明史紀事本末岑猛を誅する(誅岑猛)

広西の土官・田州の岑猛の討伐と、その後の両江の混乱を、嘉靖五年(1526年)から十三年(1534年)までの9年間にわたって扱う。都御史の姚鏌が兵八万を発して岑猛を討ち、沈希儀が趙臣を使って岑猛の舅である帰順知州の岑璋を内応させ、岑璋は岑猛を招き寄せて鴆酒で誅した。だが遺党の盧蘇・王受が叛いて思恩を陥れ、姚鏌は弾劾されて職を落とされ、代わった王守仁が盧蘇・王受を招撫し、田州を州に降して岑猛の子の邦相を判官に据えることで一時収まった。その後、副総兵の張佑が賄を貪って盧蘇と結び、盧蘇は邦相を殺して岑芝を立て、邦佐や隣府の土官が兵を合わせて田州を攻めたが、都御史の蔡経は邦相の病死と称して盧蘇を不問に付し、両江の土官はみな離心した。

年表(5件)

世宗嘉靖五年(1526年)夏四月(岑猛討伐の始まり)

  • 姚鏌が師を督して田州指揮の岑猛を討った。広西の諸土族のうち岑氏が最も大きく、自ら漢の岑彭の後裔と称していた。国初、元の安撫総管だった岑巴延が田州をもって帰順すると、高帝はその誠を嘉して田州府を設け、巴延を知府とし子孫に世襲させた。
  • 三代を伝えて岑溥となった。溥には二子があり、長を猇、次がすなわち猛である。弘治六年、猇は愛されぬのを恨んで溥を弑し、土目の黄驥・李蛮が兵を発して猇を殺した。嗣位が定まらぬうちに黄驥と李蛮が仲違いし、黄驥は猛を連れて梧州に奔った。督府は猛に父の官を襲がせるよう奏したが、李蛮が命に背くのを慮り、思恩知府の岑濬に檄して兵で猛を護衛して田州に入らせた。
  • 岑濬は猛の一族で、やはり土官として兵力が両江に雄んであった。田州に至ると李蛮は猛を拒んで入れず、黄驥はまた猛を連れて思恩に奔り、岑濬は留めて遣らなかった。弘治十一年、都御史の鄧廷瓉が岑濬に檄して猛を帰させたが従わず、兵で徴すると岑濬はようやく猛を釈した。督府は猛を田州に入れたので、猛は岑濬と仇怨を結んだ。
  • 弘治十五年十月、岑濬は襲って田州を陥れ、偽ってその族子の岑洪に守らせ、猛は逃れた。十八年、都御史の潘蕃が奏して兵を発し、岑濬を討って戮し、併せて岑洪を誅した。思恩を流官知府に改めて田州を兼摂させ、猛を福建平海所の千戸に降した。
  • 正徳の初め、猛は劉瑾に賄して田州府同知に復して府事を領した。猛は遺民を撫輯して兵威を再び振るい、次第に傍らの郡を蚕食して自ら広がり、かつて「督府に調発があれば功を立てて旧秩の回復を冀いたい」と自ら言った。督府の使者が田州に至ると猛は厚く賄い、衆は猛を大いに誉めた。
  • 折しも江西に盗が起こり、都御史の陳金が檄して猛に討たせた。猛の兵は大いに侵掠を恣にし、至るところ民は村落を移して避けた。賊が平らぐと陳金は猛の功を疏し、指揮同知にやや遷った。猛は知府の秩の回復を冀っていたので、授かった官が初意に適わず、怨望して驕り傲った。督府の使者もかつてのような厚い賄いを得られず、猛の不法を讒言する者が多かった。猛もまた兵力を恃んで隣府を凌ぐことが日に甚だしくなった。
  • 猛が反すると言う者があり、都御史の盛応期は猛を惴りながらも重い賄いを得ようとした。猛は不遜な言葉を吐き、盛応期は怒って猛の反状を疏し討伐を請うたが、返答のないうちに去った。都御史の姚鏌が代わって、にわかに再び征討を請い、制して可とされた。
  • このとき姚鏌は都指揮の沈希儀・張経・李璋・張佑・程鑑ら五将軍に兵八万を師いて道を分けて進ませ、参議の胡堯元を監軍としてこれを督させた。

嘉靖五年九月(岑璋の計と岑猛の死)

