明史紀事本末江陵(張居正)の執政(江陵柄政)
嘉靖四十三年(1564年)から万暦十二年(1584年)までの約20年間、張居正が裕王の講官から内閣首輔に登り、明の政治を独り握った経緯を扱う。穆宗の顧命を受けた張居正は宦官の馮保と結んで高拱を追放し、王大臣の獄で高拱をさらに陥れようとしたが楊博・葛守礼らに阻まれた。首輔として考成法・丈量・帯徴の蠲免を行い、戚継光・李成梁・凌雲翼らを用いて辺と南蛮を鎮め、幼い神宗を経筵で導いて国庫を満たした。一方、父の喪で奪情を図って呉中行・趙用賢・艾穆・沈思孝・鄒元標を杖し、劉台や張瀚を斥けて怨みを買った。万暦十年に卒すると、二年後には遼府次妃の訴えによって家を籍没され、一族が流された。
年表(12件)
- 世宗
- 嘉靖四十三年秋七月〜穆宗隆慶元年(1567年)(張居正の登用)1564年張居正が裕王の講官から入閣し大学士に進む
- 隆慶二年八月(大本急務六事の上奏)1568年張居正が省議論・振紀綱など六事を上奏し採用される
- 隆慶三年〜六年(1569〜)(顧命と高拱の追放)1572年穆宗の顧命の後、馮保と結んで高拱を逐い首輔となる
- 隆慶六年八月〜十二月(経筵の再開と諫言)経筵と日講を常とし帝鑑図説を進めて幼帝を導く
- 神宗
- 萬曆元年(王大臣の獄)1573年王大臣の獄で高拱を陥れようとし楊博・葛守礼に阻まれる
- 萬曆元年六月〜二年(1573〜)(考成法と経筵の問答)1574年章奏の考成を始め、曽省吾と劉顕が四川の都蛮を平らげる
- 萬曆三年〜四年(1575〜)(辺事の見識と劉台の弾劾)1576年御史の劉台が専擅を弾劾して杖され、張居正は太傅に進む
- 萬曆五年(羅旁の平定と奪情の紛議)1577年凌雲翼が羅旁を平らげ、父の喪で奪情され諫官五人が杖される
- 萬曆六年〜七年(1578〜)(帰葬・河工と諫言)1579年帰葬から復帰し、潘季馴を用いて河工を成す
- 萬曆八年〜九年(1580〜)(辞職の請いと諫言)1581年休を乞うも慈聖太后に留められ、上柱国・太師を加えられる
- 萬曆十年(帯徴の免除と張居正の死)1582年万暦七年以前の積負を蠲免させた後、六月に張居正が卒す
- 萬曆十二年(家産の籍没)1584年遼府次妃の訴えにより家を籍没され一族が充軍される
世宗嘉靖四十三年(1564年)秋七月〜穆宗隆慶元年(1567年)(張居正の登用)
- 嘉靖四十三年秋七月、諭徳の張居正を裕王の講官に充てた。
- 隆慶元年二月、藩邸の侍従の諸臣に恩を加え、礼部右侍郎の張居正を吏部左侍郎兼東閣大学士として内閣に直させた。四月、礼部尚書・武英殿大学士に進めた。
隆慶二年(1568年)八月(大本急務六事の上奏)
- 春正月、大学士の張居正に少保を進めた。
- 八月、張居正が疏を上って大本の急務六事を陳べた。
- 第一に「議論を省くこと」。およそ事は無用の虚辞を貴ばず、躬ら行う実効を求めるべきである。一事を為そうとすれば初めに審らかにし、計慮がすでに審らかになれば断じて行う。唐の憲宗が淮蔡を討ったとき、百方から沮まれても揺るがなかったごとくである。一人を用いようとすれば始めに慎み、その人を得れば信じて任ずる。魏の文侯が楽羊を用いたとき、謗る書が箱に満ちてもついに動かされなかったごとくである。
- 第二に「紀綱を振るうこと」。近年、綱紀が粛まらず、猥りに模稜両可を調停と称し、委曲遷就を善処と称している。刑賞・予奪を一に公道に帰して私情に曲げ狥わず、政教・号令を一に宸衷から断じて浮議に紛れ更めぬようにされたい。
- 第三に「詔令を重んずること」。近日、朝廷の詔旨が多く阻まれて行われず、十余年も終わらぬものがある。文書は積み重なって多くは埋もれ、年月が久しくなれば事は多く真を失う。こうして網を漏れた者はついに逃れ、国に中らざる法があることになり、盆を覆せられた者は自ら苦しみ、人は明かされぬ冤を懐く。是非は何によって明らかとなり、賞罰は何によって当たろう。各司に勅を下して厳しく期限を立て、奏報を責め、違う者は査べられたい。
- 第四に「名実を覈べること」。器は試してこそ利鈍を知り、馬は駕してこそ駑良を知る。いま人を用いるのはそうでない。官は久しく任ぜず、事は成を責めず、更調は繁すぎ、遷転は急すぎ、資格は拘りすぎ、毀誉は実を失っている。皇上は名器を慎重にし、爵賞を愛惜し、人を用いるには必ずその終わりを考え、人に授けるには必ずその当を求められたい。なお吏部に勅して考課の法を厳しくし名実の帰するところを審らかにされたい。
- 第五に「邦本を固くすること」。いま風俗は侈靡で、官民の服舎にみな定制がなく、外では豪強が兼併して賦役は均しからず、名を分け偽って寄せて小民に偏って累が及んでいる。内外の諸司に勅して悉心して清理させられたい。
- 第六に「武備を飭めること」。いま議者はみな「兵は多からず、食は足らず、将帥は人を得ぬ」と言うが、臣はこの三つはみな患うるに足らぬと思う。そもそも兵は少なきを患えず弱きを患える。いま軍の員数は欠けていても糧は具に存する。籍に按じて徴し求め、冒占を清査し、宜しきに随って募り補い、実に従って訓練すれば、兵のないことを何ぞ患えよう。無用不急の費を捐てて戦闘の士を撫養すれば、財のないことを何ぞ患えよう。重賞を懸けて功ある者を勧め、文法を寛くして将権を伸ばせば、忠勇の者で誰が奮うことを思わぬだろう。将のないことをまた何ぞ患えよう。
- 目前の自ら守る策としては、辺吏を選択し、郷兵を団練し、併せて墩堡を守ることより要なものはない。臣が前代および我が祖宗を考えるに、いずれも大閲の礼があって武事を習い不虞を戒めた。いま京師の内外の守備は単薄である。戎政の大臣に勅して軍政を申し厳しくし、法を設けて訓練し、毎年、農閑の時に恭しく大閲を請うて将帥の能否・軍士の勇怯を試されたい。武備に意を注いで戎事を整え飭めれば、外寇の謀を伐ち、未萌の患いを消すに足りよう。
- 疏が入って上は「卿の奏を覧るに、みな深く時務に切であり、国を謀る忠悃が具に見える。所司は詳らかに議して聞かせよ」と言った。そこで都御史の王廷らが「振紀綱」「重詔令」の二事を覆奏して八則に析ち、疏が上って上は允し行わせた。兵部は「飭武備」の事宜として、兵を議し、将を議し、郷兵の団練を議し、城堡の守備を議し、京営の整飭を議し、また「大閲の礼は宣宗・英宗がかつて行われた。恭しく親臨較閲を請う」と閣臣の奏どおりに奏した。上は「大閲はすでに祖宗の成憲がある。まことに修め挙げるべきだ。先んじて整え飭め、明年八月の挙行を待て。他はみな議のとおり」と言った。戸部は「固邦本」を議して、財用のうち経理すべきものに十条あるとし、厳しく法を立てて整え飭めるべきだと言い、上は一々允し行った。
- 十二月、遼王を廃した。大学士の張居正はもと遼王の尺籍に属していた。憲㸅の代になるとかなり驕り酔い、多く人を凌ぎ轢いたので、張居正は恨み、しかもその府第の壮麗を羨んだ。折しも王が謀反を謀ったと告げる者があり、刑部が訊治した。侍郎の洪朝選が調べたが謀反の状はなく、わずかに淫酗に坐した。憲㸅は高墻に錮され、その府は廃されて、張居正は攘って邸とした。後にまた洪朝選が反律に従わなかったのを恨み、洪朝選を謀殺した。
隆慶三年〜六年(1569〜1572年)(顧命と高拱の追放)
- 三年九月、上が京営の教場で大閲した。戎政の官および諸吏卒に勅諭した。先に給事中の駱問礼が「大閲はいま急ぐところではなく、聖駕を煩わせるに及ばぬ」と言ったが、張居正が力めてその説を持したので、上はついに行ったのである。
- 四年十二月、大学士の張居正は秩が満ちて兼太子太傅・吏部尚書に進み、少傅兼建極殿大学士に進んだ。
- 六年春正月、大学士の張居正に少師を進めた。
- 五月、上は不予となり、己酉に大いに危篤となって、閣臣の高拱・張居正・高儀を乾清宮に召して顧命を受けさせた。上は御榻に倚り坐し、皇后および皇貴妃がみな侍り、東宮は左に立った。上は甚だ困しんでいたので、太監の馮保が顧命を宣べた。「朕は統を嗣いでわずか六年、いま疾は甚だしくおそらく起てぬ。先帝の付託に背いた。東宮は幼冲であり卿らに属す。協せ輔けて祖制を遵守すれば社稷の功である」。高拱らは泣き拝して出た。翌日、上は崩じた。
