・史孟麟に「この挙はどうか」と言うと、張貞観は「これは王錫爵が密かに進めたものだ」と言った。岳元声はさらに礼部郎中の陳大来の家に詣でると、兵科給事の許弘綱、礼部郎中の于孔兼がみないた。許弘綱が岳元声に属そうとすると、岳元声は「私はまさに王錫爵を論じようとしている。もし言えば成心ありとされてかえって事を敗る。私を後勁とされたい」と言った。許弘綱は允さず、岳元声はそこで帰って疏を草した。折しも礼部郎中の顧允成、張納陛が至ったので連名して上った。大略は「皇上が東宮に正位された日、仁聖もまた青年でしたが、荘皇帝は未然の事を設けて大計を誤らせはしませんでした」と言うものであった。
  • 疏が入ると、刑科の王如堅、光禄丞の朱維京の疏が続いて上った。「皇上が中宮を念じられるのはまことに厚い。ただ中宮は春秋がまさに盛んであります。前星が一たび耀けば、冊された元子は自ずと位を避けるべきで、何を嫌い何を疑いましょう。いま将来の期のない事をもって現在すでに成った命を格めれば、中宮が聞いてもまた安んじられぬところがありましょう。皇上が手札を王錫爵に諮られたとき、王錫爵は李泌のように委曲に叩き請うことができず、旨のとおりに勅を擬しました。中外の人心を厭かせがたい」。光禄少卿の徐傑、署丞の王学曽、郎中の陳泰来・于孔兼の疏が続いて上った。上は怒って王如堅・朱維京を謫戍し、徐傑・王学曽らを民とした。岳元声・顧允成・張納陛は寛い旨を得たが、並封の旨はついに旧のままだった。
  • 岳元声は顧允成・張納陛・陳泰来・于孔兼および李啓美・曽鳳儀・鍾化民・項徳禎とともに朝房で王錫爵を面詰した。王錫爵の色は甚だ厲しかった。岳元声が「閣下はどうして誤って親王が入って継ぐ文を引いて儲宮が嫡を待つ例とされたのか」と言い、曽鳳儀の語がやや遜ったので、岳元声は厲声で呵して「曽員外は祖訓を知らぬのか」と言った。王錫爵の顔色が霽れて衆が出ようとすると、岳元声は「大事が未定なのに、どうして出るのか」と言った。王錫爵が「それならどうするのか」と言うと、岳元声は「廷臣が相い迫っていることを皇上に告げるべきだ」と言った。王錫爵が「諸公の名を書いて進めてはどうか」と言うと、岳元声は「元声を首としてください。杖されようと戍られようと命のままに」と言った。王錫爵は唯々とした。
  • 庶吉士の李騰芳が王錫爵に書を上って言った。「聖明が上に在り、議する者はみな杞憂を為し、公の苦心を集菀と疑っております。これはみな妄りであります。ただ聞くところ、古の賢豪が権謀の事を立てようとするときは、必ずその身がこれを作し、その身がこれを収めうるかを度って、その後に一時にその迹を晦ますのは難くなく、ついに天下に皎然たりうるのだと。公は暫く上意を承け、巧みに王封に借りて転じて冊立と為そうとされる。しかし公の明をもって事機を試み度れば、急なら旦夕、緩なら一、二年。はたして公が朝に在る日にその志を遂げられましょうか。恐らくは王封がすでに定まって大典はいよいよ遅れ、他日、公に継ぐ者の精誠と智力が少しでも公に及ばねば、あるいは公の事を壊し公の功を隳して公を尸謀と罪するかもしれません。公はどのような辞で解かれますか。これは独り宗社の憂いであるだけでなく、公の子孫の禍いでもあります」。
  • 王錫爵は読み終えて爽然として「諸公は私を詈るが、私は自ら明らかにする術がない。君の言のとおりだ。私は教えを受けよう。ただ私の掲はみな手書で秘した跡が甚だ明らかである」と言った。李騰芳は「掲帖の手書を人がどうして知りましょう。異日、天子に公の手書を出して天下に伝示させることができましょうか」と言った。王錫爵は黙々として久しく、また「古人の留侯・鄴侯はみな権をもって勝った」と言った。
