明史紀事本末朝鮮を援ける(援朝鮮)
万暦二十年(1592年)から二十七年(1599年)までの7年間にわたる、明の朝鮮救援戦争を扱う。関白の平秀吉が行長・清正らを遣わして朝鮮を侵し、朝鮮王の李昖が義州に逃れて内属を請うたため、明は李如松を提督として出兵し、平壌の大捷で四道を回復したが碧蹄館で敗れた。以後、兵部尚書の石星と沈惟敬が封貢の和議を進めて秀吉を日本王に封じたが、李宗城の逃亡と表文の不備で和議は破れ、邢玠・麻貴・楊鎬らによる再征となった。蔚山では大敗し、四路の進撃も利を得なかったが、秀吉の死によって倭は撤退した。凱旋後、陳璘・劉綎らが叙され、楊元と沈惟敬は棄市された。
年表(10件)
- 神宗
- 萬曆二十年五月(豊臣秀吉の朝鮮侵攻)1592年平秀吉の軍が釜山から侵入し朝鮮王が義州に奔って援けを請う
- 萬曆二十年七月〜十二月(初戦の敗北と沈惟敬の交渉)祖承訓が平壌で敗れ、沈惟敬が行長と和を探る
- 萬曆二十一年正月(平壌の大捷と碧蹄館の敗)1593年李如松が平壌を抜いて四道を復すが碧蹄館で大きく損なう
- 萬曆二十一年三月〜四月(竜山の焼き討ちと王京の回復)竜山倉を焼いて倭を飢えさせ、倭が王京を棄てて退く
- 萬曆二十一年六月〜十二月(封貢の議と朝廷の論争)倭使が款を請い、封貢の可否をめぐって廷臣が争う
- 萬曆二十二年〜二十四年(1594〜)(封使の派遣と李宗城の逃亡)1596年正使の李宗城が逃亡し、楊方亨と沈惟敬が秀吉に封を授ける
- 萬曆二十五年(封の破綻と再征)1597年表文の非礼が露れて石星と沈惟敬が逮えられ、邢玠らが再征に向かう
- 萬曆二十五年十二月〜二十六年(1597〜)(蔚山の敗と四路の進撃)1598年蔚山の島山で楊鎬が潰えて一万余を失い、水陸四路の備えに改める
- 萬曆二十六年九月〜十一月(四路の進撃と倭の撤退)四路の攻撃は利を得ぬが秀吉の死で諸倭が帆を揚げて帰る
- 萬曆二十七年(凱旋と論功)1599年俘を献じて功を論じ、楊元と沈惟敬が棄市される
神宗萬曆二十年(1592年)五月(豊臣秀吉の朝鮮侵攻)
- 倭の首領の平秀吉が朝鮮を寇した。平秀吉は薩摩州の人の僕であった。初め魚を売って樹の下に臥していたところ、山城州の倭の渠で信長という者があり、関白の職位に居った。狩に出て秀吉に遇い殺そうとしたが、秀吉が弁を善くしたので信長は収めて馬を養わせ、木下人と名づけた。信長が田地を賜ると、信長のために策を画して二十余州を奪った。
- 折しも信長がその臣下の阿奇支に謀られて刺殺されると、秀吉は信長の兵を統べて阿奇支を誅し、そのまま関白の位に居って関白と号し、誘い劫かして六十六州を降した。
- 朝鮮の釜山は日本の対馬島と相い望み、時に倭の戸が往来して互市し婚姻を通じていた。当時、朝鮮王の李昖は酒に耽って備えを弛めていた。秀吉はそこでその渠の行長・清正らを分け遣わし、舟師数百艘を率いて釜山に逼らせた。五月、ひそかに臨津を渡り、分かれて豊徳の諸郡を陥れた。当時、朝鮮は承平が久しく、怯えて戦に諳んじず、みな風を望んで潰えた。
- 朝鮮王は倉卒に王京を棄て、次子の暉に国事を摂らせて平壌に奔り、さらに義州に走って内属を願った。倭はついに大同江を渡って平壌の界に繞り出た。このとき倭はすでに王京に入って墳墓を毀ち、王子と陪臣を劫かし、府庫を剽めて蕩然と一空にし、八道はほぼ没して、朝夕にも鴨緑を渡ろうとしていた。援けを請う使いは路に絡繹した。
- 廷議は「朝鮮は属国であって我が藩籬であり、必ず争うべき地である」とし、行人の薛潘を遣わしてその王に匡復の大義を諭させ、「大兵十万がすでに甲を着けて至る」と揚言させた。賊が平壌に抵ると朝鮮の君臣の勢いはいよいよ急となり、出て愛州に避けた。
萬曆二十年七月〜十二月(初戦の敗北と沈惟敬の交渉)
- 七月、遊撃の史儒らの師が平壌に至ったが、地の利に諳んじず、しかも霖雨で馬が奔り逸れてやまず、史儒は戦死した。副総兵の祖承訓が兵三千余を統べて鴨緑江を渡って援けたが、わずかに身だけ免れた。報が至って朝議は震動し、宋応昌を経略とし、員外の劉黄裳、主事の袁黄を軍前の賛画とした。
- 八月、倭が豊徳などの郡に入った。我が兵はやや集まったが、行長らはかなり兵に習れており、詐って「敢えて中国に抗せぬ」と言って我が師を緩めさせた。兵部尚書の石星もまた諸将が利を得ぬのを見て計の出るところがなく、人を遣わして探らせることを議した。嘉興の人の沈惟敬が募りに応じた。沈惟敬は市中の無頼である。
- このとき平秀吉は対馬島に次して王京に拠り、その将の行長らを分けてそれぞれ兵を発して要害を守らせ声援とした。沈惟敬が平壌に至ると、行長は牙将に肩輿で迎えさせた。当時、平秀吉は山城君を廃して自ら大閣王と号していた。沈惟敬が至ると執る礼は甚だ卑しく、行長は跪いて「天朝が幸いに兵を按じて動かれぬなら、我もまた久しからずして還るべきです。大同江を界とし、平壌以西はことごとく朝鮮に帰しましょう」と言った。
- 沈惟敬が還って奏すると、廷議は「倭は変詐が多く信じがたい。我が師は速戦に利がある」として、宋応昌らに兵を統べて進撃するよう促した。しかし石星はかなり惑わされ、沈惟敬は緩急に任じうるとして遊撃を仮に題して軍前に赴かせ、かつ間を行うための金を請うた。
