明史紀事本末楊応竜を平定する(平楊應龍)

万暦十七年(1589年)から二十八年(1600年)までの、四川播州宣慰使の楊応竜の叛乱と平定を扱う。楊応竜は唐末以来この地に拠った楊氏の後裔で、隆慶六年に職を襲いだ後、嫡妻の張氏を殺すなどの暴虐から告発され、重慶で対簿して罪を贖ったが、次子の可棟の死を機に再び兵を弄した。巡撫の王継光、次いで貴州巡撫の江東之の討伐はいずれも敗れ、綦江が破られると朝廷は李化竜を総督として川・湖広・貴州の兵を節制させた。万暦二十八年、李化竜は劉綎・馬孔英・呉広・陳璘らを八路に分けて進ませ、婁山関を抜いて海竜囤を囲み、百十四日で応竜を自尽させた。播の地は遵義と平越に分けられた。

年表(7件)

神宗萬曆十七年(1589年)(播州の由来と楊応竜の跋扈)

  • 四川播州宣慰司使の楊応竜が反した。播州は夜郎・且蘭の地で、漢では牂牁郡に属した。唐の貞観の初め、牂牁の北界を分けて郎州を置き六県を領させ、やがて播州と改めた。乾符三年、南詔が寇して太原を陥れると、楊端が募りに応じ、策を決して白錦に馳せ、奇兵を出して定めたので武略将軍を授かった。唐の乱に遭って留まり拠り、子孫に長じ、宋を歴て附属して臣と称した。大観年間、楊文貴が土を納れて遵義軍を置き、元の世祖は楊邦憲に宣慰使を授け、その子の漢英に賽音布哈の名を賜って播国公に封じた。国初、楊鑑が内附して播州宣慰司使に改め、四川に隷させた。
  • その域は広袤千里、四川・湖広・貴州の間に介し、西北は山を塹って関とし、東南は江に附いて池とする。蒙茸として鑱り削られ、居然たる奥地である。黄平・草塘の二安撫と、真播・白泥・余慶・重安・容山の六長官司を領し、田・張・袁・盧・譚・羅・呉の七姓を統べ、代々目把とした。
  • 嘉靖の初め、楊相が庶子の煦を寵し、煦は嫡を奪おうとしたので、嫡妻の張と子の烈が兵を擁して相を逐い、水西に走らせて客死させた。水西宣慰の安万銓が挟んで奏し、水烟・天旺の地を索め、帰葬を聴された。烈こそ応竜の父である。楊烈以来、仇殺と長官どうしの攻め剽めが十年に垂んとし、総督侍郎の馮岳が討ち平らげた。
  • 応竜は生まれつき雄猜で、とりわけ兵を恃んで殺を嗜んだ。隆慶六年に職を襲ぎ、喇麻の諸番、九絲・膩乃・楊柳溝などへの従軍で、しばしば敵を却けて先登し、斬獲は数知れず、前後に金幣を賜った。万暦十二年、大木六十本を進めて工を助け、上は特に大紅の飛魚服を給して職級を加えた。
  • 応竜は蜀の兵が弱く、征討のたびに土司だけを調え、蜀の将もあるいは従って借り給されるのを窺い、次第に驕り傲って法を軽んじ縦にした。居所は僣って竜鳳を飾り、擅に閹寺を用いた。小妻の田雌鳳を嬖し、嫡妻の張を姦淫と疑って出した。やがて田氏の兄の家で飲み、酔いに乗じて刃を持って張とその母の首を取り、その家を屠った。
  • 応竜は州にあって専ら酷殺して威を樹て、いよいよ関外の生苗と結んで翼とし、劫掠を恣にした。そこで妻の叔の張時照と部下の何恩・宋世臣らが飛文を上って応竜の反を告げた。貴州巡撫の葉夢熊が疏して兵を発して勦めることを請うたが、蜀中の士大夫はおおむね「蜀は三面が播に隣し、属する夷は十百を数えるが、みな応竜が弾圧している。しかも兵は驍勇でしばしば征調に赴いて功があった。剪り除くのは長策ではない」と言った。それゆえ蜀の撫按はともに撫を主とした。朝議は西省に会勘を行わせたが、応竜は蜀に赴くことを願って黔には赴かなかった。