  • 李騰芳は言った。「鄴侯は建寧を元帥としたくなくて『摘瓜』の詩を詠じて広平を衛りました。これは経であって権ではありません。ただ粛宗と私に家事を議し、上皇が安んじられぬのを恐れて広平を太子とするのを遅らせたのは別の一つの話です。しかし建寧の死はここに胎したのです。子房が強諫を無益として四皓を招致したのは権を行うに似ますが、太子と趙王を並封するよう請うたことはありません。しかも権を行うには必ず大智の人が委曲宛転して、あるいは立ちどころの語で移し、あるいは黙然として定めるものです。もし数年を需めてさらに他人の手に委ねれば、聖人でも保証できません」。語るうち、王錫爵は覚えず涙を落とした。翌日、上疏して自ら三つの誤りを弾劾したが允されなかった。
  • 二月、輔臣の王錫爵が重ねて冊立を疏し、上は三皇子の封をみな停めるよう命じた。王錫爵はさらに疏して争い、大略「皇上が封王の命をたちまち止め、二、三年の冊立の期を再び訂されたのは、まことに古の聖人の善に従って輪を転ずる盛徳であります。ただ臣がひそかに憂え過ぎて計るに、去年の命が今年に改まった以上、今年の命が他日に改まらぬとどうして知れましょう。そもそも人情は疑いがなければそれまでですが、疑心が一たび生ずれば宮闈の隠情まで究め、千万世の流禍まで慮ります」と言い、また「皇長子は年が加冠に近いのにまだ外傅に就いておりません。従来、聞かぬところであります。皇上がたとえ冊立の期をやや緩めようとされても、どうしてまず豫教の礼を行われぬのですか」と言った。上は允さなかった。
  • まもなく陳泰来・薛敷教・于孔兼・顧允成を外に降し、礼科の張貞観の籍を削って民とした。
  • 八月、王錫爵が星変によって「天は皇上を子とし、皇上は太子を子とされます。天子の象は帝星、太子の象は前星であります。いま彗を禳ぐ第一の議は冊立に如くものはありません」と言い、上は慰めて答えた。
  • 十一月、上が煖閣に御して輔臣の王錫爵を召した。王錫爵は叩頭して力めて建儲を請い、上は明年の出閣聴講を允した。まもなくまた「皇長子と皇三子は齢が相い等しい。一併して出閣の礼を行いたい」と伝諭した。王錫爵は重ねて奏して「皇上に子があって均しく愛し均しく教えられるのは、もとより慈父の一体の念であります。しかし外廷から観れば、皇長子は明年十三歳、皇三子は明年九歳。おおむね皇子は十歳で入学します。皇長子の遅きに過ぎるをもって皇三子の早きに過ぎるを形どれば、先後・緩急の間に一たび慎まねば聖心はまた晦まされます」と言った。
  • 十二月、輔臣の王錫爵らが皇長子にまず冠礼を行うよう請うた。上は「東宮と王は袞冕・皮弁の二服で、冠はみな同じだが服は異なる。いま冠礼は何に従うのか。しばらく常服を着けて出て講ずるのがよかろう」と答えた。
  • 二十二年二月、皇長子が出閣して講学した。礼部侍郎の馮琦が儀注を進めたが、上はまだ冊立していないとして侍衛と儀仗を免じた。

萬曆二十六年(1598年)(「憂危竑議」の妖書)

  • 五月、吏科給事の戴士衡、全椒知県の樊玉衡が籍を削られて謫戍された。先に庚寅の年、山西按察使の呂坤が「閨範図誌」を輯め、鄭国泰が重刻して増刊した后妃は漢の明徳皇后に始まり鄭貴妃に終わっていた。科臣の戴士衡がその書を指して上言し、「呂坤は掖庭に逢い迎え、枯栄の形はすでに分かれた」と言った。語は貴妃を侵した。樊玉衡は先の皇長子冊立の疏の中でも「皇上は慈ならず、皇長子は孝ならず、皇貴妃は智ならず」などの語を用いていた。貴妃は聞いて上に泣き訴えた。