- 八月、布衣の程鵬挙が「暹羅の兵を発して海道からその巣穴を衝かれたい」と請い、当時これを奇策とした。また朝議は播州の楊応竜を調えて朝鮮を援けさせた。
- 十二月、李如松を東征提督とした。上は東征の将士の寒苦を憫れみ、特に冏金十万を発して犒い慰め、かつ重く賞格を懸けた。
- 先に宋応昌が山海関に抵ったが、士馬・芻糧の徴調はまだ集まらず、大将軍の李如松もようやく西夏を平らげたばかりでまだ軍に至らなかった。そこで謬って沈惟敬に借りて倭を縻ぎつつ西に向かった。先に羽檄で兵七万余を徴したが、至ったのはその半ばだった。そこで三軍を置き、副将の李如栢に左を、張世爵に右を、楊元に中軍を将いさせて遼陽に趨らせた。
- このとき李如松がようやく軍に至り、沈惟敬が倭から帰って「行長は平壌以西を退き、大同江を界とすることを願っている」と称した。李如松は大いに将吏を会し、「沈惟敬は憸邪である。斬るべきだ」と叱った。参軍の李応試が間を請うて「沈惟敬に籍りて倭に封を紿かせ、陰かに襲うのは奇計です」と言った。宋応昌と李如松は然りとして、沈惟敬を標営に置いた。
- 二十五日、師に誓って東渡した。李如松は諸鎮の士馬四万余を将いて東し、石門から鳳凰山を度った。馬はみな血のような汗を流し、鴨緑江に臨めば天と水は一色、朝鮮を望めば万峰が雲海に出没した。監軍の劉黄裳は慷慨して「ここはお前たちの封侯の地だ」と誓った。
萬曆二十一年(1593年)正月(平壌の大捷と碧蹄館の敗)
- 平壌の大捷。初め沈惟敬は三たび平壌に入り、正月七日に李提督が封典を齎して粛寧館を過ぎると約した。このとき四日に我が師が粛寧に抵ると、行長は牙将二十人を遣わして迎えに来させた。李如松は遊撃の李寧に檄して生け捕らせたが、倭がにわかに起って格闘し、わずかに三人を獲ただけで、残りは走り還って行長に告げた。行長は沈惟敬に問うと、「これは必ず通事の両方の誤りでしょう」と言った。行長は親信の小西飛禅守藤に沈惟敬に随って李如松に謁させ、李如松は撫を加えて帰した。
- 六日、平壌に抵った。行長は風月楼に竚んで竜節を仰ぎ見るのを候った。倭はみな花衣で道を夾んで迎え候った。李如松は将士を分布して営を整えて入城しようとしたが、諸将が逡巡してまだ入らぬうちに形勢が露れ、倭はことごとく陴に登って拒み守った。
- 李如松は地形を度った。東南は並んで江に臨み、西は山に枕んで陡しく立ち、ただ北寄りの牡丹台が高く聳えて最も要であった。三たび倭が拒馬と地砲を列ねて待ったので、南兵を遣わしてその鋒を試し、佯って退いた。この夜、倭が李如栢の営を襲ったが撃ち却けた。
- 李如松はそこで諸将を部勒し、首級を割ることを禁じ、攻囲は東面だけ欠くようにと諭した。遊撃の呉惟忠に牡丹峰を攻めさせ、陰かに西南を取ろうとした。倭が麗兵を軽んじるので、祖承訓らに麗の装いを詐って潜伏させた。
- 八日黎明、鼓を鳴らして行き城下に抵ってその東南を攻めた。倭の砲矢は雨のようで軍はやや却いた。李如松は手ずから先に退く者を斬って徇え、死士を募って梯を援け鈎で登らせた。数人が殺されても退かず、倭は力をことごとく尽くして拒み守った。倭はまさに南面を麗兵と軽んじていたが、祖承訓らが装いを卸いで明らかな甲を露わすと、倭は急ぎ兵を分けて拒ぎ塞いだ。李如松はすでに楊元らを督して小西門から先登し、李如栢らもまた大西門から入った。火薬が並び発して毒煙が空を蔽った。
- 戦っているとき、呉惟忠は鉛が胸を貫いてもなお奮い呼んで戦を督し、李如松は坐騎が砲に斃れて馬を易え、馳せて塹に墜ちて鼻から火を出しつつ兵を指揮していよいよ進んだ。我が師は一人で百人に当たらぬ者はなく、前隊が首を貿えると後の勁兵がすでに踵いて突き、堞に舞った。倭は退いて風月楼を保ち、夜半に行長は兵を提げて大同江を渡って竜山に遁れ還った。
- この役で総じて級一千二百八十五を得、その他に火に死んだ者、城の東から跳んで溺れた者は数知れなかった。禆将の李寧・査大受らが精兵三千を率いて江東の僻路に潜伏し、級三百六十二を獲、三人の倭を生け捕った。
- 勝ちに乗じて追襲し、十九日に李如栢が進んで開城を復し、倭の級百六十五を得た。朝鮮の郡県は黄海・平安・京畿・江原の四道が並び復した。平壌に帰って平らいだが、ただ咸鏡道だけは清正が拒み守っていた。しかし開城が破れたと聞いてやはり王京に奔った。
- 王京は朝鮮の都会で、咸鏡・忠清がその犄角をなし、かなり天険に拠っていた。だが援師は連勝して敵を軽んじる心を抱いた。二十七日、王京を去ること七十里、朝鮮人が「倭は王京を棄てて遁れた」と告げ、李如松は信じて軽騎を率いて碧蹄館に趨った。王京を去ること三十里。馳せて大石橋に至ると馬が躓いて額を傷つけ、ほとんど斃れそうになった。倭がにわかに至って数里にわたって囲んだ。将士は死を殊にして戦い、巳から午まで、箙の中の矢はまさに尽きようとした。
- 金甲の首領が前に出て李将軍に摶りかかること甚だ急であった。禆将の李有昇が身をもって李如松を蔽い、数人の倭を斬ったが、ついに鈎に中って墜ち、倭に支解された。李如栢・李寧がさらに遮って挟み撃ち、李如梅の箭が金甲の倭に中って馬から墜ちた。折しも楊元の援兵が至って重囲を砍り入り、そこで潰えたが、我が精鋭もまた多く喪われた。橋を過ぎた者はみな死んだ。天はまさに雨で、王京に近い平地はみな畦に陥ち、氷が解けて泥が深く、騎は騁せられなかった。倭は山を背に水に面して連珠のごとく営を布き、城中には広く飛楼を樹て、鳥銃が穴の中から出て応ずるたびに我が兵を斃した。師はそこで退いて開城に駐まった。
