明史紀事本末巴拜を平定する(平巴拜)
万暦二十年(1592年)二月から九月までの寧夏の乱と、その平定を扱う。韃靼出身で副総兵に至った巴拜が、巡撫の党馨との対立から軍鋒の劉東暘の反乱をけしかけ、党馨を殺して寧夏城に拠り、子の承恩・許朝・土文秀らとともに河套の卓哩克図らと結んで全陝を震わせた。総督の魏学曽が城堡を回復したものの鎮城を落とせず、葉夢熊が代わって剣を賜り、李如松・麻貴・蕭如薫らを指揮して水攻めを行い、河套の援軍も董一元らが撃退した。九月、梅国楨が油売りの李登を使って離間すると、賊は内部で殺し合い、承恩が擒にされて乱は平らいだ。
年表(5件)
- 神宗
- 萬曆二十年二月(寧夏の乱の勃発)1592年劉東暘が党馨を殺し、巴拜父子が寧夏城に拠って叛く
- 萬曆二十年三月〜四月(官軍の反撃と城堡の回復)李昫らが営堡四十七を回復し、蕭如薫が平虜で哱雲を射殺す
- 萬曆二十年五月〜六月(李如松の起用と包囲)李如松と梅国楨が至って鎮城を囲むが攻城は利あらず
- 萬曆二十年七月〜八月(水攻めと套部の撃退)葉夢熊が総督に代わって堤を築き水を灌ぎ、套部を張亮堡で破る
- 萬曆二十年九月(城の陥落と巴拜父子の死)承恩が劉東暘・許朝・土文秀を殺した後に擒となり、巴拜は自ら縊れる
神宗萬曆二十年(1592年)二月(寧夏の乱の勃発)
- 寧夏の巴拜が乱を起こした。巴拜はもと韃靼の種である。嘉靖年間、巴拜がその酋長に罪を得て父兄はみな殺されたが、巴拜は水草の中に伏して免れ、来て守備の鄭印に投じて麾下に隷した。驍勇でしばしば戦功を立て、歴陞して都指揮となった。
- 巴拜の妻の施氏が孕んで産もうとしたとき、巴拜は夢に空中で大きな響きがして天が裂け火焔が出、一匹の妖物が虎のように施氏の脇下に入って見えなくなるのを見た。巴拜は急ぎ手ずから剣で刺そうとして驚き覚め、そこで子を産んだ。狼の貌で梟の蹄をしており、承恩と名づけた。
- 万暦十七年、巴拜は副総兵を加えられて致仕し、子の承恩が襲いだ。十九年、洮河が警を告げると、上は科臣を遣わして九辺を巡らせ、尚宝丞の周宏禴が御史として寧夏に赴き、承恩および指揮の土文秀、併せて巴拜の義子の哱雲らを挙げた。巴拜は老を請うたとはいえ、日ごろ多く蒼頭の軍を畜えて報国を声称していた。
- 折しも経略の鄭洛が夏鎮に檄して調発させた。巡撫の党馨が檄を奉じて土文秀に千騎を率いて西を援けさせた。巴拜は驚いて「文秀は戦陣を経たとはいえ、独りでは将たりえまい」と言い、鄭洛の轅門に詣でて部下三千人と子の承恩をもって従軍したいと願った。鄭洛は壮として許した。党馨はその自薦を悪み、痩せた馬を易えてやらず、余った馬があっても巴拜に給さなかった。巴拜は怏々として去った。
- 金城に至って諸鎮の兵がみな自分の下であるのを見た。賊が平らいで馳せ還るとき径ちに塞外を取ると、戎の騎は辟易して敢えて逼らなかった。そこで中外を軽んじる心を抱き、恣睢驕横となった。党馨はそのたびに裁ち抑え、しかも巴拜の粮を冒した罪を覈べようとした。承恩は民女を強いて娶って妾としたので笞二十を加えられ、哱雲・土文秀もまた陞授の件で党馨を怨んだ。