- 六月甲子、皇太子が即位した。年はわずか十歳。当時、太監の馮保がまさに中に居って事を用いており、大行の遺詔を矯り伝えて「閣臣は司礼監とともに顧命を受ける」と言った。廷臣は聞いてみな駭いた。
- ある日、内使が旨を伝えて閣に至ると、高拱は「旨は誰から出たのか。上は幼冲であり、みな汝ら輩の為すところだ。私は汝ら輩を逐うぞ」と言った。内臣が還って報せると馮保は色を失い、高拱を逐うことを謀った。高拱と張居正はともに気を負って相譲らなかったが、張居正はそこで馮保と結んで自ら固めた。当時、台諫が交々馮保を弾劾して必ず斥けようとし、高拱は自ら張居正・高儀とともに憑几の顧命に与ったとして、しばしば慷慨して宮府の権を収めようとし、「老臣は謬って託孤を膺けた。股肱を竭くさぬわけにいかぬ。およそ内から降される命と府部の章奏は、当然、公に聴き並べ観るべきだ。中旨を伝奉する者があれば、所司は法に按じて覆奏し、老臣に申して折衷させ、百官が己を総べる義に復せよ」と言った。
- 高拱は内で馮保の専恣を慮り、張居正・高儀とこれを除くことを謀った。張居正は陰かにこれを馮保に洩らし、馮保と謀って高拱を除くことにした。
- 六月既望の庚午、夜明けに高拱は直にあり、張居正は病と称していた。諸大臣を会極門に召し、張居正を促して至らせた。高拱はまさに馮保を逐うのだと思った。馮保は皇后・皇貴妃・皇帝の旨を伝えて言った。「なんじ内閣・五府・六部の諸臣に告げる。大行皇帝が賓天される前日、内閣の三臣を御榻の前に召し、我ら母子三人とともに親しく遺属を受けた。『東宮は年少である。なんじらの輔導に頼る』と。大学士の高拱は権を攬り政を擅にし、威福を奪って自ら専らにし、まったく皇帝に主管させず、我ら母子を日夕、驚き懼れさせた。ただちに本籍に帰らせて閑住させ、停留を許さぬ。なんじら大臣は国の厚恩を受けながら、どうして権臣に阿附し幼主を蔑視するのか。今より洗い滌いで忠を報ぜよ。往轍を蹈む者があれば典刑に処す」。
- 高拱は即日、朝門を出、一台の牛車を得て立ったまま乗った。緹騎と兵番が踉蹌として追い逐い、その路銀を失った。大臣が国を去るのにこのようなことは異聞であった。高拱が去ってから張居正が馳駅を乞い、そこで帰らせた。高儀もまもなく病で死に、張居正は堂々たる首輔となった。
- 辛酉、上は平台に御して張居正を召し、慰労して「皇考はしばしば先生を忠臣と称された」と言った。張居正は首を傾けて泣き謝し、「いま国家の要務はただ旧制を遵守し、みだりに更めぬことにあります。講学・親賢・愛民・節用に至っては君道の先とするところです。聖明の留意を乞います」と言った。上は「善し」と言い、そのまま酒饌と銀幣を賜った。
- 張居正は政を柄ると慨然として天下をもって己が任とし、中外はその風采を想い望んだ。一意に主権を尊び吏の実を課した。かつて「高皇帝は聖の威を得た方である。世宗はよくその意を識られた。それゆえ法宮の中に高臥され、朝は裘に委ねても乱れなかった。今上は世宗の孫である。どうして祖に法らずにいられよう」と言った。詔の草を具えて上に請い、群臣を召して廷で飭めさせ、百僚は惕れた。
隆慶六年八月〜十二月(経筵の再開と諫言)
- 八月、張居正が経筵を開くことを請い、さらに常朝の日期を更め定め、門に御して政を聴くことを請い、いずれも従われた。上はそこで文華殿に御して日講を常とした。
- 十一月、太監の崔敏が金珠・宝石を買うことを請うた。張居正は「先の六月に停止を命ぜられました。いまにわかにこの挙があれば、前の詔が信じられぬことになります。しばらく停めて民力を蘇らせてください」と上言し、崔敏の疏を封じ返して、報じて罷めさせた。
- 十二月、張居正が「帝鑑図説」を進めた。上は冊を捧げて進めるのを見て喜色を顔に動かし、たちまち起ち立って左右に冊を展べさせた。張居正が傍らから大義を指し陳べると、上は響きのごとく応じた。そこで史館に宣付し、張居正に銀幣を賜った。
- ある日、上が文華殿に御して講が終わり、漢の文帝が細柳に軍を労ったことに及んだ。張居正は「皇上は武備に留意されるべきです。祖宗は武功で天下を定められましたが、承平が久しく武備は日に弛んでおります。早くに講求せずにはいられません」と言い、上は善しと称した。
- 甲戌、張居正が「明年正月上旬にただちに殿に御して日講されたい。ただ先帝の喪がまだ期に満たぬので宴を設けず、併せて元夕の灯火を免ぜられたい」と奏した。上は「すでに早くに停止した。母后に膳を侍るたび甚だ簡素にし、あるいは節日に果宴を具えても楽は設けぬ」と言った。張居正は善しと称した。まもなく光禄卿に諭して節間の供応七百余金を免じさせた。
- 戊寅、張居正が「制勅は簡厳を尚ぶべきです。近ごろは誇り侈ることが過ぎております。臣が君に諛うのさえ佞と言うのに、まして上が下に諛うのは。代言の諸臣を戒めて古に復し実に従い、制の体を壊さぬようにされたい」と上言し、従われた。
神宗萬曆元年(1573年)(王大臣の獄)
- 春正月辛卯、成国公の朱希忠、大学士の張居正に経筵の事を知らしめた。上は甚だ張居正を敬い礼した。日ごとに経筵に御し、張居正は詩書を持って文華殿の後に入り、小さな幄を張って膝を接して密語した。ある日、張居正が直廬で病を感じると、上は暖閣に御して自ら椒湯を調えて賜った。盛暑に講に御するときは張居正の立つ所に内使をやって扇を揺らさせ、隆冬の進講には毡を地に敷かせた。
- 庚子、早朝、上が乾清宮を出ると、鬚のない男子が宦者の姿を偽り、袖に佩刀を持って趨り走り、惶れ遽てているのを見た。左右がこれを捕らえた。馮保が立ったまま鞫って「南兵の王大臣か。どこから来た」と問うと、「総兵の戚継光のもとから来た」と答えた。馮保は密かに張居正に報せ、張居正は馮保の耳に附いて「戚公はまさに南北の軍禁を握っている。妄りに指してはならぬ。これを借りて高氏を除ける」と言わせた。馮保はもとより陳内監の洪を甘心しようとしていたので、すでに洪を逮えて獄に錮していた。
- 先に王大臣は戚帥が三屯営に南兵を置いていたが遂げられず、都下に流落した者だった。人となりは巧みに敏く便佞で、一人の中貴が寵愛していた。このとき高拱の使いと称させ、籍を武進県に改めさせ、そのうえで厠の卒の辛儒に王大臣に蟒袴を着せ、二剣を与えた。剣の首は猫精の異宝で飾られていた。廠中に送り繋ぎ、奏聞して主使者を究めるよう請うた。張居正もまた馮保の意のとおりに疏を上った。
- 上はただちに馮保に付して鞫らせた。馮保は辛儒に人払いして王大臣に「ただ『高相君が怨望して汝を遣わして刺させた』と言い、進んで自首して罪を免れれば、汝を錦衣の官とし千金を賞す。さもなくば重く搒掠されて死ぬぞ」と言わせ、辛儒に金を与えさせ美食を饗させた。辛儒は日々、王大臣と狎れ親しみ、そのうえで高拱の家人を同謀と誣わせた。
- 獄が成って馮保は五校を飛ばして高拱の僕に械をつけた。張居正の前の疏は中外に伝わり、口語は籍々として「まさに高拱を逮えようとしている」と言った。
- 張居正はそこで吏部尚書の楊博に密かに謀った。楊博は「迫れば大獄を起こすおそれがある。それに上は神聖英鋭で公平を持し察しておられる。高公は粗暴でも天日は上にある。どうしてこのようなことがあろう」と言った。張居正は面を赤くして不快とした。
- 折しも大理少卿の李幼孜は張居正の同郷だったが、やはり輿に病んで張居正に告げ、「公はどうしてこのような悪名を為して青史を汚されるのか」と言った。張居正は強いて「私はこの事を憂えて死ぬにも劣る。どうして私が為したと言うのか」と応じた。
- 張居正は科道官に言うことを禁じたが、御史の鍾継英が疏を上って明言はせず暗に指した。張居正は怒って旨を擬して詰問した。左都御史の葛守礼が楊博に「張公を訪ねれば必ず諍うだろう」と語ると、楊博は「すでに告げた」と言った。葛守礼は「輿望は公に属している。公なら人を殺して人に媚びぬと思うからだ。大獄がまさに起ころうとしている。公はどうしてすでに告げたことを言い訳にされるのか」と言い、ともに張居正を訪ねた。