  • 折しも歴代の嫡庶廃立の事を援引して一書とし、内に張養蒙・劉道亨・魏允貞・鄭承恩・鄧光祚・洪其道・程紹・白所知・薛亨・呂坤らを刺したものがあり、「憂危竑議」と名づけられた。戚党はその書が戴士衡の手から出て張位が教えたと疑った。鄭承恩はそこで疏を上って力めて弁じ、併せて「戴士衡が偽書を仮り造って善類を中傷し、日々二衡を為して聖怒を激している」と奏した。張位も併せて殺そうとした。上は甚だ怒って二臣を謫戍した。
  • 六月、御史の趙之翰が「憂危竑議は戴士衡の偽造で、張位が主どり、予め謀った者は徐作・劉楚先・劉応秋・楊廷蘭・万建崑である」と言った。中旨で礼部右侍郎の劉楚先、都察院右都御史の徐作を罷め、国子祭酒の劉応秋を降調し、吏科左給事の楊廷蘭、礼部主事の万建崑をともに典史に謫した。張位は先に楊鎬を密薦して東征が利を失ったので罷めて去っていたが、赦に値っても宥さぬよう命じた。

萬曆二十八年〜二十九年(1600〜1601年)(冊立の実現)

  • 二十八年春正月、礼部尚書の余継登が「まず皇長子を冊立してから冠礼を行えば祝を致し、婚礼にも醮を致せる」と請うた。大学士の沈一貫が皇長子の冠婚を請うたが返答はなかった。
  • 三月、南京礼部侍郎の葉向高らが皇長子の三礼を行うよう乞うたが返答はなかった。己巳、皇長子を慈慶宮に移し、再び内閣に「冊立には期がある。群臣は瀆り擾すな」と諭した。
  • 夏四月、刑部主事の謝廷讃が冊立を請い、貴州布政司照磨に謫された。戊寅、沈一貫が密掲して勅を撰することを請い、上は「謝廷讃は狂妄である。しばらく待って、天下の臣民に朕の心から出たと明らかに知らせよ」と答えた。
  • 秋七月癸卯、「皇長子は清弱である。大礼はやや待て。百官は名を沽って煩わしく聒がすな」と諭した。
  • 冬十月乙酉、内閣に「来春に儲を冊す」と諭した。庚子、工科都給事の王徳完が「臣が入京して数か月、道路に伝わるところ、中宮の役使はわずか数人で、憂鬱して疾を致し危うきに臨んで保たれぬと申します。臣はひそかにそうではあるまいと思いますが、ただ臣は風聞して事を言う身。もし伝わるとおりなら宗社の隠れた憂いであります。臣は袁盎が坐を却けた事を羨みます。皇上が中宮を眷顧され、輦を止めて虚しく受けられんことを祈ります。臣は死しても朽ちません」と言った。上は震怒して錦衣衛の獄に下してその由を訊ねさせた。吏部尚書の李戴、御史の周盤らが救いを論じ、みな厳しく責められた。
  • 十一月、戚臣の鄭国泰が「皇子はまず冠婚して後に冊立されたい」と疏請した。科臣の王士昌がこれを糾し、署礼部の朱国祚が「鄭国泰はその詞を顛倒させ、明旨に背いております。窮まりなき禍いを醸すのを恐れます」と言ったが返答はなかった。
  • 皇長子が出閣して講学したとき厳寒で、皇長子は甚だ震えていた。講官の郭正域が大声で「天がこのように寒い。殿下は珍重されるべきだ」と言い、班役を喝して火を取って寒を禦がせた。当時、中官は密室で炉を囲んでいたが、郭正域の言を聞いて出した。上は聞いても罪としなかった。
  • 二十九年五月丙午、戚臣の鄭国泰が冊儲・冠婚を請い、俸を奪われた。戊申、礼科右給事の楊天民、王士昌らが立儲を請い、ともに貴州典史に謫された。御史の周盤らが疏して救い、俸を奪われた。