  • 岑猛は帰順州に奔り、知州の岑璋がこれを誅した。初め猛は大軍が至ると聞き、部下に交戦を禁じ、帛を裂いて冤状を書き軍門に陳べて憐れみ察してくれるよう乞うたが、姚鏌は聴かず兵を督していよいよ急にした。沈希儀が猛の長子・邦彦を撃ち斬り、諸軍が続いて入ると、猛は懼れて出奔を謀った。
  • 猛の舅の岑璋は帰順州の知州である。娘が猛に愛されなかったので日ごろ恨んでおり、隙に乗じて猛を擒にして自らの功にしようと考え、猛を誘って帰順に走らせようとした。
  • 先に軍門は諸土官に「猛を擒にできた者には千金と爵一級を賜り、その地の半分を与える。悪に党する者には兵を移して誅する」と令していた。ただ岑璋は猛の舅だから猛に党するかもしれぬと恐れ、沈希儀を召して計を問うた。沈希儀は岑璋が娘の失寵ゆえに猛を恨んでいることを知っており、「十日ほどお待ちください。実を得てご報告します」と答えた。
  • 沈希儀は部下の千戸・趙臣が日ごろ岑璋と親しいのを察して召し、「岑璋と猛には隙があると聞く。使いを遣わして説き、それによって猛を破らせたいがどうか」と問うた。趙臣は「岑璋は智が多く疑い深い。率直に語れば必ず信じません。計をもって説くべきです」と答えた。「その計はどうする」と問うと、趙臣は「鎮安と帰順は代々の讐です。督府が帰順に人を遣れば鎮安が疑い、鎮安に遣れば帰順が疑う。いま公がまことに臣を遣わして鎮安に兵を徴させ、臣が道を迂回して岑璋を訪ねれば、岑璋は必ず理由を問うでしょう。臣は旧交ゆえに、死を覚悟してその事を漏らしたことにする。そうすれば岑璋の要領を得られます」と言った。沈希儀は「よし」と言った。
  • そこで趙臣を遣わして鎮安の兵に檄させた。趙臣が岑璋のもとを過ぎると、岑璋は果たして喜んで迎え、「久しく会わなかった。いま私を思い出して来てくれたのか」と言った。趙臣は黙って不機嫌そうな様子をした。岑璋が「趙君は怒っておいでか」と問うと、趙臣は「旧友の厚意に感じ、久しく疎遠だったので道を迂回して来ただけです。何を怒りましょう」と言い、しばらく語ってはまた嘆息して立った。岑璋は心中怪しんだ。
  • 翌日、岑璋は酒を置いて趙臣をもてなしたが、趙臣はいよいよ不機嫌で沈思するふうだった。岑璋はますます疑って理由を問い、「軍門は私を督責するお考えか」と言った。趙臣は「そうではありません」と答えた。「隣境から訴えがあって逮捕され取り調べられるのか」と問うても「そうではありません」と答えた。岑璋は趙臣を寝所に引き入れて跪いて叩頭した。趙臣ははらはらと涙を落とし、岑璋も泣いて「璋は死ぬなら死ぬまでだ。君はなぜ秘して告げてくれぬのか」と言った。
  • そこで趙臣は「君の肺腑に託されている身だ。急があるのに告げぬわけにいかない。しかし今日は君が死ぬか私が死ぬかだ」と言った。岑璋が驚いて理由を問うと、「督府が田州を討つにあたり、君は猛の舅ゆえ必ず猛に党すると考え、私に鎮安の兵に檄して君を襲わせよと命じた。私が言わねば君が死に、私が言えば君は必ず急ぎ兵を発して自ら脱れようとする。それは私が機事を漏らしたことになり、私が死ぬ。どうしたものか」と言った。
  • 岑璋は頓首して謝し、「君はまことに私を生かしてくれた。君が言わねば私は一族皆殺しだった。猛が私の娘を娶りながら讐のように扱ったのを、私がどうして親しもうか。猛を殺そうと思って久しいが、機会がなかっただけだ」と言った。趙臣は「君の心がそうなら、自ら督府に申し出られたらどうか。禍を免れるだけでなく、功も得られる」と言った。
  • 岑璋は趙臣に無理に病と称して伝舎に留まらせ、急ぎ人を沈希儀のもとへ馳せさせて変を告げ、猛の反状を陳べ、連座を恐れて猛を擒にして自ら効したいと願い出た。沈希儀は許し、表向きは趙臣を追って返させたことにして、そのことを姚鏌に告げた。姚鏌は喜び、岑璋への備えをしなかった。
  • 猛の子の邦彦が工堯の隘を守っていたので、岑璋は姻戚のよしみと称して兵千人を遣わして助けたが、実は間諜だった。邦彦は欣んで受け入れた。岑璋は沈希儀に「すでに千人を遣わして内応させます。衣に別の目印がありますので、どうか殺さぬように」と報じ、沈希儀は許した。
  • 戦いになると帰順の兵が先に敗走を叫んで衆を惑わし、田州の兵は驚いて潰れ、沈希儀は邦彦を斬った。猛が奔ろうとすると、岑璋は人を遣わして招き、「事は急です。どうか主君は帰順にお走りください。三、四晩で安南に達し、再び興復を図れましょう」と言わせた。猛は倉卒に行くところがなく、また姻戚のよしみもあって、印を佩びて帰順に走った。
  • 岑璋は偽って涙を流して迎え、猛を別館に置き、供応を盛んにし美女を侍らせた。地は遠く僻していて、左右に田州の人は一人もいなかった。岑璋は毎日、猛を欺いて「天兵は退きました」と言い、また「天兵は君が交南に走ったと聞いて、みだりに交南の境に兵を加えるのを憚り、使いを督府に遣って進退を請うています」と言った。猛は喜んで疑わなかった。
  • 胡堯元と諸将は、沈希儀がすでに隘を破ったのを見て功を横取りしようとし、猛が岑璋のもとに逃げ隠れていると聞いて、兵一万で帰順を衝いた。岑璋は急ぎ人を遣わして牛と酒を境上で犒わせ、自ら諸将に会いに来て頓首して謝し、「猛は敗れて昨日帰順を越え、交南に走ろうとしました。璋が邀撃し、猛は目に流矢を受けて南へ走り、行方が分かりません。急いては交南に入り、逆賊と連んで変を起こすおそれがあります。どうか五日ご猶予ください。必ず捕らえて差し出します」と言った。胡堯元らは許した。
  • 岑璋は帰るとまた猛を欺き、「天兵はすでに退きました。ただ陳奏せねば事が明らかになりません。君のために封事を草し、人にこれを上らせてはいかがです」と言った。猛は「まさに願うところだ」と言った。そこで疏を作り、猛に印を出させて捺させ、岑璋は猛が印を置く場所を知った。
  • 岑璋は酒を置いて猛を賀し、楽が奏される中、鴆酒一盂を持って献じ、「天兵が君を索めること急で、庇いきれません。どうかご自身でお計らいを」と言った。猛は大いに怒り、「この老いた奸物の計に落ちたのが悔やまれる」と罵り、鴆を飲んで死んだ。岑璋はその首と佩びていた印を斬り取り、使いを遣わして間道から軍門に馳せて差し出した。諸将はこれを聞いて引き揚げた。
  • 猛には三子があった。長子の邦彦はすでに敗れて死に、次の邦佐と邦相は出奔した。邦彦の側室の子は芝といい、まだ襁褓の中にあって民間に匿われた。諸悪目の韋好陸・緩馮爵はみな擒にされ斬られたが、盧蘇と王受だけは首を授けなかった。捷報が届いて功を論じ賞を行い、姚鏌は流官を置いて治めるよう請うた。事は兵部に下されて覆奏され、容れられた。