- 張居正は「東廠の獄はすでに成った。同謀の人が至ればただちに疏して処すだけだ」と言った。葛守礼は「守礼が乱臣の党に附けましょうか。百口をもって高公を保証したい」と言った。張居正は黙って応じなかった。楊博は「相公が公議を持して元気を壮んにされんことを願う。廠中にどうして良心があろう。もし株連する者が衆ければ、事はさらに知りえぬことになりましょう」と言った。張居正は堅く承知しなかった。
- 楊博と葛守礼はそこで先朝の政府が心を同じくして輔政したこと、および貴渓(夏言)・分宜(厳嵩)・華亭(徐階)・新鄭(高拱)が逓いに傾け軋って相の名を損なったことを歴々と数え、殷鑑とすべきだと言った。張居正は憤って「二公は私が高公を甘心すると思われるのか」と言い、奮い立って内に入り、廠中の掲帖を取ってきて楊博に投げつけ、「これが私と何の関わりがあるか」と言った。掲帖には張居正が竄め改めた四字があって歴々と拠るところがあったが、張居正はそれを忘れていた。葛守礼は張居正の手蹟と識って笑って袖に納めた。張居正は気づいて「彼は法理に諳んじておらぬので、私が数字を易えたにすぎぬ」と言った。葛守礼は「機密の重情を、ただちに上聞せずまず政府に上げたのですか」と言った。
- 「我ら二人は相公が高公を甘心すると言うのではない。天を回すのは相公でなければできぬのです」と言うと、張居正は揖して謝し、「かりに効しうるなら敢えて任ぜぬわけにいかぬ。ただ、どうやって善く後を処すか」と言った。楊博は「相公は任ぜぬことを患えられるだけだ。任ずるなら何の難きことがあろう。善後には力ある世家で国と休戚をともにする者を得てこそ委ね治めさせられる」と言った。張居正は悟り、初めて上の前で処置するよう言った。
- 上はただちに馮保に左都御史の葛守礼、都督の朱希孝と会審するよう命じた。朱希孝は懼れ、その兄の成国公・朱希忠と相対して泣き、「誰がこの策を画したのか。吾が宗を覆すものだ」と言い、急ぎ張居正のもとに詣でて命を請うた。張居正は「ただ冢宰と大中丞に会いなさい」と言った。朱希孝は泣いて楊博を謁した。楊博は「公を借りて朝廷の宰相の体を全うしようとしているだけだ。どうして身家をもって公を陥れるに忍びよう。しかしまた何の難きことがあろう。公はただ、探るのに長けた校尉を獄に入れて、刀剣と口語の由って来るところを訊ね、高家の僕を稠しい衆の中に雑えて別に識らせ、かつ『高公にどこで会ったか、いまどこにいるか』と問えば、たちどころに弁じられる」と言った。
- 朱希孝は楊博の言のとおり、探るのに長けた校尉に密かに王大臣がどこから来たか訊ねさせると、馮保の所から来たのであり、語はことごとく馮保の口から出たものだった。校尉はただちに王大臣に「宮に入って逆を謀った者は法として族せられる。どうしてこれに甘んじるのか。実を吐けば、あるいは罪を免れよう」と告げた。王大臣は茫然として哭き、「初めに私を紿かして、主使者は死罪だが自首すれば無事で官もまた賞せられると言った。どうして実を言うべきと知ろう」と言った。高家の僕を逮えて至らせ、朱希孝が諸校の中に雑えて王大臣に物色させたが、識別できなかった。
- 会審のとき、風と霾で大いに暗く、ついで雨と雹がやまなかった。東廠の理刑の白一清は、馮保が初めに問官とした二千戸に「天意がこのようだ。畏れずにおれようか。高相国は顧命の大臣で、もとより影も響きもないのに、強いて我らに誣わせている。我らにはみな身家がある。他日、どうして誅戮を免れよう」と言った。みな「馮公がすでに為したことで、しかも詞にはもとより陰かに持する者がある。どうしようもない」と言った。白一清は「東廠の機密の重情を、どうして閣に送って改めさせられよう」と言った。
- しばらくして天がやや明るくなり、王大臣を出して会問した。故事どおりに雑え治めようとすると、王大臣は「もとより私に富貴を許したのに、なぜ雑え治めるのか」と呼んだ。馮保がただちに「誰が主使したか」と問うと、王大臣は目を瞪って面を仰ぎ、「お前が私にさせたのに、いま問うのか」と言った。馮保は気を奪われ、強いて再び「お前は高相国と言ったのは何ゆえだ」と問うと、「お前が私に教えたのだ。私がどうして高相国を識ろう」と言った。朱希孝がさらにその蟒袴と刀剣を詰ると、「馮家の僕の辛儒が与えた」と言った。馮保はいよいよ懼れた。朱希孝が「お前は獄使を汚そうというのか」と言い、そこで罷めた。
- 馮保はひそかに王大臣に生漆の酒を飲ませて瘖にし、内には高拱の行刺の事として奏聞した。殷という内監で年七十余の者があり、上に奏した。上は「高拱はもと忠臣である。どうしてこのようなことがあろう」と言い、そのまま馮保を顧みて「高鬍子は正直な人だ。張居正はもとより忮み刻む心を懐いて必ず殺そうとしている。我ら内官がどうして彼を助ける必要があろう」と言った。馮保は大いに沮み、内監の張宏もまた力めて不可と言った。そこで上は刑部に下して罪を擬させ、ついに王大臣を斬に論じた。
- 高拱は張居正に齮り齕まれて門を閉ざし屏み居り、中州に仕宦する者は敢えて新鄭を過ぎず、みな道を枉げて他へ去った。
萬曆元年六月〜二年(1573〜1574年)(考成法と経筵の問答)
- 六月、張居正が「章奏を稽べ劾し、事に随って成を考え、遷延・隠蔽する者があればただちに挙げ弾劾されたい」と上言し、上は従った。
- 冬十月、上が文華殿に御して張居正が進講した。宋の仁宗が珠の飾りを喜ばなかったことに及ぶと、上は「賢臣を宝とする。珠玉が何の益あろう」と言った。張居正は「明君は五穀を貴んで珠玉を賤しみます。五穀は人を養いますが、珠玉は飢えても食えず寒くても着られません」と言った。上は「そのとおりだ。宮人は冶粧を好むが、朕の歳ごとの賜与は節省せぬことがない」と言った。張居正は「皇上がここに言い及ばれるのは社稷生霊の福です」と言った。上はまた「秦の始皇は兵器を銷いたが、梃も人を傷つけうる。何のために兵を銷いたのか」と言った。張居正は「人君は徳を布き政を修め、民心を結ぶのを本とします。天下の患いは常に防いだ所の外に出ます。秦は戍卒に亡びました。ゆえに天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずと申します」と言った。上は「そのとおりだ。人が定まればまことに天に勝てる」と言った。
- 二年春正月、大学士の張居正が、上が廉能の官を引見し、祖宗の午朝の儀に倣うことを請い、従われた。甲午、上は皇極門に御して、朝覲した清廉卓異の浙江布政使の謝鵬挙ら二十五人を引見し、特に奨励を加えてそれぞれ金幣を賜り、併せて宴した。
- 張居正が進講の章疏を上って、その要旨に「義理は必ず時に習ってこそ悦べ、学問は必ず故きを温めてこそ新しきを知る。臣はいま今年進めた講章を重ねて删り定め、大学一冊、虞書一冊、通鑑四冊を進呈して睿覧に供する。浅近の言とはいえ、遠きに行き高きに登る一助となりましょう」と言った。
- 四川西南の都蛮が平らいだ。初め隆慶のとき都蛮が乱を作し、張居正が曽省吾を薦めて討たせた。曽省吾には偉大な略があった。四川総兵の劉顕が閩での事で弾劾されると、張居正は「敵に臨んで将を易えるのは兵家の忌むところだ。もし蜀の事が効を上げねば、閩の事と併せて逮治する」と言った。そこで劉顕は身を顧みず奮い、曽省吾の方略を受けて蛮を平らげて自ら効した。六月を越えて諸寨はことごとく平らぎ、蛮の長三十六人を俘とし、地を四百里拓いた。捷が聞こえて差をつけて賜賚した。