  • 八月甲午、沈一貫が上言した。詩の「既酔」の篇に、臣がその君を祝って「君子万年、爾に景福を介く」といい、続いて「君子万年、永く爾に祚胤を錫う」というのは、その子孫の多からんことを願うものです。また「爾に女士を釐い、孫子をもって従う」というのは、淑媛に酬いて賢い子孫を生むことを願うものです。「斯干」の篇に「室を築くこと百堵、西南にその戸あり。ここに居りここに処り、ここに笑いここに語る」というのは新宮を美とするもの。続いて「吉夢は維れ何ぞ、維れ熊維れ羆」というのは男子の祥であり、吉祥の善事にまさに聖子神孫を生んで窮まりなきことを言うものです。
  • いま万寿の觴を称え両宮が落成して、廷にある者は同じく祝しております。しかし天を啓く祥は実に聖心より始まります。皇上は大婚が時にかなったゆえに聖子を早く得られました。いま皇長子の大礼は必ずその儀を備えるべきですが、真の情を推し念じますに、早く伉儷を諧えるほど適ったことはなく、皇上が聖母を孝奉されて朝夕の起居も、早く飴を含んで曽孫を弄ぶ楽しみに如きません。今年はまず皇長子の大礼を、明春以後は順次、諸皇子の礼を挙げられたい。子がまた子を生み孫がまた孫を生めば、坐して本支の盛んなるを見、令名を享け完福を集められましょう、と。上は心を動かして即日行うよう諭した。
  • 冬十月乙亥、上は典礼が備わらぬとして期を改めて冊立しようとした。沈一貫は聖諭を封じ返して力めて不可であると言った。十五日己卯、皇長子を冊立して皇太子とし、併せて福王・瑞王・恵王・桂王を冊封して詔を天下に告げた。上は特に在籍の輔臣の申時行・王錫爵に諭して知らせた。壬辰、皇太子が冠を加え、福王・瑞王らもみな冠した。
  • 三十年春正月丁巳、東宮の官属を増した。己未、福王を暫く武英殿の西廡で講じさせた。二月丙子、皇太子妃の郭氏を冊した。上は病と称して賀を免じた。

萬曆三十一年〜三十二年(1603〜1604年)(「続憂危竑議」の妖書事件)

  • 三十一年十一月丁卯、「続憂危竑議」という蜚語があった。およそ三百余言。東宮はやむを得ず立てられたが従官が備わらぬのは、後日の改易の意を寓するものだといい、特に朱賡を用いたが「賡」とは「更」の意である、と言った。内外の官で朱賡に附く者は、文では戎政尚書の王世揚、巡撫の孫瑋、総督の李汶、御史の張養志、武では錦衣都督の王之禎、都督僉事の陳汝忠、錦衣千戸の王名世・王承恩、錦衣指揮僉事の鄭国賢。さらに陳矩が朝夕、帝の前にあってその主となり、沈一貫は鄭を右け王を左けて、禍いを避けて福を規り、他日には必ず靖難・勤王の事があろうという。吏科都給事中の項応祥が撰し、四川道監察御史の喬応甲が刊した、とあった。
  • その書は一夜のうちに宮門から街衢に至るまであまねく行き渡った。翌朝、挙朝は色を失って敢えて言う者がなかった。大学士の朱賡は私宅で得て奏聞し、その人を緝えることを請い、帰ることを乞うたが允されなかった。
  • 上は大いに怒って厰衛に捜し緝えさせ、必ず書を造った主名を得るよう命じ、項応祥・喬応甲に回奏を責めた。沈一貫が厳しく跡を追うことを請い、偵校が路を塞ぎ、賞格五千金と宮指揮僉事を購った。ある者は「妖書は清流の口から出たようで、沈一貫を傾けようとするものだ」と言い、ある者は「これは奸人が作って郭正域を陥れようとするものだ」と言った。郭正域は当時、清流の領袖の目があって沈一貫に忌まれていた。
  • やがて喬応甲・項応祥がそれぞれ回奏し、「奸書が人を謗るのに自ら名乗る理はない」と言って問われなかった。皇太子を召して慰安した。太子は泣き、上もまた泣いて、そのまま内竪に皇太子を慰安した語を内閣に諭させた。