- 折しも鎮の戍卒が冬衣の布花と月糧を請うたが久しく給されず、坐営の江廷輔が前の銀を給して衆心を安んずるよう請うと、党馨は「これは挟むところあって求めるものだ。漸を長ずべきでない。彼らは族せられるのを畏れぬのか」と言った。軍鋒の劉東暘が撫署の前の鹿角を抜いて忿った様子を示すと、巴拜は「なんじらは任せてやれ」とけしかけた。そこで群がって哄いて制せなくなった。劉東暘は靖虜衛の人で、日ごろ梟桀で異志があった。
- そこで党を糾して朝、帥府に入って事を白した。総兵の張維忠は日ごろ威望が乏しく衆に軽んじられており、衆を見て驚き懾れて弾圧できなかった。衆は刃を露わして副使の石継芳を捕らえ、擁して軍門に入った。党馨は急ぎ水洞に匿れたが、索め得られて書院に劫かされ、石継芳とともに戮された。二月十八日のことである。
- そこで火を放って公署を焼き、符と印を収め、囚を釈し、城中を掠め、張維忠を劫かして「糧を侵して変を激した」と報告させた。当時、河東僉事随府通政の穆来輔がたまたま鎮に抵ったので、賊は併せて劫かして招安を請わせ、師を緩めさせた。
- 二十日、総督尚書の魏学曽は花馬池を行部して変を聞き、標下の張雲・郜寵を遣わして降を諭させた。二十三日、哱雲と土文秀が兵五百を統べて中衛の互市から帰り、叛卒と合して遊撃の梁璂、守備の馬承光を殺した。二十五日、勅と印を索め、張維忠は与えて自縊して死んだ。
- 劉東暘はそこで自ら総兵と称し、巴拜の主謀を聴いて城に拠り、牲を刑して盟い、承恩・許朝に左右副総兵を、土文秀・哱雲に左右参将を授け、慶王を挟んで代わりに罪の赦免を請わせた。承恩はそこで兵を勒して王虎・何安らを分け遣わして城堡に拠らせた。
- 張雲らが至ると劉東暘は「必ず我を降らせようというなら、我が自ら署した官職に依って授け、世々寧夏を守らせよ。さもなくば套の騎とともに潼関に馳せる」と言った。承恩は玉泉営を徇え、遊撃の傅垣が拒み守ったが、千戸の陳継武が傅垣を捕らえて降った。中衛を徇え、広武を徇えると、参将の熊国臣は城を棄てて河西に匿れ、風を望んで靡いた。ただ土文秀が平虜を徇えたとき、参将の蕭如薫が堅く守って下らなかった。
- 蕭如薫の妻の楊氏は総督尚書の楊兆の娘である。蕭如薫に「あなたが忠臣となられるなら、妾が忠婦となるのに何の難きことがありましょう」と言い、簪や耳飾りをことごとく出して軍士を労い、妻たちを率いて城を守った。賊は攻め囲むこと数か月、ついに克てなかった。
- 賊はまた兵を率いて河を過ぎて霊州を取ろうとし、金帛を齎して套部の卓哩克図らを誘い、花馬池一帯にその駐牧を聴すことを許した。勢いは大いに猖獗となり、全陝は震動した。
萬曆二十年三月〜四月(官軍の反撃と城堡の回復)
- 三月四日、副総兵の李昫が総督の魏学曽の檄を奉じて総兵を摂して進み勦めた。遊撃の呉顕を統べて霊州に趨り、別に遊撃の趙武を遣わして鳴沙州に趨らせ、奇兵を張って河沿いに賊の南渡を扼し、転戦して賊の于正ら八人と舟十八艘を獲た。賊の鋒はやや挫け、総督は下馬関に駐まって徴調した。
- 当時、霊州の禆将の呉世顕が逆に党し、この月の九日に賊と応ずることを約していた。参将の来保が死を誓って守り、賊が書を齎して詐って門に来ると拒み却けた。李昫は聞いて急ぎ呉顕とともに道を兼ねて馳せ赴き、逆謀は初めて折れた。
- 翌日、延綏・蘭州・靖虜の兵を調えてやや集まり、李昫はそこで分け遣わして河を渡り営堡を収復させた。広武の偽遊撃の張天紀、大壩の偽守備の高天爵はみな遁れた。十五日、棗園堡を復し、靖虜参将の呉継祖が中衛を衝いて賊党の王虎を擒にし、石空寺堡もまた下って偽守備の何安を獲た。