- 上が文華殿に御して講が終わり、「建文は果たして出亡したのか」と問うた。張居正は「国史には載っておりません。ただ故老の伝えるところ、緇を披て雲遊し、田州に詩を題して『流落江湖四十秋』の句があるといいます」と言った。上は太息して詩を録して進めるよう命じた。張居正は「これは亡国の事で観るに足りません。皇陵碑および高皇の御製集を録して上り、創業の艱難と聖謨の盛んなることをご覧に入れたい」と言った。翌日、輔臣が皇陵碑を進めた。上は覧終えて張居正に「朕は碑を覧て数たび読み、覚えず感傷して泣きそうになった」と言った。張居正は「祖宗の当日の艱難は、思うに天心をもって心とされたので、制を創り庸を顕らかにされたのです。皇上が聖祖の心をもって心とされてこそ、洪業を永く保てます」と言い、聖祖の微賤のころのことおよび即位後の勤倹を述べた。上は愴然として「朕が敢えて黽勉して祖に法らずにおれようか。しかしなお先生の輔導に頼る」と言った。
- 秋九月辛巳、刑部が録囚を請い、慈聖太后が停めようとした。上が張居正に問うと、「春に生じ秋に殺すのは天道の常です。皇帝の即位以来、刑を停められたのは二度に及びます。稂莠を除かねば、かえって嘉禾を害します。凶悪を去らねば、かえって良民を害します」と答えた。上は太后に請い、従われた。
- 十二月壬子、張居正が大臣を率いて御屏を上った。屏には天下の疆域および職官の姓名が絵かれ、浮帖を用いて更換しやすくしてあった。上は文華殿の後に設けさせ、時に省覧を加えた。
- 閏十二月丁亥、上が「弼予一人、永保天命」の書を御筆して張居正に賜った。翌日、張居正は侍して進諫し、「帝王の学は大きなところに務めるべきです。堯舜から唐宋の賢主に至るまで、みな徳を修め政を行い、世を治め民を安んじ、一芸をもってしませんでした。漢の成帝は音律を知り簫を吹き曲を度れ、梁の武帝・陳の後主・隋の煬帝・宋の徽宗はみな文をよくし書に長けましたが、いずれも乱亡を救えませんでした。それなら君徳の大なるものが、どうして沾々たる一芸でありましょう」と言った。
- 他日、上が日講を終えて張居正に「元夕の煙火と鼇山は祖制か」と問うた。「そうではありません。成化年間に母后に奉ずるために始まり、当時も諫め阻む者が多くありました。いま新政ですから裁されるべきです」と答え、上は「そのとおりだ」と言った。張居正は「明年は禫とはいえ、これに続いて大婚があり、また皇弟の潞王が出閣し、諸公主が降嫁されます。費えは甚だ煩わしいので、予め節省されるべきです」と言った。上は「朕は民の窮乏をよく知っている」と言った。張居正が元日の賜賚を減らすよう請うと、上は大いに然りとした。
- 上はまたかつて輔臣に「昨日、禁中の花が盛んに開き、母后に侍って賞し宴して甚だ歓しかった」と語った。慈寧のことを指す。張居正は「仁聖太后の処は多く寂寞としております。ただ皇上のみがこれを念じられますよう」と奏した。上は起って宮に還り、慈聖に申し上げてただちに自ら駕して迎えに行き、仁聖を大内に過ぎさせて花を賞し觴を伝えて歓宴して罷めた。
萬曆三年〜四年(1575〜1576年)(辺事の見識と劉台の弾劾)
- 三年夏五月、大学士の張居正が「近ごろ郡県の入学は濫に過ぎます。学臣に勅して量って裁省させ、併せて吏部に勅して、およそ在所の督学の臣は方正な者でなければ遣わさぬようにされたい」と上言した。
- 遼東から警が告げられ、上は深く憂えた。張居正は「暑月は北騎が狂い逞しくする時ではありません。必ず憂いはありますまい」と答えた。まもなく薊遼総兵の戚継光が「諸部は解散して警はない」と報せた。
- 張居正はそこで疏を上って辺事を論じた。昨日、遼東の撫臣の張学顔が「寇衆二十余万が遼東を犯そうと謀り、前鋒はすでに大寧に抵った」と報せました。皇上は臣に面諭され、臣はすでに事なきを料ると面奏しました。いま総兵の戚継光の報せによれば寇は久しく解散しております。臣はまた人に宣府で西人の青巴図の動静を密かに偵らせましたが、巴図は巣に在って駐牧し、まだ東行しておりません。遼東の報せたところはみな虚声に属します。
- 臣らはこれによって、かえって切に憂え慮ります。そもそも兵家の要は、必ず彼己を知り虚実を審らかにしてこそ敵を待って勝ちを取れます。いま端なく一つの訛言を聴いて倉皇として措置を失うのでは、彼己の虚実にまったく茫として知らぬのであって、風声鶴唳・草木皆兵と何が異なりましょう。敵情は狡詐です。万一、彼が常に虚声で我を恐れさせて驚惶させ、命に奔らせて疲れさせ、久しくして懈み弛んで備えぬようにさせ、その後に卒然と至れば手を措くに及びません。これは彼が却って「先声後実」「多方に誤らせる」の策を得たことになり、我はかえって彼己を知らずして百戦百敗する道を犯すことになります。他日、辺臣が失事するのは必ずこれによりましょう。ゆえに臣らは寇の来ぬことを喜ばず、深く辺臣が敵情を知らぬことを憂えるのです。
- 兵部は中に居って調度するのを職としますから、なお機宜を審らかに察し、謀を沈め果断であってこそ、樽俎に折衝して坐しながら勝ちを制せます。いま一たび奏報を聞けばたちまち張り慌て、事が已んだ後はまた寂として語がありません。いたずらに君父に上で焦り労させて四方を憂えさせるだけです。どうして題覆の公牘だけで本兵の事を畢えたと言えましょう。兵部に伝諭して寇情の虚実の由を詰り、警めを知らせ、併せて各辺の飢えた卒を賑わされたい、と。いずれも従われた。
- 八月、張居正が閣臣を増すことを請い、許された。即日、吏部左侍郎の張四維を礼部尚書として東閣に入れた。故事では入閣する者は「某人とともに事を弁ず」と言うだけだったが、このとき上は手ずから「元輔に随って入閣して弁ぜよ」と注した。張四維は恂々として属吏のようであった。
- 十一月、張居正が郊祀の図を上って書三冊とした。首に分合・沿革の由を叙し、次に壇壝の陳設を具え、次に儀注・楽章を列した。大意は高皇の定制に遵い、毎年一たび合祀して二祖を奉じて並び配するというもので、上は褒め答えた。
- 四年春正月、御史の劉台が大学士の張居正を弾劾した。「威福を専擅している。大学士の高拱を逐い、私に成国公の朱希忠に王爵を贈り、張四維・張瀚を引き用いて党とし、言官の余懋学・傅応禎を斥け逐うた。上を罔いて私を行い、横に瀆して飽くことがない」というものである。
- 張居正は甚だ怒り、上に見えて政を辞して言った。「臣の処するのは危地であります。言者は威福を擅にすると言いますが、臣の行うところはまさに威福であります。巽順にして下を悦ばせるべきか。それでは国に負きます。公を竭くして上に事えるべきか。それでは専擅の譏りを逃れられません」。地に伏して起とうとしなかった。上は御座を下りて手ずから助け起こし、「先生よ起たれよ。朕はまさに劉台を責めて先生に謝そう」と言った。詔して劉台を獄に下し、杖百を加えて遠く戍らせた。時議は籍々として、張居正は自ら安んじられず、さらに疏を具えて解いて杖を免じさせ、職を奪って民とさせた。しかし心はついに恨み、後に結局これを死に至らしめた。
- 三月戊戌、上が文華殿に御し、唐の玄宗が勤政楼で安禄山を宴したことに言い及んだ。上は「楼の名は勤政なのに、なぜ佚楽したのか」と言った。張四維は「玄宗の開元の治には三代の風がありました。天宝に至って荒れ佚し、ついに播遷を致したのです」と言った。張居正は「往代は論ずるまでもありません。我が世宗皇帝も初年には西苑に無逸殿を建てて耕を省み農を勧められましたが、末年には玄修を崇尚され、二度と臨幸されませんでした。治平の業もまた寝みました。ゆえに大宝箴に『民はその始めを懐うも、その終わりを保たず』と申します」と言った。上は嘉納した。
- 五月辛酉、上が朝を視、張居正らが奏章を覧ることを請い、時に聖祖が親しく批した疏稿を閲して法とされたいと言った。上は「そのとおりだ」と言った。張居正はそこで内閣に蔵する聖祖の手諭六十三道、御製四十四道、聖旨および帖あわせて七十道を選んで上った。
- 秋七月丁酉、張居正が上言した。治を致す道は民を安んずるより要なものはなく、民を安んずる法は守令より重いものはありません。土を守り民を牧する者は、下を削って上に奉じて声誉を希い、奔り走り趨り承って薦挙を求め、徴発と期会で簿書を完うし、苟且に草率にして罪責を逭れております。まことに心から民を愛する者は、まだ概して見られません。明春の外計・考察の挙錯は向背の係るところです。ただ安静で民に宜しきを最とし、虚文と矯飾は、たとえ浮いた誉れが日ごろ隆くとも下考に列すべきです、と。