嘉靖六年(1527年)五月(盧蘇・王受の反と姚鏌の罷免)

  • 盧蘇と王受が反した。右江から来た者が「岑猛は実は死んでおらず、安南の莫氏を糾合して入寇し、思恩を陥れた。藩省も朝夕に保てまい」と言った。そこで靖江の諸宗室は倉皇として出奔し、人情は惶懼した。藩司・臬司の諸司で日ごろ姚鏌を恨んでいた者も「猛は実は死んでいない。姚鏌は帰順に騙されたのだ」と言い立てた。
  • 御史の石金はこれを聞き、姚鏌を「勦に策なく、軽々しく信じて上を欺き、田州を図って得られず、併せて思恩まで失った」と弾劾した。世宗は大いに怒って姚鏌の職を落とし、王守仁を代わりに任じた。
  • 先に姚鏌は「田州の遺党がまた叛いた。重ねて兵を集めて勦捕することを乞う。軍興の銭穀も相応に処置されたい」と上言していた。世宗は広東の司府の帑庫の金銭を動かすよう命じ、彼我を分けて事機を誤ることのないようにと言っていた。
  • このとき王守仁はまだ到着せず、姚鏌は交代を待つ間に思恩がまだ陥ちていないことを偵知し、兵を徴して盧蘇らを擒にして自ら罪を贖おうとし、広西の諸司を徴して議事しようとした。ところが姚鏌を恨む者が郵吏を騙して檄を交錯して誤らせ、各司はいずれも檄の誤りを理由に来なかった。姚鏌はついに兵を集められぬまま去った。