- 二十日、套部の千騎が邵剛堡に迫ったが、千総の汪汝漢が三矢を発して三人を殺すと解き去った。進んで玉泉営を復した。およそ先後に収め還した営堡は四十七、河西ではただ鎮城だけが賊に拠られた。
- 三日後、総督は師を小塩池に移した。巴拜は套部がまさに至ると聞いて土文秀・許朝に属して分かれて馳せ迎えさせた。二十五日、卓哩克図・打正らが控弦三千騎を引いて金貴堡に馳せ、二十七日には鎮河堡に移って演武場に入り屯した。賊はいよいよ城中の子女を掠めて媚び、河東西の地図を奉じた。套の人は「すでに哱王子と一家となった」と声言した。巴拜と土文秀は並んで服を易えて兵を合わせ、玉泉を急に攻めた。
- 二十九日、哱雲が卓哩克図を引いて平虜堡を攻めた。参将の蕭如薫が南関に兵を伏せ、佯って敗れて誘い入れ、伏兵が哱雲を射て死なせ、併せて驍賊の呉敖霸を傷つけた。套部は塞に遁れ出、そこで糧道を掠め、花馬池の諸処を犯すと声言した。趙武が玉泉に駐まって困められ急となったが、李昫が馳せ赴いて囲みもまた解けた。
- 李昫は原任総兵の牛秉忠と会して六路の兵を督し、翌日に鎮城の下に抵った。当時、総兵はすでに董一奎に擢せられ、李蕡がその副となっていた。官兵が城下に抵ると、賊は東北の二門からそれぞれ精騎二千を出して摶戦し、歩卒は火車を列ねて営とした。
- 四月五日、我が師は鋒に衝んで火車百余輛を奪い、追い奔って河に入り、溺死した賊は数知れなかった。延綏副総兵の王通の戦いはとりわけ力めた。その家丁の高益ら三人が勝ちに乗じて先登し、北門に殺し入って楡林の諸帥の兵を後継に招いたが至らず、殺された。王通も額を傷つけた。楡林遊撃の兪尚徳が戦死した。
- 翌日、許朝と土文秀が慶王を脅して東城の上の楼に至らせ、暫く兵を罷めるよう乞い、首悪を縛って献ずると願い、劉川・白金らを献ずるといった謾語で支吾し、そのうえ誥勅を城下に投じて畏れるところなきを示した。
- 巴拜の妻の施氏はこのとき諫めたが聴かれず、また笏を珮びて立ち、巴拜に「近ごろ何ゆえこのような悖徳・不祥のことをして、自ら奇禍を取るのか」と言った。承恩は推し跌かせて去らせた。
- 承恩は南城に登り、遥かに都司の李鯤に言った。「吾が父は万死を出て国のために辺を捍ぎ、恩を蒙って上将に至った。撫臣が朘り削って変を激し、自ら滅亡を取ったのだ。吾ら父子は部曲を勒して命を待った。事に当たる者が察せず、かえって罪とする。いま首悪はみな在るのに、乱を倡えた者を罪せず乱を戢めた者を罪する。吾はむしろこの完き城を保ち、塞北と結んで自ら全うするのみだ」。
- 折しも官軍は糗糧に乏しく、そこでこれに借りて近くの堡で士を休ませた。総督は日夜、芻餉を促し、延綏・荘浪の兵を調えて二十一日に進攻し、再び城下に抵った。塹濠を掘り雲梯を竪てて挟み攻めたが、賊は敵を迎えて多く殺傷した。承恩と劉東暘は精騎を勒してひそかに伏し、延渠から我が糧餉二百余車を掠めた。
- 先に衆議は李蕡が衝辺の才でないとして、麻貴を戍所から調えて代えることにした。麻貴は日ごろ勇で聞こえ、しかも蒼頭の軍が多かった。このとき軍もまた至った。
- 二十九日夜、麻貴らが風に乗じて火を放ち、さらに雲梯で城を攻めたが、賊はあらかじめ滾木・礧石を用意して待ち、火を擲って我が兵千数を焼いた。