- 張居正はさらに考成法を行うことを請い、有司には徴収・上納をもって成績の上下とした。そこで奉行する者は小民を督責し、小民は朴楚に堪えず相率いて怨言を為したが、賦は時どおりに起きた。張居正は「近ごろ皇上が人を愛し用を節せられたおかげで、京と通州の儲粟は八年を支えるに足ります。ただ太倉の銀庫の積みは少ないので、明年の漕糧は量って十分の三を折納させ、国を足らせ民を裕かにする一挙両得を図られたい」と上言し、上は従った。当時、府庫は充ち溢れ、太僕寺もまた金四百余万を積んだ。
- 冬十月丙子、張居正を左柱国・太傅に進め、なお伯爵を加えた。勅に「先生は親しく先朝の顧命を受け、朕の冲年を輔けた。いま四海が昇平なのは実に匡け弼ける精忠に頼る。大勲は言い尽くせぬ。我が祖宗と列聖が汝の子孫を祐け、国とともに休せんことを。欽めや」とあった。張居正は伯爵を固辞し、許された。
- 山東の撫按が昌邑知県の孫鳴鳳の貪賄を弾劾した。上は甚だ怒って逮えさせようとした。張居正は「貪る人はもとよりことごとく治めるべきですが、故事ではみな台に下して訊ねます」と言い、上は「そのとおりだ。孫鳴鳳の貪りは進士から出たのか」と言った。張居正は「この人はただ進士であることを恃んで恣肆なのです。もし乙科や明経ならなお畏れ憚りがありましょう。今後、人を用いるにはただ功能を問い、資格に拘るべきではありません」と言い、上は深く然りとした。
- 十二月、上が文華殿に御して袍を挙げて輔臣に「これは何色か」と示した。張居正は青とした。上は「紫である。久しくして色が変わったのだ」と言った。張居正は「紫は変わりやすいものです。昔、皇祖は服御を尚ばれず、衣は甚だ敝れてから初めて易えられました。国を享けること長久だったのは、必ずしもこれによらぬではありません。皇上は皇祖を法とされたい。一つの衣を節すれば民間に数十人その暖を得る者があり、一つの衣を軽くすれば民間に数十人その寒を受ける者があります。念じられずにはいられません」と言った。当時、左右もまた「民は窮して妻子を鬻いで上供に応じております」と言い、上は深く然りとした。
萬曆五年(1577年)(羅旁の平定と奪情の紛議)
- 春正月庚午、上が文華殿に御した。大学士の張居正が「殿の東堂には伏羲以下の数聖君を祀っております。皇上が法とされるべき方々です。古の聖に法るのはただ章奏を省覧することにあります。日に一、二を閲して国事を講じ明らかにされれば、他年、自ら万機を攬られても難しくありません」と言い、上は嘉納した。
- 五月戊申、慈慶宮・慈寧宮・南宮を修めるよう諭した。張居正は「両宮は万暦二年に落成し、いまも壮麗なこと旧のごとくで、聖母を娯しませるに足ります。それなのに既成のものを壊してさらに藻飾を加えるのは急ぐところではありません。工事を輟められたい」と言い、従われた。
- 嶺西の羅旁が平らいだ。羅旁は山と海の間に拠り、驚くべき江と急な峡、巌壑は険絶で、諸猺がその中に窟穴していた。前代は版籍に入らず、国初にようやく一たび定めたが、世宗の朝に諸猺が転じて相い寇掠して撲滅できなかった。督撫の殷正茂は恵州・潮州の寇を討ち平らげた後、疏を上って羅旁を誅すべきだと言ったが、廷議は決しかねた。張居正は毅然として誅すべきだと言い、兵部尚書の凌雲翼を挙げて璽書を賜って賊の討伐を属させるよう請うた。
- 凌雲翼が出発に臨むと、張居正は「鞭が長くとも馬の腹には及ばぬ。いま両広の諸猺はいたるところにあるとはいえ、隙に乗じてひそかに発つものだ。要は緩急を審らかにすることだ」と言った。凌雲翼は着任すると諸路の兵を部して三十万と号し、八道から並び進んで木衣山を克ち、諸峒五百六十四を破り、四万二千余を俘斬し、地を数百里拓いて郡県を置いた。捷が聞こえて差をつけて賜賚した。
- 先に四方に草賊が多く、有司は秘して奏聞しなかった。張居正は特にその禁を厳しくし、盗を匿す者は循吏でも必ず黜け、盗を得ればただちに報じて決した。有司は凛々として、盗もまた衰え止んだ。
- 閏八月丁亥、上が朝を視た。張居正はそこで「近ごろ陰雨のために朝講を暫く輟めましたが、中外が知らずして『皇上が学に勤めることが次第に初めに如かなくなった』と言うのを恐れます。日に日に慎まれ、他事および風雨がなければ輟められませんように」と言い、上は深く然りとした。
- 九月、上が刑を停めるよう諭した。慈聖太后が大婚の期の近いのを理由としたのである。張居正は上言した。春に生じ秋に殺すのは天道の運行するところで、雨露と霜雪によって万物は発育します。明王は天道に奉じ若い、刑賞・予奪はみな天意を奉じて行います。もし徳ある者を棄てて用いず、罪ある者を釈して誅さねば、刑賞は中を失い、惨と舒は用を異にします。しかも臣が近ごろ詳らかに開かれた諸犯を閲するに、みな天に逆らい理に悖る者ばかりです。その戕害されて冤を含み憤を蓄えた者のために、聖主明王が一たび泄らしてやらねば、彼らの怨恨冤苦の気は鬱して散ぜず、あるいは上に蒸して妖沴・氛祲の変となり、下に凶荒・疫癘の疾を致します。その害はまた一人一家に止まりません。明年の吉典が告成してから一年を概して免ぜられたい、と。従われた。
- 己卯、張居正の父の喪の訃が至った。上は手諭で宣し慰め、粥を視て哭を止めさせ、道路には使いが絡繹した。また三宮からの賻贈は甚だ厚かった。しかし留める意もなかった。親しい同年の李幼孜らが奪情の説を唱え、張居正は惑わされて、外には守制を乞いながら馮保に意を示して勉めて留めさせた。
- 冬十月、張居正が再び疏を上って終制を乞うたが允されず、そこで官に在って守制し朝に造らぬことを請い、許された。
- 張居正が父の喪に奪情されて吉服で視事すると、編修の呉中行、検討の趙用賢が星変によって陳言し、刑部員外の艾穆、主事の沈思孝が疏を合わせて「張居正は親を忘れて位を貪っている」と言った。張居正は大いに怒った。当時、大宗伯の馬自強が曲げて取りなそうとすると、張居正は跪いて片手で鬚を撚りながら「公よ、私を饒せ。公よ、私を饒せ」と言った。掌院学士の王錫爵が直ちに喪次に造って取りなすと、張居正は「聖怒は測りがたい」と言った。王錫爵が「たとえ聖怒であっても公のために」と言い終わらぬうちに、張居正は膝を地に屈し、手を挙げて刃を索めて刎頸の仕草をし、「なんじ我を殺せ、なんじ我を殺せ」と言った。王錫爵は大いに驚いて趨り出た。
- 十月二十二日、呉中行ら四人が同時に杖を受けた。呉中行・趙用賢は即日、国門を駆り出され、人は敢えて見送らなかった。許文穆はちょうど庶子として日講に充てられていたが、玉杯を一つ鐫って「班々たる者は何ぞ、卞生の涙。英々たる者は何ぞ、藺生の気。追追琢琢して永く器を成す」と刻んで呉中行に贈り、犀杯を一つ鐫って「文羊一角、その理は沈黝。心を剖くを惜しまず、寧んぞ首を砕くを辞せん。黄流中に在り、君子の寿を為す」と刻んで趙用賢に贈った。艾穆・沈思孝はさらに鐐鎖を加えられて獄に禁ぜられ、三日を越えてようやく僉解されて戍に発せられ、より惨毒であった。
- 当時、鄒元標は刑部で観政していたが甚だ憤り、四人の杖が終わるのを見て疏を上り、三日を越えて杖を受け、貴州都勻衛に謫戍された。
- 吏部尚書の張瀚を罷めた。先に張瀚は南京工部尚書だったが、吏部に廷推されたとき張瀚の名は第三だった。張居正の言によって上は次を越えて用いたので、張居正は徳としたが、張瀚は報いなかった。奪情の議が起こると、そこで中旨を邀えて張瀚に張居正を留めるよう属した。張居正もまた自ら手紙で諷して自分を留めさせようとしたが、張瀚はその意を解さぬふうで、「政府が奔喪するなら殊典で恤するべきだ。宗伯の事であって吏部に何の関わりがあろう」と言った。
- 張居正はそこで親しい客に張瀚を説かせたが、張瀚は聴かなかった。また顕らかにその名を居きたくないので、三尚書とともにひそかに張居正に会って、微妙な言葉で動かそうとした。張居正は大いに悦ばず、そこで詔があって張瀚を厳しく責め、「張瀚は諭を奉じて復さぬ。人臣の礼がない」と言った。このとき廷臣は争って惴え慄き、それぞれ保留の議を唱えたが、張瀚は胸を撫でて太息し、「三綱は淪んだ」と言った。張居正はいよいよ怒って台省をけしかけて弾劾させ、昏耄であるとして致仕を勒めた。