萬曆二十一年三月〜四月(竜山の焼き討ちと王京の回復)
- 三月、経略の宋応昌が劉綎・陳璘に檄して水陸から師を済らせた。上はさらに帑金二十万を発して軍興に住てた。当時、諜者は「王京の倭は二十万で、しかも関白が帆を揚げて入り犯すと声言している」と言った。李如松は李寧らを分け留めて開城に駐まらせ、楊元らは平壌に軍して大同江を扼して餉道を接ぎ、李如栢らは宝山の諸処に軍して声援とし、査大受らは臨津に軍して、鋭卒を将いて東西に策応させた。
- 倭の将の平秀嘉が竜山倉に拠って粟数十万を有すると聞き、間道から火を放ってことごとく焼いた。倭は食に乏しくなった。
- 東の師が款を議した。初め我が師は平壌に捷って鋒は甚だ鋭く、転戦して開城に至り勢いは破竹のごとくであった。碧蹄の敗に及んで久しく絶域に師を頓めて気はいよいよ索け、経略の宋応昌は急いで成功を図った。そこで沈惟敬の款が初めて用いられた。倭は芻糧が並び燼き、行長もまた平壌の敗に懲りて帰る志があり、それによって封貢の議が起こった。
- 経略はすでに朝に請うて窮追せぬ赦しを得ており、かつ倭が沈惟敬に報せた書を得たので、さらに遊撃の周弘謨を沈惟敬とともに遣わして倭に諭させ、王京を献じ王子を返せば約のとおり帰らせると言わせた。倭は果たして四月十八日に王京を棄てて遁れた。李如松と宋応昌は衆を整えて入城し、残った米は四万余、芻豆もこれに相当した。
- 李如松は兵を漢江に臨ませて倭の後に尾き、惰って帰るのに乗じて撃とうとしたが、倭は歩々に営を為し、番を分けて迭いに休む法を用いて退いた。別将の劉綎が兵五千を帥いて尚州の鳥嶺に趨った。鳥嶺は広く七十余里に亘り、懸崖は鑱り削られ、中に一筋の道が線のごとく通じ、灌木が叢り雑じって騎は列を成せなかった。倭はなお険に拠ったが、別将の査大受・祖承訓らが間道から槐山を踰えて鳥嶺の後に出ると、倭は大いに驚き、前に釜山浦に移って居屯・種芸を築いて久しい戍りの計とした。
- 我が師はそこで疑兵を張り、劉綎・祖承訓らを分け遣わして大丘・忠州に屯させ、全羅の水兵の亀船に檄して調え、釜山の海口に分布させた。当時、倭はすでに王京を棄て、漢江以南の千余里の朝鮮の旧土は奄然として還り定まった。
- 兵科給事中の侯慶遠は「我と倭に何の讐があって、属国のために数道の師を勤め、力めて平壌を争い王京を収め、両都を挈げて授けたのか。存亡を興し滅を継ぐ義声は海外に振るった。全き師で帰れば、獲るところは実に多い」と言った。上はそこで朝鮮王に諭して王京に還都し兵を整えて自ら守らせ、我が各鎮の兵は久しく海外に疲れているので順次撤し帰らせることにした。
- 宋応昌はさらに疏して称した。釜山は南海に瀕するとはいえなお朝鮮の境である。もし倭が我が罷兵を覘って突入し再び朝鮮を犯せば支えられず、前功はことごとく棄てられる。輿図を考えるに、朝鮮の幅員は東西二千里、南北四千里。西北の長白山から脈を発し、南は全羅の界に跨り、西南に向かって日本の対馬島に止まる。対馬は偏に東南にあって釜山と対する。倭船はただ釜山鎮に抵るだけで、全羅を越えて西海に至れぬ。そもそも全羅の地界はまっすぐ正南を吐き、西寄りに中国と対峙する。東に薊州・遼東を保ち、日本と隔絶して海道を通じさせぬのは朝鮮があるからである。
- 関白が朝鮮を図ったのは、意は実に中国にある。我が朝鮮を救うのは属国のためだけではない。朝鮮が固ければ東に薊州・遼東を保ち、京師は泰山より鞏くなる。今日、兵を撥いて協守させるのが第一の策である。すぐに撤を議するとしても、少しく時日を要し、倭がことごとく帰るのを待って量って防戍を留めるべきだ、と。部が覆奏して、南兵を暫く留めて朝鮮に分布し、精兵三千を量り簡んで善後させ、余りはことごとく撤するよう前議のとおりとした。
萬曆二十一年六月〜十二月(封貢の議と朝廷の論争)
- 六月、沈惟敬が釜山から帰り、倭使の小西飛禅守藤とともに来て款を請うた。しかし倭は随って咸安・晋州を犯し、全羅に逼って「江・漢以南を復して王京の漢江を界とする」と声言した。李如松は全羅が沃饒で、南原府がとりわけその咽喉であると計り、李平胡・査大受に南原を鎮めさせ、祖承訓・李寧を南陽に移し、劉綎を陝州に移した。やがて倭は果たして分かれて犯し、我が師は並んで斬獲があった。
- 兵科給事中の張輔之は「倭が釜山に聚まったのはもと佯って退いて我に兵を撤させ、次第に逞しくすることを図ったのだ。理由なく貢を請うのは人情ではない。いまにわかに晋州を犯して情形はすでに露れた。節制して征し勦めるべきだ」と言った。遼東都御史の趙燿もまた「款貢は軽々しく受けるべきでない」と報せた。
- 七月、倭が釜山から西生浦に移り、王子と陪臣を送り返した。当時、我が師は久しく露に暴され、撤すると聞いて勢いとして久しく羈めがたかった。宋応昌はそこで全羅・慶尚に戍ることを請い、劉綎の川兵五千、呉惟忠・駱尚志の南兵二千六百を留め、薊州・遼東と合わせて計一万六千人を劉綎に分布させて慶尚の大丘に置くよう議した。しかし兵部尚書の石星は一意に款を主とし、「兵を留めて餉を転ずるのは策でない」と言った。宋応昌も師が老いて成功がなく、やはり責を弛めたいと願ったが、倭は詐りが多く、兵を撤せば変が生ずるおそれがあると策った。まもなく沈惟敬を再び倭営に入らせて謝表を促し、急ぎ役の竣工を図らせ、そこで呉惟忠らの兵も併せて撤し、ただ劉綎の兵だけを留めて防守させた。