- 賊は日ごとに淫虐を恣にし、城中の婦女・宝貨はすでに捜し括られたのになお根こそぎ索めてやまず、死者は甚だ多かった。慶府を迫り脅すことも甚だ急で、妃の方氏は辱めを懼れて剣を抜いて自刎しようとした。保母が抱き持って世子とともに土窖の中に匿れ、被服を井の上に置いた。環って哭くと、賊は溺れたと信じ、金帛および他の宮人をことごとく取って去った。窖を開けると妃はすでに死んでいた。
- 総督はおよそ兵を用いること二か月、成功なくこれを憂えた。ある者が「劉東暘・許朝を招き、陰かに意を授けて巴拜父子を殺させ、功を立てて罪を贖わせれば応ぜぬはずがない」と言った。督府はその謀を然りとして、家丁の葉得新を遣わして会いに行かせた。しかしこのとき四人はまさに生死を共にすることを約しており、離間できなかった。その謀を暴いて葉得新を捕らえ、脛を折って獄に下した。
萬曆二十年五月〜六月(李如松の起用と包囲)
- 李如松に寧夏の兵を総べさせ、浙江道御史の梅国楨にその軍を監させた。当時、言者は「李氏は重兵を握っており、虎を拒んで狼を進めるべきでない」と言ったが、梅国楨は力めて「李如松は忠勇で任じうる」と保証したので、この命があった。
- 寧夏巡撫にはすでに朱正色が推されていた。甘粛都御史の葉夢熊が書を上って賊を討つことを願い、詔して協力して赴かせた。
- 五月、巡撫の朱正色が河を渡って戦を督し、上命により将士に賞を頒つと、一軍は踴躍した。賊は聞いて詭って降を請うた。張傑はかつて寧夏の兵を総べて巴拜と親交があったので、追って入城して招安した。張傑が単騎で赴いて厳しく責めると、許朝は葉得新が間を用いて謀殺しようとした話を述べた。張傑が信じなかったので、葉得新を舁いで来させて実を吐かせた。葉得新は大いに罵って「死んだ犬の賊め。計が行われなかったのは天命だ。天は旦夕にお前を磔にする。何を喋々とするか」と言った。許朝は怒って刀を攢めて殺し、張傑もまた繋がれた。
- 当時、兵を頓めること数か月でまだ下せなかったので、重く賞格を懸けて巴拜らを購った。上は特に総督の魏学曽に剣を賜り、違う者は立ちどころに斬らせた。
- 六月、都御史の葉夢熊が霊州に至った。甘州から神砲・火器四百車を携えて至り、さらに法を約して苗兵を増徴した。折しも浙江巡撫の常居敬が浙江の千人を募り、糗糧は自弁とした。詔してその忠を嘉して寧夏に調え赴かせた。
- そこで五軍に分け、董一奎がその南を攻め、牛秉忠がその東を攻め、李昫がその西を攻め、劉承嗣がその北を攻め、麻貴が遊兵を率いて策応した。二十日、並んで城下に逼った。巴拜が北門から出て戦い、自ら赴いて套部を勾おうとしたが、麻貴が参将の馬孔英を率いて先登して敵に赴き、巴拜を逐って城に入らせ、百十七を擒斬した。
- 先に巴拜は套部と深く結び、日夜、卓哩克図の帳中から調度に便じていた。このとき城に入って出られなくなり、套部は巴拜を得られず、また敢えて河を渡って深入りしなかった。
- 二十二日、御史の梅国楨、提督の李如松が遼東・宣府・大同・山西の兵を統べて集まり、軍声は大いに振るった。賊は城に嬰って自ら守った。梅国楨が受降の旗を城南に樹てると、賊は面と向かって帰順を陳べたいと索め、許された。劉東暘・許朝らが梯で城を下りると、剣戟は鱗のごとく次ぎ、刃の芒は目を曜かし、城上はみな弦を控えて矢を注いで待った。梅国楨が騎を策って直ちに前に出ると、許朝は大いに驚いて覚えず膝を屈した。しかし賊は実は我を紿かして降る意はなく、これ以来、力を尽くして城を攻めた。