萬曆二十年〜二十一年(1592〜1593年)(対簿と最初の失敗)

  • 二十年十二月、楊応竜を逮えて重慶に詣でさせて対簿させた。繋いで論ずるに法として斬に当たったが、二万金で贖うことを請うた。御史の張鶴鳴がまさに駁して問おうとしていたところ、折しも倭が大挙して朝鮮に入り、羽檄で天下の兵を徴した。応竜はそこで愬え弁じて、自ら兵五千を将いて倭を征して報效したいと願い、詔して可とされて釈された。兵はすでに行を啓いたが、まもなく罷めるよう報ぜられた。
  • 巡撫都御史の王継光が至って厳しく勘結を提えると、抗って再び出ようとせず、張時照らはさらに闕下に詣でて奏した。王継光はそこで一意に勦を主とした。
  • 二十一年春正月、撫臣の王継光が重慶に馳せ至り、総兵の劉承嗣、参将の郭成らと三軍に分けて各道から並び進むことを議した。軍が婁山などの関に至って白石口に屯すると、応竜は佯ってその党の穆炤らに降を約させ、そのうえで苗兵を統べて関に拠って衝殺した。都司の王之翰の軍は覆り、殺傷は大半に及んだ。折しも王継光が論じられて罷めたので、ただちに撤兵し、輜重をほぼ棄て尽くした。黔の師の協め勦めもまた功がなかった。
  • 譚希思を四川巡撫として、総兵の劉承嗣とともに貴州の撫・鎮と会同して機を見て征し勦めさせた。当時、王継光がすでに罷められると、御史の薛継茂はそこで撫を主とするに転じ、応竜もまた書を上って自ら弁じた。御史の呉礼嘉が郭成らの失律を弾劾し、罪を戴いて功を立てさせた。まもなく劉承嗣が病で骸骨を乞い、両省の議は久しく決しなかった。応竜はその党に金を携えて入京させて間を行い、原奏の何恩を捕らえて綦江県に詣でさせた。

萬曆二十二年〜二十三年(1594〜1595年)(邢玠の招撫と贖罪)

  • 二十二年三月、兵部侍郎の邢玠を貴州の総督とし、車駕郎中の張国璽、主事の劉一相を軍前の賛画とした。
  • 二十三年春正月、総督の邢玠が伝馬に乗って蜀に至った。永寧・酉陽および馬千斛はみな応竜の姻戚であり、黄平・白泥の諸司は久しく仇讐であると察し、まずその枝党を剪ることを計り、檄をもって応竜を暁し譬えた。大略は哱氏・劉氏の事を引き、「応竜が来れば死なせぬよう待遇するが、そうでなければ国家は万金を懸けてなんじの頭を購う。早く計を為せ。私はなんじを欺かぬ」と言った。
  • 折しも水西宣慰の安疆臣が父の国亨の恤典を請うたので、兵部尚書の石星は手札を安疆臣に示して、応竜を吏に就かせれば罪を貫くのを得られると言った。安疆臣もまた札を奉じて播に至り応竜を招いた。