嘉靖七年(1528年)(王守仁の招撫と田州の処置)

  • 春正月、王守仁が田州に至ろうとして湖広の兵数万人を調集して南下させると、諸土目はみな憚った。王守仁はそこで自ら鋒を収めて事なきさまを示し、南に至って寧に着いて盧蘇・王受の勢いが熾んなのを見、たちまち滅ぼしがたいと判断して、人を遣わして招諭し、来て罪を申し出るよう説かせた。
  • 折しも浮言を造って盧蘇・王受を誑かし賄賂を取ろうとする者があり、盧蘇・王受は疑い懼れて来なかった。王守仁は使いを遣わして慰め諭し、誓いを与えた。盧蘇・王受は「参上するなら必ず兵を陳べて護衛し、また軍門の左右の祗候をすべて田州の人に替えたい」と言い、王守仁は許した。
  • 盧蘇・王受は日を約して来見し、兵を盛んにして自ら衛った。王守仁は罪を数えて笞打った。盧蘇・王受は内に甲を着けて笞を受け、やがて帰って命を待つよう諭された。
  • 王守仁は上疏して言った。思恩・田州は久しく兵革に苦しみ、民間はすでに堪えられない。まして田州は外に交趾を捍いでいる。かりに克ってそこに流官を置いても、兵は弱く財は乏しく、他の変を生ずるおそれがある。岑氏は代々功があった。田州を治めるのは岑氏でなければならない。田州府を降して田州とし、猛の子の邦相を判官とし、盧蘇・王受を巡検とし、別に思恩府を立てて流官を置いて統べさせたい、と。世宗はみな従った。
  • そこで邦相を田州に帰らせ、盧蘇らもそれぞれ官に就いて田州は寧んじた。王守仁はさらに布政使の林富を巡撫都御史、張佑を総兵官として広西を鎮めるよう薦め、自らは南寧に赴いた。
  • 三月、王守仁は盧蘇・王受らに檄して断藤峡と八寨の盗賊を攻めさせ、ことごとく平らげて両江は底定した。王守仁は上言して盧蘇らの功を盛んに称え、大いに賞賜を得させた。当時、兵部侍郎の張璁および桂萼が「王守仁の田州の処置は非である」と言い、世宗はかなり疑った。

嘉靖十三年(1534年)秋九月(盧蘇の判官殺害と両江の動揺)

  • 巡検の盧蘇が田州判官の岑邦相を殺した。先に林富が王守仁に代わって提督となり、「思恩に流官を改設して二十年、兵を罷めることができない。田州は決して流官の制御しうるところではない」と奏し、結局は王守仁の前議を主として田州を降して州治とし、邦相を判官とし、副総兵の張佑に鎮めさせ、二年で交代することを許した。
  • 当時、邦相は十五、六歳で、張佑は我が子のように扱った。盧蘇は自ら功が大きいと矜って専横になり、邦相は不平を抱いて隙が生じた。折しも張佑が交代して去ろうとするにあたり、邦相からの厚い賄いを望んだが、邦相の賄いが意に満たなかったので、張佑は盧蘇と結んで邦相を退けようとし、邦彦の子の芝を買い取って別所で養った。邦相はしばしば芝を殺そうとしたが、張佑は交代せずに留まり鎮めて庇ったので芝は免れた。まもなく張佑は邦相の毒に中って死に、芝は梧州に奔って督府の都御史・陶諧に養われた。
  • このとき盧蘇はその一党を遣わして邦相を刺そうとしたが果たさなかった。邦相は土目の羅玉らと盧蘇を伐とうとしたが、事が発覚し、盧蘇は甲兵を伏せて羅玉を擒にして斬り、諸土目を脅して邦相を攻め、捕らえて殺し、その屍を焼いた。そして陶諧に賄って「邦相は病死して後継がない」と言わせ、芝を立てて田州に帰らせた。
  • そこで猛の次子の邦佐が立位を争い、隣府の諸土官もみな盧蘇が主を弑したことに不平を抱き、兵を合わせて邦佐を助けて田州を攻めて入った。盧蘇は逃れ、乱がまた大いに起こって両江は震え駭いた。陶諧は人を遣わして諸土官に「邦相は実は病死したのだ。盧蘇に何の関わりがあって、お前たちは互いに殺し合うのか」と諭した。
  • まもなく陶諧は憂により去り、都御史の潘旦・蔡経が相次いで代わったが、みな「思恩・田州は兵革に苦しんで久しい。朝廷がいま盧蘇のことで再び問罪の師を興せば、征伐はいつ已むのか」と言った。朝議で実を核べるよう下されると、副使の葉俛と参議の陳大珊は「盧蘇は乱を称して主を弑した。罪をことごとく赦してよいものか。かりに宥して誅さぬとしても、上聞して功を立てて罪を贖わせるべきだ」と言った。
  • 蔡経は聴かず、「邦相は不孝でその母の田を奪い、また部下を虐殺した。盧蘇は衆の怨みに乗じてこれを殺したのだ」と上言した。朝廷はついに盧蘇を不問に付し、なお芝らを旧のとおり官に就けた。これを聞いて両江の土官で解体しない者はなかった。