- 丙午、上が群臣を戒諭して「奸臣・小人が朕の冲年を藐り、元輔を忌み憚って、そこで綱常の説に借りて恣に誣論を為し、朕を上に孤立させて意のままに恣にしようとしている。すでに薄く処した。もし奸に党し邪を懐く者があれば、必ず罪して宥さぬ」と言った。
- 当時、奪情を言った者が罪を得たので、都の人士はみな憤怒して謗書を作って長安門に懸け、「張居正はまさに反せんとす」と言った。上はこれを聞いてゆえに朝で宣諭し、謗議はやや息んだ。まもなく張居正を平台に召して慰め諭すこと至れり尽くせりで、即日、入直した。初め張居正が喪次にあったとき、閣中の事はすべて吏に奏を齎して行かせて擬え処分させ、手詔には元輔と称し、太師と称し、先生と称して、みな古の師臣の礼を尽くした。
- 十一月癸丑朔、星変によって群臣を考察した。初め張居正は自ら矯り飾って、あるいは情に任ずることがあっても英敏で断に長け、中外は挙って誉めた。張居正もまた不世出をもって自負した。劉台が張居正を論じて罪を得るに及んで志意は次第に恣となり、このときいよいよ天下が心を与えぬことを知って、威権をもって刦そうとした。
- 天下に田を度らせた。国初、天下の土田は八百五十万頃だったが、後に次第に減り、年久しくして偽りが滋り、豪民は田を有して賦さず、貧民が曲げて輸して累となった。民は窮して逃亡し、旧額は頓に減った。張居正は田を料ることを請い、およそ荘田・民田・職田・蕩地・牧地はみな疆理に就いて隠すことなからしめ、その法を撓める者は詔を下して厳しく責めた。
萬曆六年〜七年(1578〜1579年)(帰葬・河工と諫言)
- 六年春正月、まさに大婚を挙げようとして、首輔の張居正を納采・問名の副使に充てた。給事中の李淶が「張居正には服制がある。執事に与らせるべきでない。改命されたい」と疏したが、上は允さず、聖母の諭をもって張居正に諭したので、そこで吉服に従った。
- 三月甲寅、張居正が帰って葬ることを乞い、許された。朝を辞すると上は平台に召見して労い諭し、「朕は先生を捨てられぬが、重ねて先生の懐いを傷つけるのを恐れる。ゆえに忍んで請いを允したのだ。とはいえ国事は至って重い。朕は何に依ればよいのか」と言った。張居正は「皇上は大婚の後、撙節して愛養され、万機に心を留められますよう」と奏し、地に伏して哭いた。上もまたこれがために哽咽して涙を落とし、「先生は行かれるとはいえ、国事になお心を留めてほしい」と言った。そこで「帝賚忠良」の銀印を賜って密封して言事させ、進み辞するに両宮からそれぞれ贐金を賜り、慰め諭すことしきりであった。
- 庚辰、遼東が再び大捷を奏した。上は功を張居正に帰し、使いを馳せて諭して爵賞を定めて聞かせ、朝に還るよう召し促した。張居正は母が老いているので秋を待って道に上ると言い、錦衣に馳せ帰って促させた。
- 六月乙未、張居正が朝に還った。上は文華の西室に召見して、沿途で見た稼穡はどうか、民生はどうか、辺事はどうかと問うた。張居正が甚だ詳しく答えると、上は大いに悦んで休沐十日を賜った。
- 十二月、「宗藩要例」の書を纂んで諸王に頒示するよう命じた。先に世宗の朝、公族は繁く盛んで国用は困り竭きたので、かなり損じ抑えることを知った。このとき張居正らは、諸藩を裁削するのは天子が親を親しむ意ではないと念い、そこで事例のうち当を得ぬもの十一条を略挙して礼官に勅して集議させ、令とするよう請うた。諸藩はこれによって感激して上を親しみ、厚薄・親疎に体を得た。
- 七年二月、上が疹を患い、慈聖太后が僧に戒壇で法を設けて衆を度させるよう命じた。張居正は「戒壇は皇祖の命を奉じて今まで禁止されております。当時の僧衆は数万で、変を生じ俗を敗るのを恐れたからです。いまどうしてこの端を再び開いてよいでしょう。聖躬が違豫なら、ただ郊廟・社稷に告げ謝せば名正しく言順で、神も人もともに悦びます。何を必ずしも戒壇を開いてから福とするでしょう」と上言し、事は寝んだ。
- 二月、河工が成った。先に淮安に水患があり、河が決して淮に入ったが、淮の勢いは敵しがたく、淮安・揚州はみな巨大な水に浸り、直ちに泗州に逼って、患いは陵寝に近づいた。上が張居正に問うと、そこで「故河道都御史の潘季馴を使いうる」と上言した。そこで璽書を降してその家で都御史に拝し、節を持たせて河を治めさせ、一切を便宜に任せて久しく任じ、帑蔵の出入を問わず、諸々の奉行して事に及ばぬ者は詔獄に下して鞫治した。そこで事に当たる者は日夜、焦り労し、一年を踰えて堤が成り、漕を転ずるのに患いはなくなった。
- 三月、上の疹が癒えて光禄寺に十万金を徴した。張居正は「財賦には限りがあり費用は窮まりありません。かりに積み貯えが空虚となって、不幸にも四方に水旱の災、疆場に意外の変があれば寒心すべきことです。今後、力めて撙節を加えられたい。もし再び金を徴されれば、臣らは敢えて詔を奉じません」と上言した。
- 当時、上は次第に六宮を備え、太倉の儲えをしばしば宣し進めさせた。張居正は戸部の進めた御覧の銭糧の数目を上って坐席の隅に置き、時に省覧を賜って量入為出とされるよう請い、そのついでに言った。万暦初年の歳入は四百三十五万余でしたが、六年の歳入はわずか三百五十五万余、すでに八十余万少なくなっております。五年の歳出は四百四十九万余で、すでに四十余万多くなっております。歳出は前より浮き、歳入は前より損じている。これは心に留めずにいられません。王制に「入るを量って出だすを為す」といい、三年分の支出を計って必ず一年の余りがあってこそよいとします。まして財用にはこの数しかなく、法を設けて巧みに取っても増やすことはできません。ただ意を加えて撙節すれば用は自ら足ります、と。上は嘉納した。
- 夏四月、上が内庫に銭が欠けて賞賚が足りぬとして、部に大銭を鋳て進めるよう命じた。張居正は「先朝の鋳銭は式を呈するもので、上の用に供するものではありません。万暦二年に銭一千万を進め、その後は歳ごとにその半ばとしましたが、すでに本意ではありません。もし銭が欠けて鋳って進めれば、外府の儲えを取って内府に供することになり、大いに旧制を失います」と上言し、上は従って鋳銭を罷めた。
- 癸卯、張居正が「粛雝殿箴」を上り、御屏に書くよう命じられた。
- 五月、遼東総兵の李成梁を寧遠伯に封じた。張居正は「李成梁はしばしば戦功を立て、忠勇は一時の冠です。顕らかな秩を加えるのは将士を鼓励する法です」と言った。まもなく李成梁が使いを遣わして金を餽ると、張居正は「なんじの主は百戦して功勲を得た。私がその金を受ければ高皇帝に罪を得る」と言って却けて受けなかった。
- 七月甲子、給事の顧九思・王道成らが江南の水災によって浙江・直隷の織造の内臣を罷めるよう請うた。上が張居正に示すと、張居正は「民は重く困っております。孫隆を召し還されたい」と奏した。上は「彼の織幣はまさに完成しようとしている。来春を待つべきだ」と言った。張居正は「地方は一事多ければ一事の擾があり、一分寛くすれば一分の恵みを受けます。災地の疲れた民は催督に堪えません。暫く去らせ、やや稔るのを待って復されればよい」と言い、上は従った。
- 当時、給事中の李淶が江南の水災を恤するよう請い、併せて四事を言った。上はその譏り訕るのを怒ったが、張居正は「水災の恤を請うのもまた言官の常です。あるいは触れ忤ることがあっても、聖度を傷つけるのを恐れます」と言い、上意はそこで解けた。
- 冬十月、薊遼総督の梁夢竜が土蛮の大挙入寇を報せた。張居正は「臣は辺臣に、敵騎が入っても軽々しく戦わず、壁を堅くして野を清くし、野に掠めるものがなければ彼は自ら阻まれる、と諭しました。梁夢竜を永平に駐め、戚継光を一片石に駐めて、隙を伺って邀撃させられたい」と奏し、上は善しとした。まもなく土蛮が四万騎で前屯を犯し、梁夢竜・李成梁が兵を率いて禦いで却けた。
- 十二月、張居正の服が闋けて平台に召見された。