  • このとき七姓はただ応竜が出て罪を除かれることを恐れ、四方の亡命でその間に竄れ匿れた者もまた応竜の反を幸いとして利としようとし、院道の文書はそのたびに中間で阻まれた。
  • 四月、重慶太守の王士琦が総督の邢玠の檄を奉じて綦江県に詣で、応竜が安穏に勘を聴くよう促した。王士琦は綦江令に宣諭に行かせると、応竜は弟の兆竜を安穏に至らせて郵伝を治め糧を儲え、郊迎して叩頭し、餔資と餼牽を礼どおりに致して言った。「応竜は久しく渠魁を縛って松坎で罪を待っております。敢えて安穏に至らぬのは、安穏に奏民が多く兵を伏せて殺を伺うからです。往時に明らかな鑑があり、まことに計に中るのを恐れて敢えて出ぬのです。使君が幸いに車騎を枉げて松坎に臨み賜れば、敬んで腹心を布きましょう」。
  • 綦江令が具さに太守に言うと、太守は「松坎もまた先ごろ奏勘した地だ」と言い、ただちに五月八日、単騎で松坎に赴いた。応竜は果たして道の傍らで面縛し、泣いて死罪を請い、膝で行って席の前に進み、叩頭して血を流し、公館を治め、罪人を執え、金を罰して廷中に献じて安国亨に自ら比しうるようにさせてほしいと請うた。安国亨とはかつて訐発されたとき罪を懼れて界を出なかった者で、それゆえ応竜が引いたのである。
  • 太守が総督のために請うと、そこで賛画の張国璽・劉一相および道府を安穏に詣でさせた。応竜は囚服で蒲服して郊迎し、黄元・阿羔・阿苗ら十二人を縛って献じた。案じ験べると応竜に抵るのは斬であったが、その族によって贖に論ずるを得、四万金を輸して採木を助け、なお革職して、子の朝棟が土舎として事を受け、次子の可棟は府に羈めて贖を追徴し、黄元らを重慶の市で梟し斬った。総督が奏聞した。
  • このとき倭の氛はまだ靖まらず、大司馬は応竜を緩めて専ら東方を事としようとした。天子もまた応竜に従来の積んだ労があるとしてその奏を可とした。総督は撫彝同知を設けて松坎を治めることを議し、従われた。功を論じて邢玠に右都御史を加えて朝に還し、重慶太守の王士琦を川東兵備使として弾じ治めさせた。
  • 応竜は再び寛政に及んで、いよいよ怙み終えて改めなかった。次子の可棟がまもなく重慶で死ぬと、心はいよいよ痛み、屍と棺を取ることを促した。勘報が未完なので発することを肯んじず、その贖を完うするよう促すと、応竜は大言して「吾が子が生きて銀はすぐに至る」と言い、兵を擁して千余の僧を駆って魂を招いて去った。土目を分け遣わして闕を置き険に拠り、僣って巡警を立て、軍民を捜し戮し、屯堡を劫掠して空しい日はほとんどなかった。厚く諸苗を撫して鋒を摧くのに用い、「硬手」と名づけた。州人でやや富裕な者はその家を没して苗を養った。これによって諸苗の人は応竜のために死力を出すことを願うようになった。