- 朝鮮の世子の臨海君・琿に諭して全羅・慶尚に居って師を督させ、顧養謙に遼左を督させた。
- 九月、兵部主事の曽偉芳が言った。倭は款じても去り、款じなくとも去る。款じても来り、款じなくとも来る。そもそも関白の大衆はすでに還り、行長が留まって待っているのは、我が兵がまだ撤せず一矢も加えられぬと知って、帰って関白に報せ、捲土重来しようとしているのだ。しかし帆風が利あらず、まさに冬の寒さに苦しんでいる。ゆえに「款じても去り、款じなくとも去る」という。沈惟敬が先に倭営で講じ購ったのに咸安・晋州は随って陥ちた。款を恃んで来年攻めぬことを冀うのは、款を促すのがそのまま来るのを促すのだ。ゆえに「款じても来り、款じなくとも来る」という。今日の計としては、朝鮮に自ら守らせ、死者を弔い孤を問い、兵を練り粟を積んで自強を図らせるべきだ、と。章は部に下された。
- 十月、総督の顧養謙が力めて撤兵を主張し、許された。そこで疏して封貢を請い、上は九卿・科道に会議を命じた。
- 当時、御史の楊紹程が奏した。臣が考えるに、太祖のときはしばしば倭の貢を却けた。慮りは至って深遠である。永楽年間に一度朝貢したが、次第に約どおりでなくなり、これ以来しきりに内地を窺い、頻りに寇掠に入り、嘉靖の晩年に至って東土の受けた禍いはさらに烈しかった。封貢が厲の階段でなかったろうか。
- いま関白は謬って恭謹を装い、表を奉じて封を請うている。その後、我は関を閉ざして拒み絶てるだろうか。中国の釁は必ずここに始まる。しかも関白は主を弑し国を簒った。まさに天討の必ず加わるべきところで、彼の国の人はその肉を食いその皮を寝処にしたいと思いながら、ただ威に劫かされて敢えて動けぬだけである。我が中国は礼義で百蛮を統べ馭している。それなのにこの簒逆の輩に天朝の名号を叨らせてよいものか。急ぎ封の議を止め、朝鮮に勅して兵を練って守らせ、我が兵は撤して境上に還って待てば、関白は日を計って敗れよう、と。
- このとき廷臣の礼部郎中の何喬遠、科道の趙完璧・王徳完・逯中立・徐観瀾・顧竜・陳維芝・唐一鵬らが交々章を上って封を止めさせようとし、薊遼都御史の韓取善もまた「倭情は未定である。封貢を罷めるよう請う」と疏した。しかし兵部尚書の石星は関白を羈縻できなくなるのを恐れて甚だ張り慌て、ついに封貢を主張してやまなかった。
萬曆二十二年〜二十四年(1594〜1596年)(封使の派遣と李宗城の逃亡)
- 二十二年八月、総督の顧養謙が「講貢の説では、貢道は寧波に定め、関白は日本王に封ずるべきです。才力ある武臣を択んで使いとし、行長に諭してその部の倭をことごとく帰らせ、封貢を約のとおりにされたい」と奏した。
- 九月、朝鮮国王の李昖が疏して貢を許して国を保つことを請うた。上はそこで群臣が封貢を阻み撓めるのを厳しく責め、御史の郭実らを追い褫って、小西飛の入朝を詔した。当時、総督は侍郎の孫鑛に改まって新たに事を受けていた。倭使が京に抵ると、石星は王公のごとく優遇し、小西飛らは殊に揚々として闕を過ぎても下馬しなかった。多官を集めて面と向かって訳させ、三事を要求した。一に倭をことごとく巣に帰らせること、一に封じても貢は与えぬこと、一に朝鮮を犯さぬと誓うこと。倭はみな聴き従い、奏聞した。上はさらに左闕で諭し、語は加えて周く複び、大略は枢部の意のとおりであった。
- 十二月、封の議が定まり、臨淮侯の李宗城を正使に充て、都指揮の楊方亨を副とし、沈惟敬とともに日本に赴かせた。当時、礼部は「日本には旧く王があるが存亡が分からぬ。関白には別に二字を擬するか、あるいはそのまま居る島をもって封じ、行長以下には量って指揮の銜を授けるべきだ」と議した。上は結局、日本王の号を准して金印を給し、行長には都督僉事を授けた。たまたま熊川島の倭船三十六号がすでに行を起こして帰ったと諜報があり、石星はそこで「封の事は必ず成る」と言った。
- 二十三年春正月、遼東都御史の李化竜が「倭の六つの疑わしきと五つの慮るべき」を疏し、「倭は漢字を識らぬ。中間で両者が欺き紿かすのを恐れる。礼部から量って秀吉を順化王に封じ、沈惟敬を罷め遣わし、水兵を増募されたい。しかも清正はもとより関白に服さず行長と相容れぬ。魯連が燕将に諭した計を用いて間せる」と言った。当時、封使はすでに発しており、ついに従われなかった。
- 二十四年春正月、先に東封の使いは久しく観望を懐き、このとき初めて釜山に抵った。ところが沈惟敬は詭って「礼を演ずる」と称し、行長とともに先に海を渡り、私に秀吉に蟒玉・翼善冠および地図・武経を奉り、また壮馬三百と南戈崖の騎従を駆り、陰かに秀吉に献じて阿里馬の女を取って倭と合った。