萬曆八年〜九年(1580〜1581年)(辞職の請いと諫言)
- 八年春正月己未、先に永豊の梁汝元が徒を聚めて講学し、吉水の羅巽もこれと遊んでいた。梁汝元は「張居正は政を専らにしている。都に入って公然と逐うべきだ」と揚言した。張居正はひそかにその語を聞いて有司に指を授けて捕らえ治めさせた。やがて湖広・貴州の界で妖人の曽光を捕らえたが、梁汝元・羅巽の姓名を紛れ込ませて謀反と言った。梁汝元・羅巽はいずれも先に死んでおり、湖広の守臣が爰書を具えて法司に下して訊ねたが、曽光もまた真ではなかった。ただ律に拠って罪を論じただけである。
- 三月、大学士の張居正が疏を具えて休を乞い、再び上った。上は慰め留めること懇切で、最後は手書で慈聖の口諭を伝え、「張先生は先帝の付託を受けた。どうして去ることを言うに忍びよう。汝を輔けて三十に至るのを待って、また審らかに処し、後の人に譲っても遅くはない」と言った。張居正はそこで再び職に就いた。
- 甲子、進士の張懋修ら三百人に及第・出身を差をつけて賜った。張懋修の兄の張敬修もまた進士となって礼部主事を得た。ともに張居正の子である。
- 八月戊子、刑部侍郎の劉一儒が張居正に書を移して言った。ひそかに聞くに、治功を論ずる者は精明を貴び、治体を論ずる者は渾厚を尚びます。明公が輔政されてから省成の典を立て、久任の規を復し、考憲の条を申べ、遅限の罰を厳しくされ、大小の臣工は鰓々として職を奉じ、治功はすでに精明であります。愚かにも過ぎたことを慮りますに、政が厳しければ苛となり、法が密なれば擾となります。いま綜べ覆すことすでに詳らかで、弊端は剔り尽くされ、督責はまた急であります。人情は堪えられず、元気を培って敦渾の体を養う所以ではありません。昔、皋陶は寛簡をもって帝舜を賛け、姫公は惇大をもって成王に告げました。当代に淪洽し後世に矩矱となりましょう。明公がこれに法られんことを、と。張居正は書を得て悦ばなかった。
- 十一月戊寅、上が夜宴で内侍の孫海・客らに惑わされ、二人の内使を撻ってほとんど死なせた。慈聖太后は聞いて上を厳しく責め、霍光伝を取って読ませた。上は悔い悟って孫海・客らを降した。翌日、上は閣臣に「朕は冲年にあって自ら過愆が多い。ただ諸先生の力諫に藉り、朕を堯舜の君とさせてほしい」と諭した。
- 張居正はそこで「諸内臣は老成廉慎な者を存し、諂佞放恣な者を汰されたい。皇上もまた痛く改められ、宴飲を戒めて起居を重んじ、精神を専らにして継嗣を広くし、賞賚を節して浮費を省き、玩好を却けて心志を定め、万機に親しんで庶政を明らかにし、講学に勤めて治理に資し、趨向を端しくして士風を粛されれば、聖徳はいよいよ光りましょう」と奏し、上は深く嘉納した。
- 十二月甲辰、張居正が儒臣に属して累朝の宝訓・実録を四十余則に分けることを請うた。曰く、創業の艱難、励精図治、勤学、敬天、法祖、保民、謹祭祀、崇孝敬、端好尚、慎起居、戒遊佚、正宮闈、教儲貳、睦宗藩、親賢臣、去奸邪、納諫、守法、敬戒、務実、正紀綱、審官、久任、重守令、馭近習、待外戚、重農、興教化、明賞罰、信詔令、謹名分、却貢献、慎賞賚、甘節倹、慎刑獄、褒功徳、屏異端、飭武備、禦寇盗。なお勅して順次進呈し、明年の開講を待ち、諸司の章奏で切要なものは講の後にただちに面裁されたいとした。当時、上は翰墨に意を留めていたが、張居正は筆札は小技であって君徳・治道に係るものではないと考え、ゆえにこの請があった。上は嘉納した。
- 九年春正月、大学士の張居正が翰林に番を分けて入直させ、文章に応和させ、あるいは上に清讌に侍らせて経義を質問し治理を陳説させること、唐宋の故事のごとくすることを請うた。
- 夏四月辛亥、上が文華殿に御した。張居正が給事中の傅作舟の疏を進めて覧させ、「いま江北の淮安・鳳陽および江南の蘇州・松江が連ねて災傷を被り、民は多く食に乏しく、樹皮で飢えを充たすに至り、あるいは相い聚まって盗となっております。大いに憂うべきことです」と言った。上は「淮安・鳳陽が年ごとに災を告げるのはなぜか」と言った。張居正は「この地は従来、荒れることが多く熟することが少なく、元末の乱もみなここから起こりました。いま格を破って賑わされるべきです」と答え、上は「そのとおりだ」と言った。
- 張居正は「いま有司が職を負くこと、たとえば積穀の一事はしばしば旨で申し飭められながら、ついに虚文となっております」と極言した。上は色を作して「有司が民を忽せにするのだ。重く処すべきだ」と言い、張居正は「今後、犯す者は聖諭のとおりに」と言った。
- また「江南・江北の旱、河南の風災、畿内の不雨で、まさに蠲免と賑済を行おうとしています。ただ皇上が量入為出して意を加えて撙節され、宮費および服御の減らしうるものを減らし、賞賚の裁しうるものを裁されますよう。緇黄に施舎するのは、我が赤子に与えるに如きません」と言った。上は「そのとおりだ。いま宮費はみな節し、賞賚も溢れさせておらぬ」と言った。張居正は「皇上は旧に従うと仰せですが、それも近ごろの例にすぎません。今年しばらく行えば明年には例となる、というのは祖制ではありません。臣は遠くを引きません。皇祖のときは用度が最も繁かったのに内帑にはなお余りの積みがありました。隆慶の初め、庫の貯えにはなお余万がありました。いま歳入は百二十万ありながらなお乏しいと称します。皇上のご省察を仰ぎます」と言い、上はこれを是とした。
- 十一月、張居正の一品の考が満ちて、金幣および酒果を賜ること甚だ厚く、手勅で褒め諭し、「精忠大勲、言は尽くしがたく官は酬いがたし」の語があった。上柱国・太師を加え、伯爵の俸を支給した。張居正は固辞し、允された。
萬曆十年(1582年)(帯徴の免除と張居正の死)
- 二月丁酉、大学士の張居正が上言した。民を安んずる道はその疾苦を察するにあります。いまなお一事の民の害となるものがあります。帯徴の税糧であります。そもそも百姓の財力には限りがあり、一年の収入はわずかに一年を供するに足るだけです。不幸にして年が歉けば目前でさえ弁じきれません。どうしてまた余力があって累年の積逋を完うできましょう。有司は責を避けようとして往々にして今年の徴収を旧逋の完納に充て、今年の欠けたところがまた将来の帯徴となります。
- まして徴収の額緒は繁く多く、年分は淆れ雑じり、小民は脂膏を竭くし、胥吏は溪壑を飽かせ、甚だしきは不肖の有司がこれによって漁ります。そもそも民を朘って奸貪の嚢を実たすより、ことごとく蠲めて曠蕩の恩を施すに如きません。戸部に諭して万暦七年以前の積負を覈べてことごとく蠲免し、現年の正額だけを責めてことごとく完納させられたい。百姓には弁じやすく、有司には徴しやすい。官民ともに利であります、と。上は従った。詔が下って中外は大いに悦んだ。
- 三月丁卯、張居正が病んで私宅で票擬することを求め、従われた。六月甲午、張居正が病によって再び休を乞うたが允されなかった。上は細務を張四維に委ね、大事はそのまま張居正の家で平章させた。
- 遼左の大捷で速把孩を斬った功によって張居正に太師を進めた。
- 甲辰、上が司礼太監を遣わして手勅を齎して張居正に諭し、「先生が糜飲も進まぬと聞き、朕の心は憂え慮る。国家の大事は一々朕に言ってほしい」と言った。張居正は病を力めて疏して謝し、併せて密奏して礼部尚書の潘晟、吏部左侍郎の余有丁を薦めた。翌日、上はただちに二人を入閣させた。
- 丙午、大学士の張居正が卒した。上は震え悼んで朝を輟め、司礼太監の張誠を遣わして喪事を監護させ、賻を賜ること甚だ厚く、両宮太后および中宮もみな金幣を賜り、祭十六壇を賜り、上柱国を贈って文忠と諡した。
- 張居正は性が深沈で機警、智数が多かった。史官のとき、かつてひそかに国家の典故および時務の切要なものを求めて剖き析ち、人に遇えば多く諮り問うた。大政を攬って首輔に登るに及んで、慨然として天下に任ずる志を抱き、上に祖宗の法度を力行するよう勧め、上もまた悉心して聴き納れた。十年来、海内は粛清し、李成梁・戚継光を用いて北辺を委ね、地を千里に壌いて荒外に警がなく、南蛮で累世、険に負んだ者も次第に将を遣わして削り平らげた。