萬曆二十四年〜二十六年(1596〜1598年)(暴虐の激化)

  • 二十四年七月、楊応竜は逆を恣にし、余慶の土吏の毛承雲の棺を劈いてその屍を磔にし、やがてまた大阡・都壩を掠め、余慶・草堂の二司を焼き劫め、あまねく興隆・偏鎮・都勻の各衛に及んだ。弟の兆竜を遣わして兵を引いて黄平を囲ませ、重安司長官の張熹の家を戮した。勢いは再び大いに熾んになった。
  • 二十五年三月、楊応竜が江津県および南川を流れ劫めた。十二月、楊応竜が合江に臨んでその讐の袁子升を索め、城から縋り下ろして臠に割いた。
  • 石砫宣撫司土舎の馬千駟が播に入った。先に千駟の母の覃が応竜と私通しており、覃は千駟を寵して長子の千乗の爵を奪おうと謀り、そこで応竜の次女を聘して声援とした。
  • 二十六年十一月、兵備副使の王士琦が征倭に調えられると、楊応竜はいよいよ苗兵を統べて貴州の洪頭・高坪・新村の諸屯を大いに掠め、やがてまた湖広の四十八屯を侵し、駅站を阻み塞いだ。原奏の讐民の宋世臣の父の宋鑾および羅承恩らが家を挈げて偏橋衛城に匿れているのを詗い、襲って指揮の陳天寵らを捕らえ、大いに城中を索めて宋鑾・羅承恩および子女を得て惨たらしく戮して見せしめとした。諸苗に父に対して娘を姦させ、夫の面前で妻を淫させ、あるいは裸体で木の叢に坐らせて射て笑い楽しみ、あるいは蛇を焼いて陰から腹に入れて人も蛇もともに斃れさせた。また墳墓を掘り屍を焼いて灰が飛んで天を蔽った。
  • 巡撫四川都御史の譚希思が、合江・綦江にそれぞれ遊撃一員を置き、合江は兵一千二百人を募って岡門を扼し、綦江は兵二千人を募って安穏を扼することを請うた。

萬曆二十七年(1599年)(飛練堡の敗と李化竜の起用)