  • 当時、沈一貫はちょうど楚宗の事で郭正域を恨んでいた。郭正域は輔臣の沈鯉の門生である。沈鯉は日ごろ踽々としてとりわけ望みを負い、「天啓聖聡」の牌を閣に供して入れば礼した。当時、告密が開かれると沈鯉は人に「この事はどうして張り慌てる必要があろう」と語った。沈一貫は大いに悦ばなかった。郭正域は放ち帰されて潞河の楊村で凍りつくのを待っていたが、聞問は絶えなかったので、沈一貫はいよいよ側目した。
  • 十二月壬午、給事の銭夢皋がまっすぐ郭正域を指し、併せて沈鯉に及んだ。御史の康丕揚が佐けた。初め呉江に仮寓した医師の沈令譽は貴遊が多かったが、康丕揚が城を巡ってその跡を追って捕らえ、楚王の揭・華趆の副封および刑部主事の于玉立が吏部郎中の王士騏に致した書を捜し得た。于玉立が官に起こされたのも王士騏が起こされたのも郭正域が左右したからである。また前漢中府同知の荊門の胡化が、渠県訓導の阮明卿が妖書を撰したと首告したが、廉問しても拠がなかった。しかし阮明卿は銭夢皋の姻戚であった。ゆえに銭夢皋は真っ先に郭正域を攻め、疏中に「沈令譽は郭氏の食客、胡化は同郷の年友である。速やかに訊ねて奸党を治め、郭正域を罪すべきだ。次輔の沈鯉はしばしば奸人のために頬を緩めている。挙朝が大変というのに彼は小事といい、挙朝が捕らえるべきというのに彼は容れうるという。上った揭には『人心を震動させ聖徳を虧損する』などの語がある。回り互い隠れ伏して、意は何を為そうというのか」と称した。
  • 疏が入って中外は大いに駭いた。そこで卒を発して郭正域の舟を囲み、その僕隷・乳母十三人を捕らえた。巡捕都督の陳汝忠はまた郭正域の舎人の毛尚文、江夏の布衣の王忠を獲た。巡城御史の康丕揚は僧の達観、琴士の鍾澄、百戸の劉相らを捕らえ、沈令譽とともに詔獄に下して考訊したが得るところがなかった。邏校はまさに沈鯉の邸に環り逼って迫り脅すこと堪えがたかった。
  • 皇太子が閹人を遣わして閣臣に「先生方、私に郭侍郎を全うすることを乞わせてください」と語らせた。折しも都察院の温純が書を上って訟え、唐文献・陶望齢が前後して沈一貫に詣でて解き、陳矩もまた力めて持したので、沈鯉は安んじることを得た。王士騏・于玉立は詞に連なって落職した。
  • 錦衣都督の王之禎、千戸の王名世らが錦衣都督の周嘉慶を首告し、東廠に下して会鞫させた。門を挙げて惨たらしく掠したが、周嘉慶もまた承知しなかった。吏部尚書の李戴は周嘉慶の外父で、拷掠のとき惨たらしく視るに忍びず起って中堂に入った。上は聞いて悪み、李戴を罷めて帰らせた。
  • 錦衣に妖書を厳しく鞫らせた。沈一貫・朱賡が疑獄を寛くするよう請い、沈鯉もまた章を上って咎を引き、かつ帰ることを乞うたが聴かれなかった。最後に錦衣百戸の崔徳が順天の黜生の皦生光およびその子の其篇、婦の趙氏・陳氏を緝えて鞫った。皦生光は性が険賊で、よく人を脅して金を取り、譴めに坐して大同に戍られ、赦されて帰ってもついに改めず、なお鄭国泰の家を脅していた。
  • まさに廷訊するとき、康丕揚らはみな郭正域に坐そうとしたが、御史の牛応元は天を指して誓い、沈裕は厲声で折った。皦生光は重く論ぜられれば多くの人を株連して獄の帰するところがなくなると恐れ、自ら誣い服して嘆じ、「朝廷が私を得て案を結ぶ。もし一たび口を移せば諸君はどこに生活を求めよう」と言った。刑部尚書の蕭大亨は必ず窮め究めようとしたが、礼部侍郎の李廷機・趙世卿が輔臣の朱賡に告げて「これで獄を具えうる」と言った。朱賡が沈一貫に語り、事はやや解けた。