- 李宗城は紈袴の子で、経行の営で所在に貨を索めて飽くことがなかった。対馬島に次すると、太守の儀智が夜に美女二、三人を飾って更番で行帷の中に納れ、李宗城は安んじた。倭の首領がしばしば渡海を請うたが允さなかった。儀智の妻は行長の娘である。李宗城はその美しいのを聞いて併せて淫そうとしたが、儀智は怒って許さなかった。折しも謝周梓の姪の隆が李宗城と道を争い、李宗城が殺そうとしたので、隆はその左右を誅して倭がまさに刺そうとしていると言った。李宗城は懼れて璽書を棄てて夜に遁れ、明るくなるころ路を失って樹で自縊した。追う者が解いて、そこで慶州に奔った。
- 副使の楊方亨が朝に聞かせると、上は震怒して李宗城を逮問し、戦守を議した。折しも楊方亨がさらに「倭情に変はない。正使が自ら奸人に誤られたのだ」と揭した。上は楊方亨を使いに充て、沈惟敬に神機営の銜を加えて副とした。廷臣が交々章を上って封を罷めるよう請うと、上は厳しく責め、御史の曹学程を理に下し、期限を立てて渡海させた。そこで沈惟敬はいよいよ智を舞わせて揣り摩り、大司馬を掌中に玩ぶようになった。
- 三月、工部郎中の岳元声が石星が力めて封の事を主とすることを参劾し、「三辱・四恥・五恨・五難」があるとした。疏が入って民に謫された。
- 九月、楊方亨と沈惟敬が冊を奉じて日本に赴いた。平秀吉は斎し沐すること三日、郊に節使を迎え、封を受けて五拝三叩頭・山呼の礼を行った。礼が終わると使者を款すること至れり尽くせりであった。
- 朝鮮王は光海君を遣わして賀を致すことを議したが、やがて嬖臣の李徳馨の言を聴いて州判に白土紬を奉じて賀させた。秀吉は怒って沈惟敬に「なんじは二子・三大臣・三都・八道をことごとく天朝の約に遵って付し還したことを思わぬのか。いま卑い官と微かな物で賀に来た。小邦を辱めるのか、天朝を辱めるのか」と言った。沈惟敬が慰め諭すと、秀吉は「いま石曼子の兵を彼に留め、天子の処分を候ってから撤し還す」と言った。
- 翌日、貨物数百種を具えて貢を奉じ、使いを遣わして表文二通を齎させ、冊使に随って海を渡って朝鮮に至らせた。廷議で使いを朝鮮に遣わして表文を取って進めて験べさせたところ、一つは謝恩、一つは天子の処分を乞うものだった。朝鮮の廷議はこれを飾りの説だと言った。
萬曆二十五年(1597年)(封の破綻と再征)
- 春正月、石星が自ら朝鮮に赴いて両国に盟に就いて兵を罷めるよう諭すことを請うたが許されなかった。
- 二月、再び東征を議した。当時、封の事はすでに壊れていたが、楊方亨は「去年、釜山から海を渡り、倭は大坂で封を受けてただちに和泉州に回った」と詭って報せた。しかし倭は朝鮮の三子が謝礼に行かぬことを責め、また微かに旧のごとく釜山に留まり、謝表は後れて発しなかった。楊方亨は手ぶらで帰った。
- このとき沈惟敬が初めて表文を投じ、案じ験べると潦草で、前の折り目に「豊臣」の図書を用い、正朔を奉ぜず人臣の礼がなかった。しかも寛奠副総兵の馬棟が「清正らが二百艘を擁して機張の営に屯している」と報せた。楊方亨は初めてまっすぐに本末を吐いて罪を沈惟敬に委ね、併せて石星の前後の手書を進呈して御覧に供した。
- 上は大いに怒り、石星と沈惟敬を逮えて按問するよう命じ、兵部尚書の邢玠を薊遼総督とし、麻貴を改めて備倭大将軍とし、僉都御史の楊鎬に朝鮮を経理させ、天津に駐まって警備を申べさせ、楊汝南・丁応泰を軍前の賛画とした。
- 五月、邢玠が遼に至った。行長は楼を建て、清正は種を布き、島の倭は水を窖え、朝鮮の地図を索めた。邢玠はついに用兵を決意した。麻貴が鴨緑を望んで東し、統べる兵はわずか一万七千人だったので師を済らすことを請うた。邢玠は朝鮮の兵がただ水戦に慣れているだけであるとして、四川・浙江に募兵し、併せて薊州・遼東・宣府・大同・山西・陝西の兵および福建・呉淞の水兵を調え、劉綎に川漢の兵六千七百を督させて勦を聴かせるよう疏請した。麻貴は「宣府・大同の兵の到着を候ち、倭がまだ備えぬのに乗じて直ちに釜山を掩えば、行長は擒にでき清正は走る」と密報し、邢玠は奇計とした。そこで楊元に檄して南原に屯させ、呉惟忠に忠州に屯させた。
- 大学士の張位が開城・平壌に屯田して軍興に資することを請うたが、朝鮮は中国が呑み併せるのを恐れて嶢崅を理由に断り、議は寝んだ。
- 六月、倭の数千艘が前後して海を渡り、釜山・加徳・安骨・安窟に分かれて泊まり、丸を放つこと雨のごとく、朝鮮の郡守の安弘国を殲した。やがて竹島を往来して次第に梁山・熊川に逼った。沈惟敬が営兵二百を率いて釜山に出入りしていたので、経略の邢玠は表向き慰藉するふりをして楊元に檄して襲って捕らえさせ、縛って麻貴の営に至らせた。沈惟敬が執えられて、倭の嚮導は初めて絶えた。
- 七月、倭が梁山・三浪を奪ってついに慶州に入り、閑山を侵し、夜に恭山島を襲った。統制の元均は風靡し、ついに閑山の要害を失った。閑山島は朝鮮の西の海口にあり、右に南原を障って全羅の外藩となる。一たび失守すれば沿海は無備で、天津・登州・萊州もみな帆を揚げて至れる。ところが我が水兵三千はようやく旅順に抵ったところで閑山が破れた。経略は檄して王京の西の漢江・大同江を守り、倭の西下を扼し、兼ねて運道を防がせた。
- 八月、清正が南原を囲み、夜に乗じてにわかに攻めた。守将の楊元は倭が至ったと聞いて帳中で驚き起き、城に乗って跣足で遁れた。遼人が楊元を衛って西に奔った。当時、全州に陳愚衷、忠州に呉惟忠がそれぞれ要を扼しており、全州は南原を去ること百里で犄角をなしていた。南原が急を告げても陳愚衷は懦くて兵を発せず、破れたと聞くと州民は争って城を棄てて走った。麻貴が急ぎ遊撃の牛伯英を援けに遣わし、陳愚衷と兵を合わせて公州に屯した。