- 二十五日、我が師は布袋三万に土を盛って填め集め、城に登ろうとしたが砲石に撃たれて却けられた。都司の李如樟が夜半に雲梯で南城に上り、翌日、遊撃の龔子敬が苗兵を提げて南関を攻め、李如松が勢いに乗じて擁して入城しようとしたが、みな砲と箭に撃たれて却けられた。我が兵が食事をしていると、賊はただちに縋り下りて梯と牌を奪い、いよいよ火を縦って攻具を焼いた。
- この夜、指揮の趙承光・葛臣・戚欽、武生の張遐齢、百戸の姚欽が内応を約し、夜半に四面から一斉に烽火を挙げ、城下の兵が趨り上ることとした。ところが譙楼の火が早く発し、南の火もまた起こった。城中は果たして鼓譟して大いに「賊を殺せ」と呼んだ。姚欽は張遐齢に城を縋らせて外兵を召させたが、行くこと中道に至らぬうちに姚欽はまた急ぎ城下に跳んで救いを呼んだ。しかし賊は早くに覚っており、すでに趙承光・戚欽らをことごとく縛って殲していた。許朝はそこで小南門を開いて逸れようとしたが、外兵が整っていて敢えて出なかった。これ以来、城中の糧はまさに尽き、鋭気はいよいよ喪われた。
萬曆二十年七月〜八月(水攻めと套部の撃退)
- 七月、給事中の許子偉が総督尚書の魏学曽が招撫に惑わされたことを弾劾して秩を罷め、葉夢熊を代わりとし、剣を賜ることは旧のごとくとした。
- 七月二日、許朝らが南関に至って総兵の董一奎に款を語ることを請うた。僉事随府が隙に乗じて家人とともに関防を抱いて城から躍り下りたが、肱を傷つけて起てず、賊はまた縋って捕らえ獄に繋いだ。
- 翌日、水攻めを議定した。寧夏城は西北が低く、しかも金波・三塔の諸湖の水に近く、東南は観音湖・新渠・紅花渠に逼っており、形は釜の底のようだった。そこで城を繞って堤を築き、十七日に堤が成って長さ千七百丈、水を決して灌いだ。
- 先に巴拜は養子の克哷該を遣わして卓哩克図に援けを求めさせた。李如松はその状を詗い知って禆将の李寧に追って斬らせ、併せて従騎二十九級を斬り、符と令箭を獲た。
- しばらくして套部の荘禿頼と卜失兎が部落三万を合わせ、まず特黙・額勒吉哷らに定辺・小塩池を犯させ、打正は一万騎で花馬池の西の沙湃から入った。総督は麻貴に檄して偵撃させて打正を牽制し、別に董一元を遣わして虚に乗じて塞を出てその穴を衝かせた。麻貴が進んで石溝の傍らで戦うと敵はやや却き、分かれて下馬関および鳴沙州に趨った。総督は遊撃の龔子敬を遣わして苗兵八百を提げて沙湃口を堵らせ、東の定辺に趨って董一元と合わせた。
- まもなく董一元が「上昧の巣を衝いて三千余級を斬獲した」と報せ、套部は驚いて引き去った。打正が還って沙湃に至ると苗兵が直ちに前に出て扼したが、衆寡は敵せず十余重に囲まれ、龔子敬は力戦して死んだ。しかし套部はついに巣を衝かれて解散し、賊の授けは絶えた。
- 我が師はいよいよ大壩の水を決した。八月朔、城外の水は深さ八、九尺となった。この夜、賊が小舟で堤を挖って水を洩らそうとしたが、官兵は十六級を斬獲し、一人を生け捕った。その言うところ、「城中は穀に乏しく、士はことごとく馬を食い、馬は五百匹を余すのみ。民は樹皮を食い、死亡は相い属いている」。