  • 二月、貴州巡撫の江東之が都司の楊国柱、指揮の李廷棟に兵三千を部して楊応竜を勦めさせた。応竜は子の朝棟、弟の兆竜、何漢良らを遣わして飛練堡で迎え敵たせた。我が師は三百落を奪ったが、賊は佯って天邦囤に走って我が師を誘い殲した。楊国柱は賊を罵って屈せず、経歴の潘汝資らとともにみな死んだ。
  • そこで江東之は浪りに戦った罪に坐して罷められ、郭子章を代わりとした。前都御史の李化竜を起こして兵部侍郎を兼ねさせ、四川・湖広・貴州の三省の兵事を節制させ、進み勦めることを決意した。東征の諸将を調え、南征の劉綎に川兵を督させて先発させ、麻貴・陳璘・董一元が相次いで兵を回した。
  • 五月、総督が馳せて蜀に至り、ただちに標兵を設けることを請い、さらに浙・閩・滇・粤の将士を調え募り、総兵の万鏊に檄して松潘から重慶に移し、併せて鎮雄・永寧の各漢・土兵を調集して防を設けた。
  • 六月、楊応竜は我が師のまだ集まらぬのに乗じて大いに兵を勒して綦江を犯し、赶水・猫児岡に分屯した。婁国らが偏師をもって一は南川を犯し一は江津を犯し、その子の朝棟が沙渓を守り、緝麻山が永寧宣撫と貴州を防いだ。
  • 十七日、遊撃の張良賢が旧東渓で賊と遇ってかなり斬獲があった。二十一日、応竜が苗兵を督して綦江城を幾重にも囲んだ。遊撃の房嘉寵が誤って火磚を燃やしてかえって城上の兵を傷つけ、賊は勢いに乗じて城に登った。房嘉寵は師を帥いて巷戦したが、蜀の兵は争い譟いで水上に走った。房嘉寵はそこでその妻を殺し、張良賢とともに敵に赴いて死んだ。
  • 応竜はそこで劫かして囚を縦たせ、焼き掠めて綦江の庫を出して師を犒い、倉に依って食し、資財と子女をことごとく取って去り、老弱な者は殺して屍を投じ、江を蔽って下って水は赤くなった。退いて三渓に屯し、綦江の三渓は渡らせず、南川の東郷壩に石を立てて播の界とし、宣慰の官荘と号し、「江津・合江はみな播の旧土である」と声言した。
  • 総督の郭子章は日夜、漢・土の各兵を徴調して渝城を守り、南川・合江・瀘州に分け戍らせ、軍声は次第に振るい、賊は遷延して進まなかった。
  • 初め賊はもとより竟に反する意はなく、ただ安んじて忍び猖狂しただけだったが、我が師を飛練で覆してからは虎に騎る勢いで下りられなくなり、いよいよ九股の生苗および紅脚・黒脚などの苗と結んで険に負んで兵を弄んだ。しかしなお我が往時のように曲げて宥すことを冀って、敢えて鼓を鳴らして深入りせず、ただ界を争い葬を給し、併せて奸民を索めると言うだけだった。
  • 総督は我が援師がまだ集まらず、蜀人が賊を虎のごとく畏れるので、しばしば文書を移して詰り責め、にわかに絶つ意のないことを示して賊を緩めようと計った。賊は果たして文を具えて撫を求め、再び西に向かわなかった。総督もまた謬って好い言葉で縻ぎ、会城に駐まるにとどめて調度し、賊に張り慌てぬところを示した。
  • やがて綦江が破られたことが上聞され、両省の撫臣の譚希思・江東之を追い褫ってそれぞれ民とし、緹騎が兵備使の王貽徳を逮えた。剣を賜り賞を懸けて厳旨をもって進み勦めさせた。総督はいよいよ各路の兵を調え、専ら大挙を俟った。
  • 十月、総督の李化竜に重慶に駐まって川・貴・湖広の兵を調度するよう命じた。総兵の劉綎の兵もまた至った。劉綎はもとより威名があり、その家丁と良馬はみな勝ちを決しうるものだったが、日ごろ応竜と昵んでいたので人はみな疑った。そこで総督は臥内に招き入れて心腹を輸し、しかも危言で激し、その父の劉顕の九絲の功を引いて比した。劉綎は大いに慟いて死を誓って報效することを願った。総督はそこで書を朝に騰らせ、劉綎に専制を委ね、総督の治軍はいよいよ次第を得た。
  • 十一月、楊応竜が官壩に屯して蜀を窺うと声した。やがて東坡・爛橋を焼き、楚・黔の路は塞がり、黄平・竜泉が至るところ急を告げた。賊はさらに偏橋に拠って出て興隆・鎮遠を掠めた。総督は勁兵一万余を置いて要害に拠り楚・黔の道を通じさせることを議した。黔の帥の童元鎮が兵を擁して銅仁にあって前進しなかったので革職して功を立てさせ、李応祥を代わりとした。
  • 僉都御史の江鐸に偏沅を巡撫させ、総兵の陳璘の師を監させた。