- 倭はついに全羅を犯して王京に逼った。王京は朝鮮八道の中で、東の隘は鳥嶺・忠州、西の隘は南原・全州で、道は相通じている。二城を失って東西はみな倭となり、我が兵は単薄だったので、退いて王京を守り漢江の険に依った。麻貴が邢玠に請うて王京を棄てて鴨緑江に退き守ろうとしたが、海防使の蕭応宮が不可として、平壌から道を兼ねて王京に趨って止めた。麻貴は兵を発して稷山を守り、朝鮮もまた都体察使の李元翼を調えて鳥嶺から忠清道に出て賊の鋒を遮らせた。
- 邢玠が自ら王京に赴くと人心は初めて定まった。邢玠は参軍の李応試を召して計を問うた。李応試は「朝廷の主とする画策はどのようなものかお尋ねしたい」と請うた。邢玠は「陽に戦い陰に和し、陽に勦め陰に撫す。政府の八字の密画である。洩らすな」と言った。李応試は「それなら易しいことです。倭が叛いたのは処分に絶望したからです。敢えて楊元を殺さぬのはなお処分を望んでいるからです。まっすぐ人を遣わして『沈惟敬が死なねば退く』と諭されたい」と言い、そこで李大諫を行長に、馮仲纓を清正に使いさせるよう請い、邢玠は従った。
- 石星を法司に下し、沈惟敬とともに大辟に坐した。
- 九月、倭が漢江に至った。楊鎬が張貞明を遣わし、沈惟敬の手書を持たせて、兵を動かして静かに処分を俟つ実に乖くことを責めさせた。行長と正成もまた清正の軽挙を咎め、そこで退いて井邑に屯した。王京を離れること六百里。清正もまた慶尚に屯を退き、王京を離れること四百里。張貞明は反る途中で人に刺されて死んだ。
- 麻貴はそこで青山・稷山の大捷を報じたが、蕭応宮は揭を具えて「倭は沈惟敬の手書によって退いたのだ。青山・稷山ではまったく接戦していない。どうして功と言えようか」と言った。邢玠と楊鎬は怒り、蕭応宮が恇え怯れて自ら沈惟敬を解送しなかったと弾劾し、併せて逮えた。
- 十一月、総督の邢玠が徴した兵が大いに集まった。上は帑金を発して軍を犒い、併せて邢玠に尚方の剣を賜り、御史の陳効にその軍を監させた。邢玠は大いに諸将を会して三協に分け、左を李如梅、右を李芳春、中を高策とし、いずれも副総兵をもって将を分けた。経理の楊鎬は麻貴とともに左右の協を率い、忠州の鳥嶺から東安に向かって慶州に趨り、専ら清正を攻めることとし、李大諫に行長と通じて援けに行かぬよう約させた。さらに中協を遣わして宜城に屯させ、東は慶州を援け西は全羅を扼し、余りの兵で朝鮮と会して営を合わせ、天安・全州・南原から下って大いに旗幟を張り、詐って順天などを攻めて行長が東を援けるのを牽制させた。
萬曆二十五年十二月〜二十六年(1597〜1598年)(蔚山の敗と四路の進撃)
- 十二月、慶州に会した。麻貴は黄応陽を遣わして清正に賄って和を約させながら、大兵を率いてにわかにその営に至った。当時、倭は蔚山に屯していた。蔚山の南の島山はいずれもさほど高くないが、城はみな山険に依り、中の一江が釜寨に通じ、その陸路は彦陽から釜山に通じていた。麻貴は専ら蔚山を攻めようとしたが、釜山の倭が彦陽から援けに来るのを恐れ、中協の高重・呉惟忠らに梁山を扼させ、左協の董正誼らを南原に赴かせて疑兵を張らせ、また右協の盧継忠の兵二千を西江口に屯させて水路の援けを防いだ。
- 二十三日、進んで蔚山を攻めた。遊撃の拜扎が軽騎で倭を誘って伏に入れ、級四百余を獲た。倭はことごとく島山に奔って、前に三寨を連ね築いた。翌日、遊撃の茅国器が浙兵を統べて先登し、続けざまに破って級六百六十一を獲た。倭は壁を堅くして出なかった。まさに力めて山寨を攻めていたとき、禆将の陳寅が士卒に身先んじて弾矢を冒し、勇み呼んで上り、柵を二重砍った。清正は白袍で馬を躍らせて倭を督して拒み守り、その第三の柵がまさに抜かれようとしたとき、楊鎬はにわかに茅国器に倭の級をひそかに割らせたので戦はやや解け、茅国器はさらに李如梅がまだ至らぬので首功に便でないとして、金を鳴らして軍を収めた。
- 翌朝、李如梅が至って攻めたが抜けなかった。島山は蔚山に比べて高く、石城は新築で甚だ堅く、我が師は仰ぎ攻めて損傷が多かった。諸将はそこで「倭は水道が艱しく餉を継ぎがたい。ただ坐して困らせれば清正は戦わずに縛れよう」と議し、楊鎬らも然りとして兵を分けて十日十夜囲んだ。
- 倭は砲を用いる者が隙間から発して多く命中した。弾はみな鉄を砕いて作ったもので、中れば多く重ねて傷ついた。しかし倭もまた甚だ飢え、我が師がやや怠るのを瞰て偽って降を約して攻めを緩め、行長の来援を冀った。行長もまた我が釜営を襲うのを慮って敢えて軽々しく進まず、そこで鋭卒三千を選んで虚しく幟を張って江上を蔽った。朝鮮の将の李徳馨が「海上に倭船が帆を揚げて来る」と訛って報せると、楊鎬は令を下すに及ばず馬を策って西に奔った。諸軍は統御がなくみな潰えた。清正は兵を縦して北を逐い、我が兵の死者は一万余、遊撃の盧継忠の三千人は殲された。
- 楊鎬と麻貴は星州に奔り、兵を撤して王京に還った。邢玠と会同して露布に「蔚山の大捷」と言った。諸営が簿書を上ると、士卒の亡くなった者は二万だったが、楊鎬は大いに怒って駁し正して百余人と称するにとどめた。