- 翌日、城の東西が百余丈崩れ、都司の呉世顕、参将の来保の担当した堤もそれぞれ二十丈崩れて水が頓に減った。総督は呉世顕を斬って徇え、来保は霊州の功によって免じ、なお力を尽くして堤を補わせた。賊はしばしば兵を出して擾しに来たが、多く斬獲された。城中の飢民が賊に擁して招安を求めた。
- 十二日、御史の梅国楨は賊に檄して「飢民のゆえに銭穀を治めた。檄が到って三日で関を開いて大兵を迎え入れれば賑わす」と言ったが、賊は答えなかった。
- 当時、套部がしばしば堡に闌れ入って救いに来た。二十一日、卓哩克図が八百騎で鎮北堡に入り、また衆一万余を擁して李剛堡に入り、部を分けて河を渡った。総兵の李如松は禆将の李寧らを遣わして黄硤口に馳せ赴いて撃たせ、勁卒千余をもって自ら策応に赴いた。張亮堡に至って敵と遭って摶戦し、卯から巳まで、敵は甚だ鋭かった。李如松は剣で縮み退く者二人を斬った。折しも麻貴・李如樟らもまた至って左右翼を張って挟み撃ち、李寧が手ずから二人を殪すと敵はついに却いた。追い奔って賀蘭山に至り、ことごとく塞を走り出た。我が師は捕斬すること百二十余級、駝馬を獲ること数知れなかった。そこで級を移して賊に示すと、賊はこれがために気を奪われた。
萬曆二十年九月(城の陥落と巴拜父子の死)
- 九月三日、参将の楊文が浙兵を提げて至り、やがて苗兵と荘浪の兵もみな至った。臨衝の船筏を大いに治め、日を刻んで城を攻めることにした。総督の葉夢熊は軍中に「先登して城を下せる者があれば万金を与える」と布告した。
- 五日後、水が北関を浸して城が崩れた。南関の薛永寿らが内応を約し、我が師は陽に舟筏を調えて北関を撃った。承恩・許朝は果たして北関に趨って鏖戦した。李如松と蕭如薫はひそかに鋭卒をもって南関を掩った。総兵の牛秉忠は年七十で、勇を賈って先登した。梅国楨は諸将に「老将軍が城に登られた。他の者はどうして怯れるか」と呼び、そこでみな登った。葉夢熊が入城して百姓を労い苦しんだ。
- 承恩らは南関の下を見てことごとく気を奪われ、そこで急ぎ張傑を縋り下ろして死を貸すよう懇願した。葉夢熊は陽に許諾しつつ、いよいよ攻具を治め、まず王機を遣わして密かに蠟書で間を行った。
- 当時、承恩は撫を求めながら門を塗り塹を断って守ることいよいよ固かった。油を売る李登という者があり、跛で片目、罌を負って市で木歌して「癰は決せずして痏に狃れ、危巣は覆らずして梟を止まらせる」と歌った。監軍の梅国楨は聞いて「これは使いうる」と言い、李登を召して三通の劄を授け、木に縛って東門に渡らせた。
- 承恩に会って言った。「監軍は、哱氏に安塞の功があるのに、いま鼠輩と首を並べて誅されるのを深く惜しんでおられる。軍中に使いに欠くわけではないが、登は残った民で駭き視られぬので、密記を将軍に授けさせられた。将軍が幸いに意あって登に聴かれるなら劉東暘・許朝を殺して自ら贖われよ。聴かれぬなら麾下に死ぬまでで、登を留められるな」。承恩は猶予して許した。
- 李登は趨り出て、間道から劉東暘と許朝のもとにも詣で、それぞれ劄を致して言った。「将軍はもと漢の将である。乱の首は哱氏にあるのに、なぜ身を横たえて人とともに禍いに嬰るのか。鎮の卒がいくらあって都督の軍に当たれよう。これは乳雀を駆って群鶻と闘わせるのと変わらぬ。恃むのは套の援けにすぎぬが、将軍は演武台の上のことを覚えておられぬのか。彼は土哱を親しむ。目中にどうして将軍があろう。智を貴ぶ所以は、時を度り勢いを審らかにして禍を転じて福となしうるからだ」。劉東暘と許朝もまた心を動かし、これ以来、互いに猜疑した。