萬曆二十八年(1600年)春正月〜二月(八路の進撃)

  • 楊応竜が兵数万を勒して五道から並び出て竜泉司を攻めた。守備の楊維忠は兵二千を擁したが、勢い敵しがたいとして先んじて台への謁見に託して思南に走った。鸚鵡渓の土官の安民志が歩卒五百を率いて拒み守って死に、吏目の劉玉鑾は妻子とともに賊に死んだ。副総兵の陳良玭は偏橋を守るのに託して援けなかった。
  • 石砫宣撫司の馬千乗が鄧坎に軍したところ、賊が夜に乗じて掩襲した。我が軍は壁を堅くし、明朝に奮い撃って続けざまに金竹・青岡觜・虎跳関など七寨を破った。酉陽宣撫司の冉御竜が進んで官壩を攻め、関を斬って直ちに上り、また三百余を擒斬した。初め賊は竜泉を下してまさに兵を移して婺州を攻めようとしていたが、敗を聞いて兵を撤して遁れた。
  • 徴した兵が大いに集まった。延綏・寧夏の四鎮、河南・山東・天津・雲南・浙江・広西の兵が至って踵と背が相属き、各土司もまた命を用いた。総督の李化竜は兵を八路に分けた。
  • 川の師は四路に分けた。総兵の劉綎は綦江から入り、参将の麻鎮らを隷して参政の張文耀に監させた。総兵の馬孔英は南川から入り、参将の周国柱、宣撫の冉御竜らを隷して僉事の徐仲佳に監させた。総兵の呉広は合江から入り、遊撃の徐世威らを隷して参議の劉一相に監させた。副将の曹希彬は呉広の節制を受けて永寧から入り、参将の呉文傑、宣撫の奢世績らを隷して参議の史旌賢に監させた。中軍は標下の遊兵を率いて策応した。
  • 黔の師は三路に分けた。総兵の童元鎮は土知府の瀧澄、知州の岑紹勲らを統べて烏江から、参将の朱鶴齢は童元鎮の節制を受けて宣慰の安疆臣らを統べて沙渓から、総兵の李応祥は宣慰の彭元瑞らを統べて興隆から進み、参議の張存意、按察司の楊寅秋に監させた。
  • 湖広の偏橋一路は両翼に分けた。総兵の陳璘は宣慰の彭養正らを統べて泥から、副総兵の陳良玭は陳璘の節制を受けて宣撫の単宜らを統べて竜泉から進み、副使の胡桂芳、参議の魏養蒙に監させた。偏橋の江外を四牌、江内を七牌としたのは、五司の遺種および九股の悪苗が盤踞していたからである。黔の撫の郭子章は貴陽に駐まり、楚の撫の支可大は沅州に移った。
  • 部署が定まると文武を重慶に大会し、壇に登って師に誓った。二月十二日、道を分けて並び発した。路ごとの兵は約三万人、官兵は三分、土司は七分であった。苗は見て驚き「今度は真の天兵だ。昔とは違う」と言った。
  • 総督は諸将に婁山などの関に抵ることを期として諭し、鎮を重慶に移して節制し、かつ「関外は戦いつつ招け。降る者は多くて誅し尽くせぬ。関内は疾く戦って降を受けるな。師は久しく老いさせられぬし、賊の詐りは信じられぬ」と言った。
  • 先に蜀の玉壘山がにわかに裂けた。みな「昔年、九絲を平らげたとき地がしばしば動いた。おそらく播が平らぐ前兆であろう」と言った。
  • 十五日、劉綎が進んで綦江に入り、連戦して三峒を破った。綦江から東渓を経て播に入るには峻嶺と茂った箐が並び、楠木・山羊・簡台の三峒はもとより奇険と号し、賊首の穆炤らが盤踞していたが、劉綎が力戦して克った。
  • 三月、楊朝棟が苗兵数万を統べて道を分けて迎え敵し、鋒は甚だ鋭かった。我が師は挟み撃ち、劉綎は自ら陣に陥り込んだ。苗は大いに驚いて「劉大刀が至った」と言い、朝棟は囲みを潰えて走り、危うく我に獲られるところだった。
  • 初め綦江の諸苗は自ら城を屠り惨たらしく戮した罪は赦されぬと計り、しかも応竜は劉綎の威名を憚ってまずその鋒を挫くことを冀い、朝棟に勁兵をことごとく属して間道から角い、「なんじが綦江を破って南川に馳せ、積聚をことごとく焼けば、他は為すことができぬ」と言った。ところが朝棟がわずかに身だけ免れると、賊は胆を落としていよいよ守禦の計を為した。
  • 諸軍は道を分けて並び捷った。南川では酉陽・石砫の二司が先登し、八日に桑木関を克った。烏江では壩陽・永順の兵が先登し、十一日に烏江関を克り、翌日に河渡関を克った。陳璘および副将の陳寅が四牌の賊を撃つとそれぞれ披靡し、ついに天都の三百落の諸囤を奪った。
  • 賊は続けて敗れると隙に乗じて奇兵を出してにわかに烏江を犯し、詐って水西の瀧澄が会哨すると称して永順の兵を誘い、橋を断って淹れ死なせ、我が師は数知れぬ死者を出した。参将の楊顕、守備の陳雲竜・阮王竒・白明逵、指揮の楊続芝らが死んだ。事が聞こえて総兵の童元鎮を逮えて理に下した。
  • 当時、「水西が賊を佐けている」という飛語があり、総督が水西に檄して詰ると、水西は自ら安んじなかった。折しも賊がその頭目の瀧澄大眼を殺した。二十六日、賊が田氏の修好に託して瀧澄に賄うと、瀧澄はその使いを戮して偽将の楊惟棟らを撃ち斬り、安疆臣もまた賊二十余人を執えて背かぬことを示した。
  • 二十九日、劉綎が九盤で戦って婁山関に入った。関は賊の前門で、万峰が天に挿し、中に一線が通じるのみだったが、我が師は間道から藤を攀じて魚のように連なり、柵を毀って入った。