- 賛画の丁応泰は蔚山の敗を聞いて慚じ惋み、楊鎬のもとに詣でて後の計を問うた。楊鎬は内閣の張位・沈一貫の手書および票して未だ下されぬ旨を示して、揚々として功伐を誇った。丁応泰は怒って進退の情実を験べ、まず張位・沈一貫が辺臣と交結して同じく欺き蔽ったこと、楊鎬が勢いに附いて禍を煽り罪を飾って功を張ったこと、および麻貴・李如梅は律に按じていずれも斬に当たることを論じ、併せて楊鎬が駁して改めた陣亡の兵馬の巻冊を封じて進めた。
- 上は覧て震怒し、法に付そうとしたが、輔臣の趙志皋が力めて救ったので、楊鎬を罷めて勘を聴かせた。そこで給事中の徐観瀾を遣わして東征の軍務を査勘させた。上は張位を怒り、その密揭で楊鎬を薦めたことによって籍を削って民とし、天津巡撫の万世徳を楊鎬に代えて遼左を経理させた。
- 二十六年春正月、総督の邢玠は前役で水兵に乏しくて功がなかったので、そこで江南の水兵を増募し、精しく海運を講じて持久の計とした。
- 二月、都督の陳璘が広の兵をもって、劉綎が川の兵をもって、鄧子竜が浙・直の兵をもって前後して至った。邢玠は兵を三協に分け、水陸の四路とし、路ごとに大将を置いた。中路は李如梅、東路は麻貴、西路は劉綎、水路は陳璘。それぞれ信地を守り機を見て勦を行わせた。
- 当時、倭は朝鮮に盤踞して七年、海を没すること千余里、やはり三つの窟に分かれていた。東路は清正が蔚山に拠り、昨冬の攻囲以来いよいよ西生・機張を増築して至るところに兵を屯し、釜山を根本と恃んだ。西路は行長が粟林・曳橋に拠って砦を数重に建て、順天城に憑んで南海の営と相い望み、山を負い水を襟にして最も扼塞に拠った。中路は石曼子が泗州に拠り、北は晋江を恃み南は大海に通じて東西の声援となった。薩摩州の兵は剽悍で勁敵と称され、行長の水師は番を休めて餉を済らせ、往来すること駛るがごとくで、とりわけ倭にとって重きをなした。邢玠は島山の失に懲りて、特に三路のほか水兵一路を置き、日を約して並び進ませた。
- まもなく遼陽の警が報ぜられ、李如松が敗れて没した。詔して李如梅を還らせて赴かせ、中路は董一元を代わりとした。
萬曆二十六年九月〜十一月(四路の進撃と倭の撤退)
- 九月、東征の将士が道を分けて進兵した。劉綎が進んで行長の営に逼り、呉宗道を遣わして行長と好会を約させた。行長が五十人で赴くことを許すと、劉綎は喜んで諸将を分布して四面に伏を設け、部将に劉綎を詐らせ、劉綎自身は卒を詐って壺觴を執って侍り、軍中に「吾が帳を出るのを視れば砲を放て」と令した。
- 翌日、行長は果たして五十騎を率いて来た。偽の劉綎が腰を折って帳外に迎え、席に及んで行長は壺觴を執る者を顧みて「この人はことのほか福がある」と言った。劉綎は驚愕して壺觴を置いて出た。旗鼓を司る者がにわかに砲を伝えると、行長は騰り躍って馬に上り、従騎は一字の雁の列となり、風の剪るごとく電の掣るごとく旋転して格殺した。遊撃の王之翰が急ぎ黔苗の兵を率いて援けに来たが、倭はすでに路を奪って去っていた。
- 翌日、行長が人を遣わして宴を謝すと、劉綎もまた官を遣わして謝し、「昨日、席に登って砲を放ったのは客を敬う礼です。誤って疑心を生じさせました」と言った。行長は唯々として、使いを遣わして劉綎に巾幗を贈った。劉綎は進んで城を攻めてその橋を奪い、首九十二を斬った。陳璘の舟師が協して堵り、倭船百余を撃ち毀った。行長がひそかに千余騎を山に潜ませて扼したので、劉綎は利あらず退き、陳璘もまた舟を棄てて走った。
- 麻貴は蔚山に至って険に拠り、その糧稲を割ってかなり斬獲があった。倭は偽って退いて誘い、麻貴がその空の塁に入ると伏兵が起こって旗幟が空を蔽い、ついに敗れた。
- 董一元が進んで晋州を取り、勝ちに乗じて江を渡って南し、続けて永春・昆陽の二寨を燬った。倭は退いて泗州の老営を保ったが、鏖戦して下した。遊撃の盧得功が陣に殁した。前に進んで新寨に逼った。寨は三面が江に臨み、一面が陸に通じ、海を引いて濠とし、海艘が寨下に泊まること千を数え、金海・固城を築いて左右の翼とし、中は東陽倉に通じた。
- 十月、董一元が歩兵の遊撃の茅国器・彭信古・葉邦栄を遣わして前に城を攻めさせ、騎兵の遊撃の郝三聘・馬呈文・師道立・柴登科がこれに継ぎ、遊撃の藍方威にその東北の水門を攻めさせた。辰から未まで、彭信古が火を用いて寨門を横に撃ち、城の垜数か所を砕くと、歩兵は競って前進して柵を抜いた。ところがにわかに営中で火薬が横に破れ、煙が天に漲った。倭が勢いに乗じて衝殺し、固城の援けの倭もまた至った。郝三聘・馬呈文が騎兵を率いて先に走り、ついに大いに潰えて晋州に奔り還った。
- 勘科の徐観瀾が四路の喪敗を奏し、旨が部に下って馬呈文・郝三聘を斬って徇え、董一元らはそれぞれ罪を帯びて功を立てさせた。
- 初め上は丁応泰の疏を見て「御極二十六年、これほどの忠直な人を見たことがない」と言い、その名を御屏に書いた。沈一貫が一たび玉熙宮に会し、宦侍が東征の劇を演じて聖聴を熒し惑わした。上はこれによって顔を霽らし、再び沈一貫を召して入閣させた。
- 福建都御史の金学曽が「平秀吉は七月九日に死に、各倭はみな帰る意がある」と報せた。十一月十七日夜、清正が舟を発して先に走り、麻貴はそこで島山・酉浦に入った。劉綎が曳橋を攻め奪って級百六十を獲た。石曼子が舟師を引いて行長を救おうとすると、陳璘が蒼唬船を統べて邀撃し、級二百二十四を得た。副将の鄧子竜、朝鮮の統制使の李舜臣が鋒に衝んで陣に没した。鄧子竜は驍将であった。諸倭は帆を揚げてことごとく帰った。