- 十六日、囲みはいよいよ迫った。劉東暘は足を頓んで嘆き、「ついにここに至ったか」と言い、佯って風疾を装って土文秀を殺し、「好い頭頸だ。他人に砍らせるな」と言った。
- 先に鎮の民の郭坤に美しい妾があった。郭坤が死ぬと賊党の周国柱が繭帨一双で聘した。許朝もまた行って議したが、妾は「すでに周家の聘を受けました」と言った。許朝が周国柱に問うと「まことにそのとおり」と言い、許朝はその譲らぬのを怒って恨んだ。
- 折しも承恩は李登の説を聞いて惶れ惑い、親しい石棟を召して計を問うた。石棟は「周国柱は事を審らかに見て決します。劉東暘の臣ではありますが許朝と隙があります。呼ばれてはいかがです」と言った。周国柱が至ると承恩は謀って「劉東暘と許朝を召して飲ませ、酔ったところを誅そう」と言った。周国柱は「両家の前後にはみな戈鉞の士がおります。一をもって二を制するのは万全ではありますまい。将軍は計って許朝を城南で誅されよ。柱は隙に乗じて劉東暘を取りましょう」と言い、承恩は然りとした。
- 明け方、承恩は許朝を訪ねて呼んだ。許朝はちょうど坐って考訊しているところだった。承恩は急ぎ「将軍はどうしてこんなことを問う暇があるのか。密事がある。楼に登って議そう」と呼び、衆を退けて言った。「将軍は周国柱に異心があるのをご存じか。私は将軍とその首を断とうと思う」。言い終わらぬうちに承恩の家卒の世富・大宜がにわかに「外営の砲が楼に向いております。長く駐まるべきではありません」と言った。承恩が疾く下り、許朝は跛で後から従い、大宜が扶けた。梯の半ばで世富が佩剣を抽いて砍り、首は梯の下に落ちた。そこでその従騎を縛ってことごとく斬った。
- 周国柱は塵が湧き起こり兵と剣の音がするのを見て事が成ったと知り、鎧を披て楼に登り、佯って劉東暘に「官軍がすでに南城に入りました」と言った。劉東暘は驚き起って軒に憑んで望んだ。周国柱は後ろから斬ったが死なず、走って厠房に入って戸を支えた。周国柱は足を引いて戸を破り、その首を梟して出た。衆が「国柱はなぜ将軍を殺したのか」と騒ぐと、周国柱は叱って「お前たちが避けねば、死んで官軍に走られる。ことごとくお前たちを斬ろう。一逆賊を誅したのに何を騒ぐか」と言い、衆はことごとく散じた。
- 承恩は劉東暘・許朝および土文秀を殺し、首を城上に懸けた。そこで李如松・楊文が先登し、蕭如薫・麻貴・劉承嗣が継いで、大城はことごとく定まった。北楼から火が起こり、李如樟が馳せて捜索し、寧夏巡撫の関防および征西将軍の印を各一つ獲た。
- 当時、哱氏はなお蒼頭の軍を擁していた。総督の葉夢熊は霊州にあって聞き、急ぎ「明朝までに哱氏を滅ぼさぬ者は尚方に服す」と令した。
- 十七日の朝、承恩がちょうど南門に馳せて監軍の梅国楨に謁しに来たので、参将の楊文を出して捕らえた。李如松は急ぎ兵を提げて巴拜を囲んだ。巴拜はちょうど牛秉忠と飯を食っていたが、承恩が擒にされたと聞いて牛秉忠は趨り出た。衆が拒み敵そうとすると、李如松は箭を給して甲を卸がせた。巴拜は倉皇として縊れ、一室ことごとく自ら焼いた。李如樟の部卒の何世恩が火の中から巴拜の首を斬り、巴拜の中子の承寵、養子の哱洪大・土文徳・何応時・陳雷・白鸞・陳継武らを生け捕った。