萬曆二十八年四月〜六月(海竜囤の攻略と応竜の死)

  • 四月朔、白石に屯した。応竜が身自ら各苗を率いて死を決して戦い、陰かに楊珠らに後山を抄らせて関を奪い四面から合囲させた。都司の王芬が流矢に中って死んだ。劉綎は自ら騎を勒して堅きに衝み、遊撃の周敦吉、守備の周以徳を両翼に分けて挟み撃って破り、養馬城まで追い奔って南川・永寧の路と合し、続けざまに竜爪・海雲の険囤を破って海竜囤に迫った。
  • 海竜囤は賊の倚る天険で、飛鳥も騰る猿も踰えられぬところである。当時、偏沅巡撫都御史の江鐸がすでに任に抵って師を視ていた。陳璘将軍が師を帥いて急ぎ攻め、十三日に青蛇囤を破り、安疆臣もまた十六日に落濛関を奪って大水田に至り、桃渓荘を焼いた。
  • 賊は勢いの急なるを見て父子相い抱いて哭き、囤に上って死守した。路ごとに降を投じて我が師を緩めようとしたので、総督は「賊が詭って降れば、ただちに使いを斬り書を焼いて紿かされるな」と檄した。劉綎が応竜と旧交があるのを虞って、賊と通ずるなと檄すると、劉綎はその人に械をつけて自ら明らかにした。
  • 呉広は朔三日に崖門関に入って水牛塘に営し、賊と力戦すること三日で却けた。賊は詭って婦人に囤の上で表を拝させて痛哭させ、「田氏がまさに降ろうとしている」と言い、さらに詐って「応竜が薬を仰いで死んだ」と呉広に報せた。呉広は軽々しく信じて兵を按じて動かなかった。やがて田氏の詐降で攻めを緩めたことを覘い知り、また「応竜が死んだ」というのは、川の兵が囤を攻めて火砲で撃ち殺したいわゆる楊珠であったと知った。楊珠は驍勇で戦に長け、死ぬと賊は左右の手を失ったように痛んだ。
  • 呉広は詐りに気づいていよいよ兵を厲まして協め攻め、二関を焼き、三山を奪って賊の樵・汲を絶った。八路の兵は海竜囤の下に大いに集まった。五月十八日、初めて長囲を築き、番を更えて迭いに攻めた。これ以来、賊は窮まった厓に坐して困り、兵が頸に在ることを知った。
  • 折しも総督の李化竜が父の喪を聞いた。詔して縗墨で師を視させ、李化竜は跣で檄を草し、いよいよ軍を治めた。賊の囤は前が陡しく絶えて飛び越えがたい勢いだと考え、馬孔英に勁兵を率いてその間に壁させ、余りは力を併せて後の囤を攻めさせた。当時、天は苦しい雨で、将士は泥濘の中を馳せて苦戦した。
  • 六月四日、天がにわかに開き朗らかとなった。五日、劉綎は士卒に身先んじて進んで土城を克った。応竜はいよいよ迫り、夜に数千金を散じて死士を募って拒み戦わせようとしたが、諸苗はみな駭き散じて応ずる者がなかった。起って刀を提げて自ら塁を巡ると、四面の火光が天を燭らしていた。彷徨して長く嘆じ、泣いて妻子に「吾はもうお前たちを顧みることができぬ」と語った。
  • 明朝、我が師はついに囤に登り大城を破って入った。応竜は倉皇として愛妾二人と一室ともに縊れ、かつ自ら焼いた。呉広はその子の朝棟および妾の田雌鳳を獲た。急ぎ屍を焔中から覓め出したとき、呉広は火の毒に中って声を失いほとんど絶えかけたが、しばらくして甦った。
  • 出師から賊を滅ぼすまで計百十四日。八路で共に級二万余を斬り、朝棟・兆竜ら百余人を生け獲った。播の賊は平らいだ。総督が露布して聞かせ、劉綎将軍が軍功の冠となった。
  • 十二月、闕下に俘を献じ、楊応竜の屍を剉り、楊朝棟・兆竜らを市で磔にした。播の地を二つに分け、蜀に属するものを遵義、黔に属するものを平越とした。

史論(谷応泰曰)

  • 楊応竜は播州の土司官である。その地は漢の牂牁郡に属し、唐の乾符年間に楊端が募りに応じて子孫に長じた。宋・元を歴てみな世官を授かり、明室もこれに因った。
  • 応竜は生まれつき雄猜で、とりわけ兵を恃んで殺を嗜んだ。しかしその賓服と叛逆が一定せず荒忽として常なきは、土司の風もまた類としてそうなのである。応竜も初めは喇麻の征に従い、大木を進貢し、忠順を効して賞賚を膺けたこともあった。
  • ところが小妻の田雌鳳を嬖して妻の張氏の家を屠り、何恩・宋世臣が連ねて章を上って変を告げた。黄牛・白泥の諸司は久しく仇讐であり、およそ七姓の諸豪はみな応竜が罪を得るのを喜んで、その徴に就いて対簿するのを欲しなかった。しかも五司の遺種、九股の頑苗および軽剽で乱を作すのを好む徒がその間で鼓動し、悪を同じくして相い済した。応竜は狼子の野心とはいえ、いわゆる蛮郷に生い長って善を為すべき相手がなかったのである。
  • 幸いだったのは、援兵が大いに集まって調度が多方だったこと、督臣の李化竜に発蹤の才があり、総戎の劉綎が当時の軍功の冠であったことだ。八路に兵を分け、四月にして捷を告げ、ついに応竜は屍を戮せられ朝棟は市に棄てられた。威は遐荒に震い、功業は爛らかである。
  • しかも重慶の会で壇に登って師に誓い、海竜の囲みで期を刻んで並び到った。兵法に「兵は謀あるを貴ぶ」といい、また「多く算するをもって勝つ」という。まことに先にその規模を定めたのであって、漫りに一撃を試みたのではない。
  • 応竜のような者は、辺陲に倔強して漢の大宗が嗣いで蕩滅することを知らず、ついに世の戮笑を取った。険に憑み固きに負む者の戒めとするに足りる。悲しいことである。