- 経略の万世徳は六月に命を受けてから敢えて前に出ず、倭が退いたと聞いて道を兼ねて馳せ至り、邢玠と会同して捷を奏した。督学御史の李堯民はこれを知って、廟に告げ俘を献ずるにあたって諸臣が欺き誤ったことを上言した。上は艴然として疏を几に抵げて罷めた。丁応泰もまた再び疏して倭に賄って国を売ったと言った。上は将士が久しく労苦したことを念って、なお冏金十万両を発して師を犒い、特に優叙を諭した。
- 勘科の徐観瀾が抗疏して沈一貫・蕭大亨・邢玠・万世徳が党して和し国を売ったことを論じたが、疏が京に至ると戸部侍郎の張養蒙が阻んで上らせなかった。当時、徐観瀾はまさに遼に駐まって冊を造り、自ら釜山・蔚山・忠州・星州・南原・稷山を歴て各処の敗状を査し獲て実に拠って冊に入れていた。蕭大亨はこれを危ぶみ、沈一貫は徐観瀾の前の疏に病を抱くという語があるのを簡んで、票して郷里に帰って調理させることを准し、改めて給事中の楊応文に勘事を完うさせた。
萬曆二十七年(1599年)(凱旋と論功)
- 四月、征倭の捷を告げた。上は門に御して俘を受け、平秀政・平正成を梟し磔にして、首を九辺に伝えた。
- 総督の邢玠が賛画主事の丁応泰を弾劾して落職させた。
- 七月、給事中の楊応文が東征の功次を勘報した。四路の擒斬は陳璘を首とし、劉綎がこれに次ぎ、また麻貴が次いだ。董一元は始めに三寨を破り終わりに諸巣を掃った。功もまた泯びがたい。
- 邢玠を太子太保に晋め一子に錦衣世襲を蔭し、万世徳を右副都御史に陞して一子を監に入れることを蔭し、陳璘・劉綎にそれぞれ都督同知を加え、麻貴を右都督とし、董一元を復職させて再び叙した。稷山・蔚山の功では茅国器・陳寅・彭友徳らに金を賜り、楊鎬を原官で叙用した。御史の陳効は病死したので一子に錦衣を蔭した。師を棄てた楊元、倭に通じた沈惟敬は前後して棄市された。
史論(谷応泰曰)
- 関白はもと薩摩州の人で、倭の部のうちやや黠い者にすぎない。奇才・異能や武勇・絶芸があったわけではない。ただ李昖が酒に縦し朝鮮の備えが弛んでいたので、ついに狡く疆を啓いて呑み噬む挙を思ったのである。
- 王京を陥れ、世子を劫かし、府庫を剽め、墳墓を毀ち、八道はことごとく没して進んで鴨緑を窺い、勢いは岌々としていた。援けを請う使いは路に絡繹した。邢を救い衛を救うのは春秋の義である。まして勢いは神京を拱み、地は関海に牽かれる。薊州・遼東の外藩、東江の咽喉であり、一たび失守すれば重い険が撤かれる。楊応竜が播州に反し、猓玀が西川を陥れたような、荒れた辺で兵を弄んで国体を傷つけるだけのものとは違う。
- しかし私は思う。これを援ける法には三つあった。武健の将に命じ、精鋭の師を選び、その不意に出て急ぎ撃って失わぬこと。陳湯・甘延寿が康居に対したごとくである。これが策の上である。あるいは糧を敵に因り、兵を分けて道を断ち、坐して困らせ、窮蹙して自ら斃れさせること。趙充国が金城に対したごとくである。これが策の次である。あるいはまず兵威で震わせ、次いで恩義で結び、誠を開き信を布いて約束を堅く明らかにすること。諸葛武侯が孟獲に対したごとくである。これが策のさらに次である。
- ところが勦めても威を樹てるに足りず、撫しても信を著すことができなかった。事に臨んで周り張り、首尾は衡に決した。行間に謀が乏しく、中枢が算を失ったといわざるをえない。
- そもそも李如松が平壌に大捷し、李如栢が進んで開城を拓き、四道が復して平らぎ、三倭が生け縶にされたときは、廓清の功は旦夕に俟つべきものであった。それなのに碧蹄で軽々しく進んで兵気は破れ傷つき、功は一簣に虧けた。まことに悼むに足りる。
- また麻貴の蔚山の捷では、三協が師を度って勢いは相い犄角し、柵を砍り寨を抜いて鋒鋭は当たるものがなかった。それなのに首級を割る令が軍威を解散させた。僉都(楊鎬)の肉はどうして食うに足りようか。
- まして沈惟敬は市井の身で皇命を銜み、李宗城は淫貪の身で正使に充てられた。風月楼で節を候つ紿かしから、壺觴の好会の詐りに至るまで、邢玠の飛捷の書、楊鎬の冒功の挙は、上を罔いて私を行い、威を損ない重きを失った。煌々たる天朝の挙動がこのようでは、荒れた辺境が賓服せぬのも怪しむに足りない。
- もし関白が悪を貫いて病み亡くならず、諸倭が帆を揚げて解散しなかったなら、七年の間に師を喪うこと十余万、金を糜すこと数千鎰、善後の策は茫として涯がなかったであろう。国憲をもって律すれば、どうして言い逃れられよう。それなのに天の功を貪って倖に爵賞を邀え、緋を衣、玉を横たえ、子を任じ官を贈られた。恥ずかしいことではないか。
- そもそも馬棟・丁応泰の疏がまっすぐ関白の未だ死なぬ前に伸べられ、李堯民の章がかえって関白の已に死んだ後に抵げられたのは、用兵の初めは神宗の怒りが甚だ鋭く、怒れば速やかに済むことを望むゆえ必ずその真を核べようとし、用兵が久しくなると神宗の憂いが次第に深く、憂えればその成功を幸いとするゆえその偽を明らかにするのを欲しなかったからである。ついに忠言する者は落職し、君を欺く者は封爵された。その遭逢は異なったのである。