- 総督の葉夢熊、巡撫の朱正色、御史の梅国楨が随って入城して宗室・士庶を問い慰め、寧夏は平らいだ。捷が奏されて上は門に御して賀を受け、やがて箯輿で承恩を致して俘を献じた。
- 十一月、詔して哱承恩・哱承寵・哱洪大・土文徳らを磔にし、みな長安の市で並び斬り、天下および四裔の君長に頒示した。詔を下して慶王を慰め、寧夏の田租を復した。王妃の方氏が屈せず死んだのを特に褒め異とした。
- 大いに寧夏の功臣を賞し、葉夢熊・朱正色・梅国楨にそれぞれ世官を蔭した。武臣では李如松の功が第一で宮保を加え、蕭如薫がこれに次ぎ、麻貴・劉承嗣・李如樟・楊文・牛秉忠らに差をつけて恩を加えた。蕭如薫の妻の楊氏が平虜を守った功で制勅して旌賞し、事に死んだ龔子敬に都督僉事を贈った。給事中の曹大咸が穆来輔の随府としての依違を弾劾し、緹騎が逮治して辺に戍らせた。魏学曽は原官で致仕した。
史論(谷応泰曰)
- 巴拜は嘉靖年間に亡命して朔方に抵り、しばしば戦功を立て、万暦年間に副将の位を備えた。その子の承恩が爵を襲いだ。ところが巴拜は老を請いながら多く蒼頭の軍を畜え、報国を声言していた。異志がなかったわけではあるまい。
- そもそも矍鑠として纓を請い、その子を挟んで三千人を従えて西したのも、諸鎮の虚実を観、套部と結んで腹心とし、ひそかに陰謀を伏せて時を待って動こうとしたのではないか。どうして本当に廉頗の壮志、馬援の鞍に拠る意気があったろうか。
- 壮馬を給されぬこと、月糧を侵し尅されたことを党馨の罪としたのは、これは哱氏の権譎が兵端に借りたにすぎない。ゆえに劉東暘の変は巴拜がけしかけ、哱雲・土文秀の怨みは巴拜が陰かに中てた。
- 巴拜の意を揣るに、套を長城と恃み、緩ければ倚って外援とし、急なれば引いて内助とするにすぎぬ。そうすれば勝ちがあって敗れなき地に立ち、敢えて乱を倡え、軽々しく叛逆を為したのである。
- そうであれば、善く勦める者は巴拜を勦めるのではなく套を勦めるべきであり、套と巴拜の鋒鋭を挫くのではなく、套と巴拜の声援を隔てるべきであった。套が絶たれれば巴拜は孤なる雛、腐った鼠で、取るのは物を預けるように易い。
- 想うに、初め巴拜と套が「連なって一家となる」と声言したときにその情状は験べられた。劉東暘の恐喝は「套とともに潼関に馳せる」と言い、卓哩克図の入寇には「花馬池を与える」と言い、克哷該の援けを求めれば遠く荘禿頼を致すことができた。これこそ巴拜が套を恃んで相い倚って命としたところである。
- 善いかな、葉夢熊が帥となって五路に兵を分けて扼え守り、寧夏の巴拜は城を出られず、套は敢えて河を渡れず、哱氏の計は窮蹙を極めた。打正が驚き奔り賀蘭が遠く遁れるに至って、巴拜は遊魂とはいえ坐して縛れるようになった。
- とりわけ幸いだったのは、土文秀が劉東暘に殺され、劉東暘が周国柱に誅せられ、許朝が承恩に命を隕としたことである。初めは虎狼の残き物が類をもって聚まり、次いで昆虫が咬み合ってかえって相い攻めた。いわゆる天道とはこれであろうか、そうでないのか。
- 神宗が賀を受け承恩の俘馘を得たのは、軍を武くした諸臣が謀を協せて力があったからだが、葉夢熊が声して賊の討伐を請い自ら糗糧を弁じたこと、梅国楨が剣を仗いて軍に従い力めて李氏を保証したこと、蕭如薫の妻の楊氏が簪珥で軍を犒い群婦とともに固く守ったことは、とりわけ卓犖たるものである。