史論(谷応泰曰)

  • 田州は粤西の南の辺境で、蛮瘴の荒れた僻地であり、軽重を論ずるに足りない。だが後に安南を失うと、議者は次第に田州を南海の外屏と見なし、重きを寄せようとした。
  • 岑氏は代々田州を守ってきた。弘治六年、岑猛の父は逆子に殺され、猛自身は強い隣国に逼られ、間道を奔り走り、刑を存え衛に遷された。朝廷が猛を遇したのは至って厚い。十八年に至って岑濬はようやく首を藁街に懸けられ、正徳年間に猛はようやく旧業を回復できた。黎の子が微かで、重耳が河水に誓ったように、猛が身をもって天朝を扞ぎ旧徳を忘れなかったのは、分としてもっともなことだ。
  • ところが晋の恵公が絳に入って秦との関係を絶ったように、衛が廬を焼かれ漕にあって斉の乱を坐視したように、猛は単騎で軍を棄て、旅先で薬を仰いだ。天が亡ぼしたのである。しかし猛は桀驁が性となっていたとはいえ反の形は現れておらず、追兵が四方から集まってもなお部下に交鋒を禁じ、帛を裂いて冤を書き軍門に状を上ったのは哀れというべきだ。それなのに雲夢に兵を陳べて韓信を捕らえ、陳平が詔を奏して舞陰侯を斬ったようなことになった。
  • 姚鏌は賊を討つのに軽く、降を受けるのに重く、兵を請うのに信じ、対塁するのに疑った。猛は冤死して明らかにされず、姚鏌もまた功名を全うできなかった。猛は国恩に背いて身を殛せられ、姚鏌は軍功を貪って官を奪われた。天道は好く還る。まさに相当したというべきだ。
  • 盧蘇・王受の反にいたっては、釁は本来、姚鏌の失に発したが、さらに新建伯(王守仁)に由るところもあるようだ。新建は思恩・田州の民が兵革に苦しむのを憐れみ、曲げて盧蘇・王受を撫し、岑氏の後を立て、田州の官を設け、陰かに戦功を借りて陽に盧蘇・王受を羈縻した。しかしその挙げた張佑が賄を貪って悪しき者と結び、岑族に禍を播いた。張佑は邦相の毒に斃れ、邦相もまもなく盧蘇・王受の戈に膏となった。沈王が悪を構えて義真が関中を棄てざるをえず、鍾会と鄧艾が相い傾いて姜維が蜀道に反しかけたように、新建の寄託は終わりを全うしなかった。識者はいささか憾みを抱く。
  • しかも張佑の後に督に来たのは陶諧である。邦相が鎮臣を賊殺しても朝廷は寝かせて問わず、盧蘇・王受が州主を執えて殺しても大臣は表向き病死と言った。天南の末郡で天子の寵霊を知らず、拠るところはみな督府にかかっている。張佑が裘を索めて与えられぬと唐侯を拘執し、陶諧に宝賄がしきりに行くと莒僕に党する。処置は舛錯し、刑賞は乖き張り、蛮方に笑いを貽して国体を損なった。君子は、明らかな綱紀の振るわぬことが、まず遠夷において現れるのを知るのである。
  • 要するに、姚鏌の非は反を捕らえるのに急ぎすぎたことにあり、その謀を貽したのは賄を索めた盛応期である。陶諧の罪は賊がありながら討たなかったことにあり、その謀を貽したのもまた賄を索めた張佑である。官が賄を務めれば辺釁は日に急となる。ゆえに皇甫は辺を安んずるに墨吏の免を奏し、仙を奉じ宝を載せた僕固は兵を称した。利を好めば国を亡ぼし、色を好めば身を亡ぼす。古今の亀鑑は誣いではない。