  • 三十二年夏四月乙酉、提督東廠司礼太監の陳矩が妖書の獄を上り、皦生光を刑部に移して斬に論じた。上は等を加えて社稷を危うくすることを謀った律で磔に論じようとした。陳矩は日ごろ清直で、妖書の事で善類を保全したことが多かった。壬寅、皦生光は市で磔にされ、妻子は辺に戍られた。妖書は皦生光の仕業ではなかったが、その人は死ぬべき者だったので、人はあまり憐れまなかった。ある者は「妖書は武英殿中書舎人の永嘉の趙士禎から出た」と言った。後に趙士禎は病篤くして自ら言い、肉が碎け落ちること磔のごとくであったという。

萬曆三十九年〜四十八年(1611〜1620年)(王貴妃の死と福王の就国)

  • 三十九年九月己酉、皇貴妃の王氏が薨じた。妃は皇太子を生んだが寵を失い、目を病んだ。病篤きに至って太子は初めて知り、急ぎ至ると宮門はなお閉ざされていた。鍵をこじ開けて入ると、妃は太子の衣を手にして泣き、「児がこのように長大した。私は死んで何の憾みがあろう」と言った。太子は慟き、左右はみな泣いて仰ぎ視ることができなかった。しばらくして薨じた。
  • 四十年冬十月、閣臣の葉向高が福王の就国を請い、明年春に挙行すると報ぜられた。
  • 四十一年春正月、礼部が東宮の開講と福王の就国を請うたが返答はなかった。四月、兵部尚書の王象乾がさらに請うと、上は「親王の就国は祖制で春である。いま期を踰えた。明年春に挙行せよ」と言った。
  • 五月辛未、葉向高が言った。福王の就国は明春に挙行すると旨を奉じましたが、近ごろまた荘田四万頃を撫按に責めておられます。もし田頃が足りてから行くとすれば、就国はいつの日でありましょう。聖諭の「明春挙行」もどうして必ずといえましょうか。福王が奏して「祖制」と称するのは、祖訓にありましょうか、会典にありましょうか、累朝の功令にありましょうか。王の引く祖制とは何を指すのでしょう。景府を援くとすれば、景府より前の荘田はいずれも数千頃を出ませんでした。ただ景府だけが制を踰えたのは皇祖が一時、聴くを失われたことで、今に至るまで追い咎められております。王はどうしてこれを咎めながら効うのですか。
  • 古来、国を開き家を承けるには必ず理に循い分に安んじてこそ久しくありえます。鄭の荘公が太叔段を愛して大邑を請い、漢の竇后が梁の孝王を愛して大国に封じましたが、みな身に及んで敗れました。臣は忠愛の念に勝えず、明言せずにおれません、と。
  • 六月己丑、錦衣衛百戸の王日乾が「奸人の孔学が皇貴妃の宮中の内侍の姜某・龐某・劉某らとともに妖人の王子詔を請うて皇太子を詛呪し、木像を刻んで聖母・皇上とし、その目を釘で刺しております。また趙思聖と約して東宮の侍衛にあって刀を帯びて刺そうとしております」と訐発して奏した。語は多く鄭貴妃と福王に渉った。
  • 葉向高は通政使に語って参劾の疏を具えさせ、王日乾の奏とともに上った。葉向高は密掲して「王日乾も孔学もみな京師の無頼で、譸り張ることここに至りました。これは大いに往年の妖書に類します。ただ妖書は名を匿して詰めがたかったが、いま両造がともに法司に在ります。その情は立ちどころに見えましょう。皇上はただ静かに俟って動かされませぬよう。動けば擾を滋します」と言った。上は初め王日乾の疏を覧て震怒したが、揭を見て意は解け、そこで問わなかった。東宮が閣の揭を取りにやると、葉向高は「皇上がすでに問われぬ以上、殿下もまた重ねて覧るに及びません」と言い、皇太子は深く然りとした。まもなく御史が他の事で王日乾を参劾して獄に下した。年を踰えて梃撃の獄が興った。