- 力めて富国を籌り、太倉の粟は十年を支えるに足り、冏寺の積金は四百余万に至った。君徳を成し、近幸を抑え、考成を厳しくし、名実を覈べ、郵伝を清くし、地畝を核べ、一時の治績は炳然としていた。
- 惜しむらくは、その褊った衷は忌むことが多く、剛愎で自ら用いた。政府に入るや私憾によって遼王を廃し、久しく直にあって奸佞を信任し、諛を好んで風を成した。六曹の長はみな唯々として命を聴き、章疏でも敢えて名を斥さず、ただ元輔と称した。初めは伊尹・周公と誉め、次第に五臣に進め、しかも舜・禹に諛った。張居正もまた恬然としてこれに居った。中允の高啓愚は「舜もまた以て禹に命ず」を題として士を試すに至り、当時これを勧進と目した。
- 張居正が卒しても余威はなお在り、言官が事を奏するになお先太師と称した。奪情のとき威権は主を震わせ、上は己を虚しくして聴いたとはいえ内心では顧みて堪えなかった。身が死んで幾ばくもなく、ついに削奪に遭い、併せてその家を籍没されて、子孫はみな保たれなかったという。
- 初め上が講筵で論語を読んだとき「色勃如也」の「勃」を誤って「背」と読んだ。張居正はたちまち傍らから厲声で「まさに勃の字と作すべし」と言い、上は悚然として驚き、同列はみな色を失った。上はこれによって憚った。張居正が卒して後に禍を蒙ったとき、これを霍氏の驂乗に比した。
- 御史の郭維賢が疏して呉中行らを薦めたが降調された。しかし上の意はすでに次第に移っていた。御史の楊寅秋が王国光を弾劾して罷めさせ、馮保を南京に発して閑住させた。呉中行・趙用賢・艾穆・沈思孝・王用汲・余懋学・朱鴻謨・趙応元・傅応禎・趙世卿・鄒元標はみな官に復した。
- 折しも潞王の婚礼に要する朱宝が備わらず、太后がついでにこれを言うと、上は「これを弁ずるのは難くない。年来、廷臣に恥がなく、ことごとく張・馮の二家に献じたのだ」と言った。太后が「すでに抄没した。必ず得られよう」と言うと、上は「馮保は黠猾でことごとく窃んで逃げた」と言った。これ以来、内中では「張先生」「張太岳」の称謂が絶えて諱まれ、籍没の挙もまたこれに胎した。
萬曆十二年(1584年)(家産の籍没)
- 上は遼府の次妃・王氏の奏請に従って張居正の家を籍没した。その産は厳嵩の二十分の一にも及ばなかったが、株連はかなり多く、荊州は騒動した。
- 上は言った。遼府の廃革はすでに先帝の宸断を奉じており、また応継の人もない。親枝を推挙して本爵で祀を奉じさせ、なお王を原封に帰葬させ、抱養子の述璽には親に依って居住することを許し、興庶の糧二百石を給して本折の中半を支給する。王氏は厚きに従って徽府の例を援いて贍養する。張居正は親藩を誣い衊し、言官を箝制し、朕の聡を蔽ぎ塞ぎ、私に廃遼の地畝を占め、丈量に借りて遮り飾り、海内を騒動させた。権を専らにし政を乱し、上を罔いて恩に負き、国を謀って忠ならず。本来なら棺を斵って屍を戮すべきだが、効労が年ある事を念い、しばらく法を尽くすことを免ずる。その一族の張居易・張嗣脩・張順・張書はみな烟瘴の地に充軍させよ、と。
史論(谷応泰曰)
- 虞書に聞くに、良弼の義は恭を協えることに取る。秦誓の一箇の臣にはまったく他の技がない。思うに下吏が職を奉ずるのは才具にあるが、端揆が物を裁するのは度量にあり、卿貳が奔り走るのは章程を越えぬが、宰相が坐して論ずるのは必ず道術に資るのである。まして承平の相は制を創る者と異なり、冲人の相は長君の相と異なる。周公は惇大をもって成王に告げ、韓琦は才が偏っているとして呂公著を貶した。いずれも蒙を養い聖を作すのは、専ら宣ずるところの綜核や明らかにするところの察々にはないからである。
- 世に張居正の相業を称するとき、誉める者はあるいはその幹略を許し、毀る者はわずかにその専恣を悪む。しかし私はいずれも事実ではないと思う。まことに張居正を知る者ではない。
- 張居正の大節を考えるに、特に傾け危うくすること峭刻で、生を忘れ死に背く徒にすぎぬ。その他は儒術で縁飾し、智数で炫耀した。譬えれば楊子の艾墻のごとく基が低くて高く、陽処父のごとく華やかで実がない。論思・密勿の地に求め、百寮を表率する間に求めれば、これはまことに難い。
- そもそも穆宗が几に憑って顕帝が冲齢のとき、張居正は高拱・高儀とともに顧命を受けたのに、内臣の馮保が側で権を窃んだ。このとき刁を逐う議は行われず、弔い譲る謀がひそかに固められた。交わりを売り璫に附き、言を漏らして重きを市る。かの商鞅が景監に因り、藺相如が繆賢に藉ったとしても、主に結ぶのがまことにこのようであったろうか。
- ついに会極門で伝宣し、新鄭(高拱)は斥けられた。馮保が己の怨みを快とした行いが、そのまま次輔(張居正)の恩に酬いることになり、張居正が馮保を除こうとした疾がかえって綸扉の寵を固めることになった。権を鬻ぎ夷を毗け、互市のごとくであった。
- 張九齢が遠く引き、朱勝非が外に徙されるに及んで、はじめて宮府が交通し、更々唱え迭々和した。馮保が執政に倚れば言路に憂いなく、張居正が中涓を恃めば主恩は替わらぬ。ゆえに扇を殿にして暑を清くし、毡を鋪いて寒を禦ぐという、張居正の蒙ったものは、すべて璫に媚びた力である。
- 犯蹕して獄を具え、詞が高拱の奴に連なり、謀は宰臣に発して風は内侍に生じた。かりに天変が上に見れ、公議が下で格めなかったなら、上官の黠詐が奉車をたちどころに砕き、易之の飛文が魏氏を赤誅したごとくになったであろう。張居正が禍心を包み蔵して同列を傾け危うくしたのは、まことに犬豚もその余りを食わぬほどである。
- 父の喪で情を奪われ、太阿を釈さなかったことについては、李幼孜が外で唱え馮保が内で応じ、張居正は貌には服を持することを乞いながら心では慰留を冀った。魯の伯禽が東郊を啓かなかったような節はなく、翟方進が衰を脱いで視事したのを蹈んだ。語に「忠を孝に求む」といい、また「孝を移して忠と作す」という。張居正は人心なき者であったのか。何と相い倍る戻りようか。
- まして三月に帰葬して六月に朝に還った。宰我の意はただ喪を短くすることにあり、曹操の心は兵柄を失うのを恐れた。しかも呉中行・趙用賢はともに星変によって陳言し、艾穆・沈思孝・鄒元標はそれぞれ親を忘れることによって告げたのに、かえって横に鎖鐐を被り、みな杖と戍を加えられた。さらに劉台を死に論じて痩せ斃れさせ、士期(王錫爵)は刎頸に驚き奔り、張瀚は胸を撫でて斥けられた。王莽が忤い恨む者を芟い除き、梁将軍が太史を収め拷ったにしても、淫刑を逞しくすることこれに過ぎまい。
- また張懋修・張敬修は巍科に列せねば清秩に躋った。これはどうして劉向・劉歆の学が漢廷に冠たるがごときであろう。むしろ蔡京・蔡絛の派が宋室で相い援けたのに似ている。
- 身が死んで年を踰え、遼妃が闕に訴えると、東園の秘器がようやく泉門に賜られたばかりなのに、緹騎と金吾がたちまち府第を囲んだ。漢の元帝が師傅の恩を虧いたのでなければ、田蚡が族を滅ぼす釁を貽したのである。
- 一方、論者は言う。張居正が相たるや、四書の経解を進めて聖学は修まり明らかとなり、皇陵碑と帝鑑図を進めて治具はよく挙がり、詞林の入直を請うて清讌に荒れがなく、宮費の裁省を請うて国用は富み、曽省吾・劉顕を任じて都蛮はことごとく平らぎ、李成梁・戚継光を用いて辺陲は坐して拓かれた。その罪は彰らかとはいえ功もまた泯びぬ、と。
- しかし私は思う。張居正が時を救ったのは姚崇に似、褊り礉しいのは趙普に似、政を専らにしたのは霍光に似、剛く鷙いのは王安石に類する。かりに天が年を仮して長い轡を騁せしめたなら、吏の道は雑じって端が多くなり、治術は疵があって醇でなくなったであろう。これがどうして貞観の房玄齢・杜如晦であり、元祐の司馬光であろうか。
- さらに異とすべきは、張居正が銭穀を考成としてから、神宗の中葉に大いに礦税が開かれ、張居正が名法を科条としてから、神宗の末造に万機が叢脞したことである。ああ、手実の禍いは催科から萌し、申不害・商鞅の後は清静に流れた。これもなお張居正の貽した患いである。