  • 四十二年三月丙子、福王の常洵が就国した。
  • 四十三年二月、南京御史の汪有功が「福府の内侍の李進忠が擅に孝陵に祭告した」と言ったが返答はなかった。秋七月、太常寺少卿の史孟麟が皇太孫の冊立を請い、両淮塩運判官に謫された。
  • 四十四年八月壬寅、皇太子が出閣して講学した。期を曠しくすること十二年である。
  • 四十八年夏四月、皇后の王氏が崩じた。后は賢だが病が多かった。国本の論が起こると上は「嫡を立てて長を立てず」の語を堅く操ったので、群れは上意が后の病にあるのではないかと疑い、貴妃がただちに国母となるのかと挙朝が皇々とした。上が年高くなるに及んで、后は賢によって重んじられ、東宮はいよいよ安んじた。このとき崩じて中宮は数か月虚位となったが、貴妃はついに位に進まなかった。
  • 上が不予となった。右諭徳の張鼐が上言した。「皇上は起居して静かに摂養され、皇太子は礼を執る暇に時に左右に親しみ、皇長孫の少成の気が庭除に娯楽すれば、懐いを寛くするに足り、また聚順にも称います。臣がひそかに見るに、士民の家では慈母に背かれると厳父は孤り単りとなり、ただ児孫が膝を繞ってこそ眉宇を開けます。天子は民間と同じでないとはいえ、骨肉に二つの理はありますまい」。
  • 七月、当時、上は寝疾が久しく、皇太子はまれにしか召見を得なかった。御史の左光斗らが方従哲のもとに詣でて安を候うことを請うと、方従哲は「上は疾を諱まれる。門に入ればただちに左右が敢えて伝えぬ」と言った。兵科給事中の楊漣は言った。「昔、宋の文潞公が仁宗の疾を問うたとき内侍が言うのを肯んじなかった。潞公は『天子の起居を汝ら輩が宰相に知らせぬのは他の志があるのではないか。中書省に下して法を行う』と言った。いま、まことに日に三たび問えば、見えるに及ばず上に知らせるにも及ばぬ。ただ内臣に大臣が門に在ることを知らせればよい。しかも公は閣中に宿るべきです」。方従哲が「故事ではない」と言うと、「潞公は史志聡を訶さなかったか。いまは何どきか。なお故事を問われるのか」と言った。
  • 二十一日丙申、上の疾は大いに危篤となり、輔臣の方従哲らを弘徳殿に召し入れた。まもなく出たときは日はすでに傾いていたが、皇太子はなお寝門の外を彷徨して入れなかった。楊漣・左光斗は人を遣わして東宮の内侍の王安に「上の疾は甚だしい。太子を召さぬのは上の意ではない。太子は力めて入侍することを請い、非常に備えるべきだ。夜も軽々しく出るな」と語らせた。王安はもとより正を守り、力めて太子を擁き佑けた。即日、上は崩じた。遺命で貴妃の鄭氏を皇后に封ずるとあった。

泰昌元年(1620年)八月(鄭貴妃の封后をめぐる議)

  • 泰昌元年、すなわち万暦四十八年である。八月、光宗はすでに践祚し、遺命に遵って皇貴妃を封じ、礼部に例を査べて行わせようとした。尚書の孫如游が争って言った。祖宗の朝で、配をもって后とされたのは敵体の経であり、妃をもって后とされたのは子に従う義であります。ゆえに累朝、衾を抱く愛がなかったわけではないのに、ついに席を割く嫌いを引いたのは、例に載らぬからであります。
  • 皇貴妃が先帝に事えて年あったのに、生前に議が倡えられたと聞かず、逝去の後にかえって遺詔があるとは。どうして先帝の弥留の際に詳らかにするに及ばなかったのでしょうか。しかも王貴妃は殿下を誕育されました。どうして先帝の意を留められたところでなかったでしょう。それなのに恩典はなお待つところがあるのに、毛に属さず裏に離れぬ者にその母を子とさせようとすれば、九原もまた怨み恫まずにおりますまい。
  • 鄭貴妃は賢で礼に習っておられます。分にあらざるところに処されるのは必ずその心の楽しむところではありません。史冊に書して後裔に伝えれば、盛代の典礼の累となり、しかも先帝の失言を昭らかにするもので、孝とする所以ではありません。中庸に「達孝とは善く継ぎ善く述べるものだ」といいます。義として行いうるなら命に遵うのを孝とし、義として行いえぬなら礼に遵うのを孝とします。臣は敢えて命を奉じません、と。従われた。

史論(谷応泰曰)

  • 光宗はもと恭妃の産んだ、神皇の元子である。恭妃には寵がなく、寵を擅にしたのは鄭貴妃だけであった。ところが万暦十四年に輔臣の申時行が建儲を請うてから二十九年に至って儲位はようやく定まった。古来、父子の間で受命がこれほど難かったことはない。
  • 語に「貴い夫人は孺子を愛す」といい、また「母が愛されれば子は抱かれる」という。そのとき、枯栄の勢いはすでに形れ、金玦の寒さはいよいよ劇しく、孝恵を羽翼する者は少なく、舒王に功を樹てる者は多かった。青宮の一席、なお言うに忍びようか。
  • そこで真っ先に国本を争って譴めを得たのは礼垣の羅大紘、中書の黄正賓であった。また給事の李献可、尚書の李長春の輩が、あるいは杖されあるいは戍られ、一たび鳴けばたちまち斥けられ、甚だしきは九臣が政府を面詰し、十四官が同時に降され削られた。しかも神宗は動もすれば「激しく擾す」の名を加えて天下の口を箝めることを冀った。単に建儲を欲しなかっただけではない。儲礼が挙がらぬために冠婚は期を愆り、久しく豫教もされなかった。その後は三王を並封させ、また二王を並べて講じさせようとした。女戎の伏せる妖は、かくも忍びがたいものであったか。
  • そもそも易に「長子は器を主る」といい、記に「一人元良」を美とする。重光・重潤を古来、栄としてきた。それなのに神宗は天倫を正す語を耳に入らぬ言として深く怨み毒み、酷罰で威を示した。蔽うものがあったのである。
  • 究めれば前星の輝きは次第に朗らかとなり、瓜を摘む謀は行われなかった。論者は「諸臣が静かに聴いていれば早く成るのを観られた」と言うが、私は「諸臣が力めて争ったゆえに久しくして克く定まった」と思う。鄭妃の盛年のころ、神宗はもとよりかつて愛を立てることを許した。しかし言者が紛紜として格めて発しえなかった。初めは諍臣を譴めて宮闈を快くし、終わりにはまた朝論を援いて嬖倖に謝さぬともかぎらなかった。初めは神器の重きをもって晏私の愛に酬いようとしたが、究めれば房闥の暱みをもって天下の公を廃することはできなかった。
  • そうであれば、王家屏が御批を封じ返し、李騰芳が執政に書を上げたのは、断じて口舌をもって争うべきものであった。やがて妖書が反間となり詛呪が横行し、緹校が勾い摂って紛然と四方に出た。漢が巫蠱を治めたのと何が異なろう。ああ、王之禎はなお江充であり、四明(沈一貫)はなお公孫賀である。たとえ東宮を株連しなくとも、砂を含んで人を射て安んじる幸いがあろうか。幸いにも皦生光が誣い服して羅織を弛めることを得たが、もし事を設けてさらに蔓延させれば、魚網の設けに鴻が離るごとく、都の人士はどうして枕を安んじて臥せられよう。
  • 太子がすでに建てられてからも出閣を禁ずること十二年に及び、史孟麟が皇太孫の冊立を請えばなお降謫を加えた。思うに神宗の怒りは怠まなかったのである。